うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

ぼやきの日々の年代でしょうか、

2014年05月17日 06時26分16秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
しょうもない話題をネタにして、このごろの心境を書く。
 連休も明けて晴れや少雨と寒暑の温度差のある天気がつづく。暦の上では、5月5日の立夏は早も過ぎて、5月21日の小満が近づく。今年は寒の戻りは少なく、なんだか走り梅雨の気配もする。ここ関東の地での今年の天候の推移は、街の オオムラサキツツジ※1、サツキツツジ※2 などの植物の咲き具合を見ると、どうやら、やはり最低でも、平年よりも一週間は遅れている。わたしの60何年の経験で、そう思う。
 ≪オオムラサキツツジ※1・・・クルメツツジの1園芸品種「大紫」。サツキツツジ※2・・・原種サツキツツジの中の1園芸品種「大盃」。≫
 TVでは気象予報士が鹿爪らしく天気予報をたてるが、頭のみの気象分析よりも、日常に見る身近な植物の方が人間様よりも正直である。
 新しい業務に着こうといまだ落ち着けないでいるのだが、老人特有の病気の為に毎日の服薬と、来月に決まった目の白内障手術にすっきりしない日々が続いている。コンビニへ煙草を買いに行くには往復40分は歩いたり、庭に出ての作業を時たまにするが、疲れやすくて多少は体力が落ちている気がする。

 まあ、わたし自身は若いころからなにごとも初めは物事を全て呑みこみ信じる方であるが、そのくせ、いつも裏切られる。その繰り返しで生きてきた。要領の良さは唾棄してきた。無論、あまり賢いとは言えないが、これがわたし自身の性格であるなら自他共に耐えたりお願いするしかない境遇と言える。しかし、老年特有の世間に対する猜疑心も持ち合わせていることを自認するにしても、立場のみの仕事、くだらない学歴や他からの受け売りの知識はまやかしであり、自分自身のみの感じ方や考え方を持っていないと、どうにも意味がないようである。老いてくれば、個人の中で社会的なたてまえや見栄よりも中身に直面し、内面的な意義や価値が大事になってくる。

 わたしの年齢では半ば以上は仕事的に現役をリタイアしていて、身近にも家庭内生活を過ごす人が多くいて、ああ嫌だなあ・・・・・と思う。何のために生きてきたのか!?、定年のある仕事以外にやりたいことはなかったのか?、などと他人ごとのように思う。
 だが、こんな感じ方を医学的にレッテルを貼れば、老人性鬱病と言うのであるらしい。
 ちょっと、理屈っぽくなったが、わたしもなにかいいことはないかな?、とたまには思うが、僥倖はいつも突然くる。(おっと、不幸もだが・・・。)
 おしまい。
           
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山吹のひと枝

2014年04月14日 05時44分03秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
これはわが庭の、山吹 のひと枝。わたしの好きな花だ。
 以前は、造園の仕事柄、植栽計画では低木の配植上はよく 雪柳(ゆきやなぎ) や 下野(しもつけ) をかたまりで隣り合わせて植えた。しょせん、樹木図鑑を見ての頭でっかちの知識、なんとなく馬鹿のひとおぼえに近い。プラン上は自然を模倣することが前提なのは言わずもがな、である。どうやら自生的にはあり得ない自然と、わたしはあとで気付く。現実的に実際、これらの植物の生育の自然環境を問われれば植生上はあり得ない。
 山吹 の配植方法に納得いくようになったのは、わたし自身の故郷、東北の実家の小さな流れである沢沿いに多かった幼い記憶をたどってからである。が、帰郷時には季節が合わずいまだ実見していない。

 流行歌では“北国の春”の歌詞に近い。まるごと望郷のイメージだ。歌手は田園の小父さんよろしき粗野な風貌をした 千昌夫 だが、透明感のある高音を張り上げて顔がくしゃくしゃになって歌う姿に、わたしは時に不覚にも落涙する。なぜか、あの隣国の中国では愛唱歌として好まれている。どうやら、故郷への思慕とか、過ぎていった追憶のほとばしる心情が絶叫しているのだろう。
          
撮影日時:平成26年 4月12日(土曜日)11:00分頃

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「北国の春」いではく作詞・遠藤実作曲

白樺(しらかば) 青空 南風
こぶし咲くあの丘 北国の
ああ 北国の春
季節が都会ではわからないだろうと
届いたおふくろの小さな包み
あの故郷(ふるさと)へ帰ろかな 帰ろかな

雪どけ せせらぎ 丸木橋
落葉松(からまつ)の芽がふく 北国の
ああ 北国の春
好きだとおたがいに言いだせないまま
別れてもう五年あの娘(こ)はどうしてる
あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

山吹(やまぶき) 朝霧 水車小屋
わらべ唄聞こえる 北国の
ああ 北国の春
兄貴も親父(おやじ)似で無口なふたりが
たまには酒でも飲んでるだろか
あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

 以下にWebで拾った分類上の知識を付す。
●ヤマブキ(山吹、棣棠、学名:Kerria japonica)はバラ科ヤマブキ属(本種のみの一属一種)の落葉低木。黄色の花をつける。春の季語。
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風天・渥美清のうた

