愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

縄なう~注連飾り大会~

2010年12月28日 | 日々雑記
正月準備で自宅用の注連飾りを作った。縄Nowならぬ縄綯う。毎年の恒例のように近所の子どもたちも集めてみんなで挑戦。藁は昨日、卯之町の注連飾り製作グループから分けていただいた。あとは山にウラジロを取りにいって、カブス(橙)は店で購入すれば完成。小学低学年の子どもたちも綯うことをマスター。

吉田町の旧松月旅館2

2010年12月28日 | 日々雑記
松月旅館は、旧吉田藩の御用商人高月家(法華津屋)の建物を、昭和9年から昭和60年頃まで旅館として使用していたものであり、吉田町を代表する歴史的建造物である。

松月旅館の一部(安政6年・江戸時代末期建築)は、すでに平成に入って「吉田ふれあい国安の郷」(旧吉田町時代に建てられた歴史資料館的施設)に移築され、保存されている。

私が吉田町の旧松月旅館にうかがったのは2008年9月であった。地元の県議より県南予地方局長に一度建物を見てほしいとの依頼があり、地方局や市役所で相談したらしいが、結局、私のところに話が来て現地を訪問することになった。建築の専門家ではないので、現況を確認するという目的での訪問だった。

所蔵者の意向としては、旧松月旅館の歴史的・建造物的価値を周囲に知ってもらいたいことと、現在、建物自体が傾斜している箇所があったり、白壁の漆喰(うだつ部分)が剥落したりしている箇所が出てきている状態であり、何とか建物を保存したいという思いがあり、それに呼応して、吉田史談会の会員の方々等が、今後の保存・活用について模索していた状況であった。

私の立場では建造物的価値は判断することは難しいが、吉田藩御用商人の高月家(法華津屋)の居宅であった建造物であり、ふすまの下貼りから出てきた古文書なども確認されており、旧松月旅館が江戸時代から近代の吉田の歴史を語る上では貴重な歴史遺産であることは間違いないといえる。

その訪問時に強く感じたのは、旧松月旅館を保存・活用するには、住民の草の根の活動も必要だということである。現在、吉田史談会の会員等の理解者もいるため、吉田町内で保存・活用を目的とした住民グループが活動を開始することも重要であるとの感想を持った。

以下、当時の訪問時の旧松月旅館に関するメモを紹介しておく。

吉田藩御用商人の三引高月家(法華津屋)の本邸を、昭和初期に現所蔵者の先祖が購入し、昭和9年から旅館経営を開始している。同年には、野口雨情の宿泊し、雨情直筆の掛軸も残されている。

現在、保管されている歴史資料のうち、歴史的価値が高いと思われるものに、ふすまの下貼りから出てきた古文書類(法華津屋関係)がある。また、栗田ちょ堂や高月虹器といった江戸時代後期の伊予にて著名な俳人(文化人)の資料も保管されている。なお、近代のものとしては、野口雨情(作詞家・詩人)、後藤新平(政治家)、尾崎行雄(政治家)、高月紫明(吉田出身)、長谷川竹友(松山出身)等の書画が保管されている。

所有者によると、旧松月旅館は、豊臣秀吉の築城した伏見城を移築したものと説明しており、屋敷入口の案内看板にも、そのように記載しているが、史実か否かは、今後検討を要する。

所有者の説明では、元和3(1617)年に伏見城内黒書院が宇和島城の三の丸に移築され、これが宝暦13(1763)年に吉田藩の御殿として移築され、さらに明和2(1765)年に旧松月旅館(当時高月邸)として移築され、現在に至るという。(なお、安政年間に増築された部分は、合併前の吉田町の時代に「吉田ふれあい国安の郷」に移築・保存されている。その際に、建築の専門家が立面図・平面図を作製しており、建造物としての価値についても判断しているようである。)

この「伏見城移築説」については、元宇和島市立伊達博物館学芸員・現伊達博物館長、旧吉田町教育委員会学芸員に確認すると、現在のところ、それを裏付ける史料(第一次史料)は確認できないが、言い伝えとしては多くの人が知っているということであった。

念のため、宇和島藩の公式記録である『秀宗公不審抜書』(天明8年編纂)を確認してみると、以下の記事が掲載されている。

「同(元和)三丁巳年 秀忠公ヨリ伏見御城千畳鋪御殿、秀宗拝領之。三之丸ヱ引建ル。(中略)(朱)此ヶ条、月日未相知候付、未記之。」
「右者、江戸之旧記之趣ヲ以テ記之。亦一説ニ冨田信濃守時代拝領トモ申伝有之。何レカ実否未分明。」
 
 以上のように、宇和島藩としても、天明8(1788)年段階ですでに公式記録において、伏見城を三の丸に移築したことは、一次史料ではなく、二次資料(伝聞資料)である「江戸之旧記」に拠っており、実否もわからないと記している。(明治10年代に編纂された宇和島藩の公式記録『伊達家御歴代事記』では、『秀宗公不審抜書』の前半記事をそのまま引用し、「実否未分明」の記述は省略されている。このため、宇和島に伏見城を移築した話が定着したと思われる。)

このように、旧松月旅館に、伏見城の遺構が残されているという話は、史実かどうか、古文書、古記録から検証することは難しく、今後の検討課題といえる。

ただし、伏見城の遺構か否かは別として、現在残されている旧松月旅館の座敷の天井高などは、庶民の建造物とは考えにくい部分があり、吉田藩の御殿を移築したという話は、真実味がある。ただし、明治時代初期に吉田御殿を解体する際に、三引高月家(法華津屋)が関与していたという伝承もあり、その移築年代が宝暦年間か否かは、今後、検証が必要である。

建造物としての価値は私では判断しかねるが、旧松月旅館の茶室控間の床柱の材は南天といわれ、約10センチ(3寸弱)の太さがある。南天の床柱は全国的にも珍しく(南天が10センチ近くの太さになるには数百年必要)、本当に材が南天と確認できるのであれば、この建物が、庶民(単なる町民)の建てたものではないことを証明する材料になる。

以上のように、旧松月旅館に関しては、史実と伝承が混在している部分があり、建築学や、家材(南天・屋久杉・黒柿)の特定といった自然科学の調査も併せて行うことで解明できる点も多いといえる。

これまで、その存在は知られていたが、内部はほとんど公開されることはなかった旧松月旅館。地元のボランティアガイドの活動が本格化し、多くの人がこの建物の歴史と、保存の現況を認識し、今後の保存についての具体的な議論ができる時期が来たと実感している。