愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

2011年「自発縁社会」へ

2010年12月27日 | 日々雑記
さきほど南海放送ラジオへの電話出演終了。今日の番組のテーマは「私はここに居るよ」。2010年の流行語「無縁社会」との絡みで葬儀や墓の現状について少しコメントした。今年を締めくくる話で「無縁社会」・葬儀・墓を話題にすると、暗くて沈みがちな雰囲気になってしまう。なるべく明るい、前向きな話題へつなげようと思い、2010年は「無縁社会」という言葉が流行ったが、その状況を前向きに捉えた「自発縁社会」という言葉を紹介した。

「自発縁社会」とは、同じような価値観を持った人(非血縁・非地縁・非社縁)との自発的な付き合いの中で生きがいや自己のアイデンティティを見いだしていこうというもので、縁の自発的な構築に視点を向けた社会のあり方である。

「無縁」つまり「縁」が無いのであれば、自らが属性を選び、縁を構築していくという「自発縁」。そもそも「無縁社会」という言葉で物事のすべての結論とするのも可笑しな話で、例えば、「限界集落」という言葉にしても「限界」というレッテルを貼られるとそれで集落は終末かといえば必ずしもそうではないし、「駄目な人間」と烙印を押されても、前向きな行動があれば、永劫に「駄目」であるわけではない。現在が「無縁社会」であるという烙印は、社会の趨勢を無視した乱暴であり、一面的な用語である。2011年は「無縁社会」の言葉を克服して「自発縁社会」というべき時代の流れに目を向けるべきだと思う。

葬儀も墓も伝統的な慣習は薄れているが、それは現代の人々の自発的な選択であり、自らの死に方を生きている間に考えて選択するという時代になっている。死に方を見つめることは生きることを見つめなおすことにもつながる。「無縁社会」という言葉だけで片付けられる問題ではなく、この言葉の乱発に少し憂慮してしまう2010年の年末である。


吉田町の旧松月旅館

2010年12月27日 | 日々雑記
宇和島市吉田町魚棚に、吉田藩の御用商人だった高月家の建物が現在でも残っている。一部は国安の郷に移築されているが、残った部分は昭和9年から「松月旅館」として使われ、詩人の野口雨情が宿泊するなど多くの著名人がここを訪れている。

この江戸時代の建築の建物。私は2年前に家主や地元の関係者の方々のご好意で見学させていただいたことがある。南天の床柱や豪華な欄間、そして野口雨情ら著名人の直筆の書などだけではなく、江戸時代の建築材(釘など)も保管されており、江戸時代から昭和にかけての吉田の歴史を語り継ぐ上で非常に貴重な文化遺産だと驚かされた。それ以降、知人やグループで吉田の町並みを見学する方々を外から案内したりしてきたつもりである。

しかし、なかなかこの松月旅館の文化遺産としての価値が世間に浸透していかないもどかしさも感じていた。これは家主や松月旅館の保存を支援する方々の共通の思いでもあったと思う。

実は、今日の愛媛新聞の朝刊に、この松月旅館の記事が出ている。「旧松月旅館存続の危機」「築200年傷み激しく」「観光資源 住民が保存運動」。このような見出しが紹介されている。地元の方々がガイドボランティアを結成し、これから一人でも多くの人に旅館を見てもらって、住民を巻き込んだ活動をすすめていくという記事である。

これまでも吉田の町並みのガイドは行われていたが、松月旅館に注目した新聞記事は初めてである。今回の記事は、松月旅館のことが広く知れ渡るきっかけになるのは間違いない。これが県や市などの公的機関からの情報発信ではなく、地元のボランティアの動きからの発信。吉田の町並みは、内子・大洲・卯之町・岩松に比べて素材は豊かであるが、住民主体の町づくりの動きが少なかったため、今回の動きは歓迎すべきことである。

松月旅館の詳細については、後日再度、紹介したい。




伝説「五色浜の石」

2010年12月27日 | 口頭伝承
毎年3月第4日曜日に行われている五色姫復活祭。伊予市商業協同組合・五色姫復活祭実行委員会の主催で平成元年から行われている。この五色姫、源氏に敗れた平家の姫たちが伊予市の五色浜に住みつくも、悲劇の末、入水してしまい、五色の海岸の小石になったという地元の伝説が基になって、復活祭が実施されるようになったものである。『松山百点』265号(2009年)に「愛媛に伝わる姫物語」という特集が組まれており、私もインタビューを受けて、愛媛の姫物語の特徴などを紹介したが、この中で伊予市の五色姫についても少し触れたことがある。また、五色浜の伝説は『伊予市誌』にも紹介されている。しかし、この伝説は地元伊予市でも知られているようで案外知らない人も多い。それは内容があまりにも残酷で悲劇的だからである。姫の復活という華やかなイメージとは程遠い話であり、多くの人が目にする広報媒体には、もとの伝説が触れられることが少ないようである。

