さきほど南海放送ラジオへの電話出演終了。今日の番組のテーマは「私はここに居るよ」。2010年の流行語「無縁社会」との絡みで葬儀や墓の現状について少しコメントした。今年を締めくくる話で「無縁社会」・葬儀・墓を話題にすると、暗くて沈みがちな雰囲気になってしまう。なるべく明るい、前向きな話題へつなげようと思い、2010年は「無縁社会」という言葉が流行ったが、その状況を前向きに捉えた「自発縁社会」という言葉を紹介した。
「自発縁社会」とは、同じような価値観を持った人(非血縁・非地縁・非社縁)との自発的な付き合いの中で生きがいや自己のアイデンティティを見いだしていこうというもので、縁の自発的な構築に視点を向けた社会のあり方である。
「無縁」つまり「縁」が無いのであれば、自らが属性を選び、縁を構築していくという「自発縁」。そもそも「無縁社会」という言葉で物事のすべての結論とするのも可笑しな話で、例えば、「限界集落」という言葉にしても「限界」というレッテルを貼られるとそれで集落は終末かといえば必ずしもそうではないし、「駄目な人間」と烙印を押されても、前向きな行動があれば、永劫に「駄目」であるわけではない。現在が「無縁社会」であるという烙印は、社会の趨勢を無視した乱暴であり、一面的な用語である。2011年は「無縁社会」の言葉を克服して「自発縁社会」というべき時代の流れに目を向けるべきだと思う。
葬儀も墓も伝統的な慣習は薄れているが、それは現代の人々の自発的な選択であり、自らの死に方を生きている間に考えて選択するという時代になっている。死に方を見つめることは生きることを見つめなおすことにもつながる。「無縁社会」という言葉だけで片付けられる問題ではなく、この言葉の乱発に少し憂慮してしまう2010年の年末である。
「自発縁社会」とは、同じような価値観を持った人(非血縁・非地縁・非社縁)との自発的な付き合いの中で生きがいや自己のアイデンティティを見いだしていこうというもので、縁の自発的な構築に視点を向けた社会のあり方である。
「無縁」つまり「縁」が無いのであれば、自らが属性を選び、縁を構築していくという「自発縁」。そもそも「無縁社会」という言葉で物事のすべての結論とするのも可笑しな話で、例えば、「限界集落」という言葉にしても「限界」というレッテルを貼られるとそれで集落は終末かといえば必ずしもそうではないし、「駄目な人間」と烙印を押されても、前向きな行動があれば、永劫に「駄目」であるわけではない。現在が「無縁社会」であるという烙印は、社会の趨勢を無視した乱暴であり、一面的な用語である。2011年は「無縁社会」の言葉を克服して「自発縁社会」というべき時代の流れに目を向けるべきだと思う。
葬儀も墓も伝統的な慣習は薄れているが、それは現代の人々の自発的な選択であり、自らの死に方を生きている間に考えて選択するという時代になっている。死に方を見つめることは生きることを見つめなおすことにもつながる。「無縁社会」という言葉だけで片付けられる問題ではなく、この言葉の乱発に少し憂慮してしまう2010年の年末である。