コメントいただきましてありがとうございました。本文にて返答、失礼します。
妙な気候ですが、とりあえず春らしくなってきましたね。
おそらくまちがいなく地球温暖化の進行のため、もはや体感・実感レベルで気候がおかしくなっているのでしょう。
それでも全体としては環境を破壊し続ける行動をいっこうに改善できない、ぼくら人間とはどういう存在なのか?
いや、たしかに宇宙のスケールを考えると気が遠くなります。それに較べてぼくらはあまりに小さい。
かつて宇宙戦争か何かの映画のセリフで「人類は宇宙の“ゴミ”だな」というのがあって、それを見ていた当時は「ううむ、それが冷徹な現実認識というものよのう」と、なにか真理めいて聞こえたものです。
チリのように小さく、汚染を垂れ流す不潔な存在、宇宙のガン、そんなイメージでしょうか。
ところで、さきに書いたそういう驚くべきこの宇宙の「~億光年」という枠それ自体が、どうもいまでも加速度的に拡大し続けているらしいです。
また宇宙に存在するすべては元を辿ればビッグバン以前の極微の“球”にまで行き着くのでした。
するとたんに量的な意味でいうなら、たとえぼくらが戦艦大和や恒星、どころか銀河並みに大きかろうが、たいして違いはないような気がします。
でも「質」ということでいえば、ぼくらが進化の最先端にいるという意味でかなり驚異的な存在であるというのは、いまやかなり正当な自己認識なのではないでしょうか。
ビッグバン以来の、元素の進化、銀河の、星の、太陽系の、地球の、生物の、エコシステムの、ヒト科生物の、人類の社会と文化の、それらひとつながりの進化の流れの結果として、いまここにぼくらがこうして存在するというのは、かなり奇跡的で驚異的なことのように思えます。
それは比喩的に“成果”といっても過言ではないように思われます。
またこの部屋やこの自分の身体自体が宇宙の一部にほかならないわけですね。
「宇宙」というと言葉のもつ自他分離のイメージで、どっか地球の大気圏や太陽系の外縁の外側の虚無のあの空間、という感じがしてしまいますが、現にいまここ、そして私のこの身体は、“存在すべて”という言葉の定義上、まちがいなく宇宙にほかならないはずです。
そうではないでしょうか?
輝く一点のいわば“球”から、驚異的なスケールで今なお拡大する宇宙は、“進化”という明確な方向性によって、その宇宙自身の一部としての太陽系・地球・そしてぼくらを産み出した。
これはじつに壮大で躍動的な、宇宙と私たちの物語です。
しかもそれはなにか神話的思考の産物などではなく、現代科学がその発展とともに明らかにしてきた物語なのですね。それ自身発展・進化する物語。
すくなくともそう解釈する根拠と妥当性があるのは確実です。
たしかに自他そして全体としての人間というのは、行動だけ見ているとイヤで醜いところばかり目につきがちですが、しかし思いっきり視点のスケールを大きくして宇宙大にすると、こういう物語にもとづいて人間はやはり驚異的で美しい存在に見えてきます。
ようはそういう物語に恥じない生き方ができるかどうか。現象的な人類の愚行がどんどん進行する中で、今後、いやおうなくそれが問われてくるように思われてなりません。
以上、すべて受け売りの縮約版。
詳しくはいま私が受講しているブログ授業(右ブックマークより飛べます)過去記事をお読みいただければと思います。
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妙な気候ですが、とりあえず春らしくなってきましたね。
おそらくまちがいなく地球温暖化の進行のため、もはや体感・実感レベルで気候がおかしくなっているのでしょう。
それでも全体としては環境を破壊し続ける行動をいっこうに改善できない、ぼくら人間とはどういう存在なのか?
いや、たしかに宇宙のスケールを考えると気が遠くなります。それに較べてぼくらはあまりに小さい。
かつて宇宙戦争か何かの映画のセリフで「人類は宇宙の“ゴミ”だな」というのがあって、それを見ていた当時は「ううむ、それが冷徹な現実認識というものよのう」と、なにか真理めいて聞こえたものです。
チリのように小さく、汚染を垂れ流す不潔な存在、宇宙のガン、そんなイメージでしょうか。
ところで、さきに書いたそういう驚くべきこの宇宙の「~億光年」という枠それ自体が、どうもいまでも加速度的に拡大し続けているらしいです。
また宇宙に存在するすべては元を辿ればビッグバン以前の極微の“球”にまで行き着くのでした。
するとたんに量的な意味でいうなら、たとえぼくらが戦艦大和や恒星、どころか銀河並みに大きかろうが、たいして違いはないような気がします。
でも「質」ということでいえば、ぼくらが進化の最先端にいるという意味でかなり驚異的な存在であるというのは、いまやかなり正当な自己認識なのではないでしょうか。
ビッグバン以来の、元素の進化、銀河の、星の、太陽系の、地球の、生物の、エコシステムの、ヒト科生物の、人類の社会と文化の、それらひとつながりの進化の流れの結果として、いまここにぼくらがこうして存在するというのは、かなり奇跡的で驚異的なことのように思えます。
それは比喩的に“成果”といっても過言ではないように思われます。
またこの部屋やこの自分の身体自体が宇宙の一部にほかならないわけですね。
「宇宙」というと言葉のもつ自他分離のイメージで、どっか地球の大気圏や太陽系の外縁の外側の虚無のあの空間、という感じがしてしまいますが、現にいまここ、そして私のこの身体は、“存在すべて”という言葉の定義上、まちがいなく宇宙にほかならないはずです。
そうではないでしょうか?
輝く一点のいわば“球”から、驚異的なスケールで今なお拡大する宇宙は、“進化”という明確な方向性によって、その宇宙自身の一部としての太陽系・地球・そしてぼくらを産み出した。
これはじつに壮大で躍動的な、宇宙と私たちの物語です。
しかもそれはなにか神話的思考の産物などではなく、現代科学がその発展とともに明らかにしてきた物語なのですね。それ自身発展・進化する物語。
すくなくともそう解釈する根拠と妥当性があるのは確実です。
たしかに自他そして全体としての人間というのは、行動だけ見ているとイヤで醜いところばかり目につきがちですが、しかし思いっきり視点のスケールを大きくして宇宙大にすると、こういう物語にもとづいて人間はやはり驚異的で美しい存在に見えてきます。
ようはそういう物語に恥じない生き方ができるかどうか。現象的な人類の愚行がどんどん進行する中で、今後、いやおうなくそれが問われてくるように思われてなりません。
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それにしても、「コスモロジー」、しっかり自分の人生観に反映されてますね。
相変わらず、卓越した文章力にも感服です。
それでは~
いや~、正直言ってせっかくのコスモロジーがまだまだおさまりきっていないような気がするんですよ。そういう思いが自然に湧いてくるような心の循環パターンがしっかりできていないと。そのためには能動的にそのことを思ってみること。だから書くことで人にも伝えられ、自分にとっても心に刻み込むという意味があると思ってやってみました。それでは!