ここでは、あえて『伊予市誌』に掲載されている伝説「五色浜の石」を、そのまま紹介しておきたい。それはこの伝説が「五人の貴人の姉妹(兄弟)の争い」という骨子で成り立っており、この五人の争いは「陰陽五行」の「五行」に関する伝説に関わってくるなど、日本の思想史や宗教文化論の題材として貴重といえるからである。例えば、愛媛県内をはじめ全国各地の民俗芸能の「神楽」でも五人の王子が争って、春夏秋冬の四季に土用を加えることで時を五等分したという話があるなど、この五色姫に類する伝説は近世以前の中古・上代的要素が強いのではないかと推察している。



「五色浜の石」(『伊予市誌』1076〜1078頁、1986年)

寿永の昔のことである。「おごる平家久しからず」のことばそのままに、さしも栄えに栄えた平家が運つきて遂に源氏のため、はかなく西海の藻屑と消えてから間もない頃であった。ついぞこの辺りには見かけない五人の美しい姫たちがどこからともなく流れて来て、この砂浜にささやかな住居を作って暮らしていた。付近の人々は「あのお姫さんは皆お顔がよく似ている。御姉妹かもしれない」「羽衣をなくして飛ぶことを忘れた天人ではあるまいか」「いや、さき頃壇の浦で亡んだ平家のお姫さんたちに違いない」などといろいろうわさをしていたが、姫たちは五人とも決して村人と口をきかないので、それを確かめることはできなかった。

ある日、一匹のかにが濡れた背を赤く光らせながら浜辺をはっていた。ふとそれを見た一番年上の姫は、「まあきれいなかにだこと・・・。お前は平家のかにでしょう。平家の赤い御旗が夕日を浴びて、お前のように真赤に輝いている間は・・・。それにつけても憎いのは源氏です。お父様もお兄様も、あの荒荒しい源氏のためにあわれな御最期を遂げられたのです。赤い平家のかにがいるからには、きっと白い源氏のかにもいるにちがいない。ああ源氏のかにはどこにいるのでしょう。あの白い源氏のかには・・・」と、はるか海のかなたを見つめて気が狂ったかのように叫びつづけた。そして、驚いてかけ寄った四人の妹を見るなり、赤く血走った眼をそそぎながら鋭い声で「お前たちは早く源氏のかにを探しておいで。わたしはそのにくい源氏のかにを踏みつぶしてやるから」といいつづけた

四人はいいつけられたとおり一日中探したが見つかるのは赤いかにばかりで、白いかには一匹も姿を見せなかった。あくる日もその次の日も朝から晩まで四人は浜へ出て砂を掘ったり石をおこしたりして一生懸命探したが駄目であった。七日目の夕方、もどかしそうに妹たちの帰りを待っていた姉姫は、疲れきってしおしお帰って来た妹たちを見て「四人がかりで一匹のかにが探せないのはどうしたのですか。恐らく一日中遊んでいたのでしょう。さあ、もっと探しておいで・・・」と、言葉厳しく叱った。

夏の夜の海は潮がいっぱいなぎさに満ち、月がぼんやり波間を照らしていた。姫たちは夜どおし白いかにを探してまわったが、やっぱり見つけることはできなかった。四人はそのまま帰ることもできないので、相談の結果、赤いかにに白粉をつけて持ち帰ることにした。「お姉様、お喜びくださいませ。源氏のかにが見つかりました。」そういって差し出した白いかにをじっと見つめていた姉姫はやがて気味悪い笑みを浮かべ、あたりを見回して手をさし延べ、かにをつかむのが早いか庭の手水鉢へ投げ込んだ。するとかにの白粉はたちまちとけてもとの赤いかにになってしまった。それを見た姫はそばにあった刀をとると一番末の姫に切りつけた。この恐ろしい有様に三人の妹姫は「あれ・・・」と叫んで外へ走り出た。そして「お姉様どういたしましょう。もう帰ることはできないし・・・」「三人いっしょにこの海に沈んで、お父さまやお兄さまのお側へ行きましょう。」と中で一番年上の姫が目に涙をいっぱいためて言った。そこで三人はしっかりと抱き合って暗い波の底へ沈んでしまった

その夜一人残った姉姫は、殺した妹の死がいを抱いて「憎い源氏を討った」と叫びながら浜辺をかけ回っていたが、やがてとある岩の上に立って「ああ、あそこに妹たちがいる。」といってそのまま海へ飛び込んだ。月は早くも西に落ちてあとにはただなぎさを洗う波の音だけが暗闇やみの中にしていた。

こうして亡くなった五人の姫たちが、それぞれ赤・緑・黄・黒・白と五色の小石に化したのであるという。五色浜には今も美しい五色の小石がある。


以上が『伊予市誌』に掲載された文章である。