2014年03月12日 05時50分58秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
今回のネタは山田洋次監督の松竹映画 ≪男はつらいよ!・・・≫を取り上げる。「男はつらいよ・・・寅さんDVDマガジン」である。やっと、この講談社のシリーズも蒐集が終わる。内容は映画館上映作48作にテレビ版などを加えて全50巻になる。
 この映画は一年に二度、夏休みとお正月に向けて上映、そして、渥美清の体調に合わせたもので後半は年に一回の割合になってきた。俳句は、50回の配本ごとにその都度一句ずつが掲載された。
 あまり意味があるとは思えないが、ここでは労をいとわず、斯界では由緒ある出版社の角川書店の 「俳句歳時記」昭和49年版 にならって季節ごとの分類をしてみた。
 俳句はわたしの場合は、一茶 や 芭蕉 ではなく 与謝蕪村 が好きである。和歌は 会津八一 を良しとする。育った東北の田舎が短歌や俳句づくりが比較的盛んな山村の土地柄のせいで、上京以来、結婚し子供ができて小学校入学の30歳台頃からわたしも詠みはじめた。最近はこのブログにも駄句を掲載している。どうしても、わたしのテーマは日常の四季感を表現することになるが、しょせん、下手の横好きの産物である。満足できるのは記憶に残る数句ぐらいだ。
 渥美清は、種田山頭火 の自由律が好きだったそうだ。多分、どこかの出版社で句集が発刊されているだろうが、生活上の体温が尾を引く口語体の句作であり、虚実をまとって装う浮草稼業である俳優業のさなかに渥美清、本名の 田所康雄 の口吻が感じられてなかなかの完成度だ。
 そういうわけで、ここでは季語ごとに集めてみる。一挙に50句を掲載、どうぞ、その詩境を味わっていただきたい。

風天・渥美清のうた

無季
 ・ポトリと言ったような気がする毛虫かな

 ・そのはねであの空飛んだか置物の鷹

 ・ひとり遊びなれし子のシャボン玉

 ・お遍路が一列に行く虹の中

 ・そば食らう歯のない婆(ヒト)や夜の駅

 ・うなだれし柳と佇む新内流し

 ・山吹キイロひまわりキイロたくわんキイロで生きるたのしさ

 ・豆まきもたねまきも家に居ずおそまきに泣く不孝者

 ・夢で会うふるさとの人みな若く

 ・初めての煙草おぼえし隅田川

 ・流れ星ひとり指さし静かなり 

 ・さくら幸せにナッテオクレヨ寅次郎



 ・たけのこの向こう墓あり藪しずか

 ・なが雨や銀の帯ひく蝸牛

 
 ・花道に春雨や音もなく

 
 ・うつり香のひみつ知ってる春の闇

 
 ・ひばり突き刺さるように麦の中

 
 ・がばがばと音おそろしき鯉のぼり

 
 ・花びらの出て又入るや鯉の口

 
 ・天道虫指先くすぐりあっちへ飛んだ

 ・雨蛙木々の涙を仰ぎ見る

 ・いつも何か探しているようだナひばり



 ・蛍消え髪の匂いのなかに居る

 ・さざ波のプール校舎にひとの無く

 ・日の落ちて蠅逃げるように鳴く残暑

 ・やわらかく浴衣着る女の微熱かな

 ・汗濡れし乳房覗かせ手渡すラムネ

 ・あわびかみおくばのいたむ海の家

 ・すだれ打つ夕立聞くや老いし猫 

 ・うつり香の浴衣まるめてそのままに


 ・閉ざされし茶亭のすだれのほつれかな

 ・コスモスひょろりふたおやもういない

 ・蓋あけたような天で九月かな

 ・小春日や柴又までの渡し船

 ・蒼き月案山子に命やどすよう

 ・ゆうべの台風どこに居たちょうちょ

 
 ・赤とんぼじっとしたまま明日どうする

 ・いまの雨が落としたもみじ踏んで行く

 ・おふくろみにきているビリになりたくない白い靴

 ・大根のサックリ切れて手の赤く

 ・ベースボール遠く見ている野菊かな

 ・村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ

 ・雛にぎるように渡すぶどうひと房



 ・鍋もっておでん屋までの月明かり

 ・好きだからつよくぶつけた雪合戦

 ・冬の蚊もふと愛おしく長く病み

 ・ただひとり風の音聞く大晦日

 ・冬めいてションベンの湯気ほっかりと


新年
 ・年賀だけでしのぶちいママのいる場末

         
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ショートホープの箱が変わる

2014年03月03日 05時31分55秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
わたしは煙草を吸う。自慢ではないが愛煙家人生も45年ぐらいになるか、タスポカードが出た時期に4箱と半は吸っていたので、毎日50本は吸っていた勘定になる。ヘビーでチェインスモーカーだった頃になる。しかしその後、健康を気にし禁煙しようとした訳でもないのだが、その場が狭められたせいで、今じゃ、20本いくかどうかにまで減ってきた。
 18歳頃はハイライト、ショートピース、と変わり、20代中ごろからショートホープと好みは落ち着いてきた。成分はきつくて タール14mg、ニコチン1.1mg とある。
 結婚以前から家内も喫煙していたがこのタイミングでやめた。今ではわが家庭で、わたしひとり。世間ではかつてのことは信じられない話になったが電車内も駄目で飛行機中も禁煙になったり、電車のホームの喫煙所もなくなった。歩けば街の煙草の自動販売機も撤去されたりして、主要な公共場所にはリタイヤした老人による監視員が警戒にあたる。なんだか、陰湿で滑稽な世の中になった。
 東日本大震災の起きた時期には関東では4月以降手に入らなくなり、復活したのは初夏の7月ぐらいだったか。その一年後の4月、民主党の女性厚生労働省大臣の主導で値上げされた。一箱、¥220.になる。どうも、この4月の消費税率改訂によりまたまた値上げされるらしい。
 ところで、この2月に箱を開いていたらパッケージデザインが変わる予告が記されていたのだが、あれっと気付いた。そんなに大変わりではなく、文章も平仮名が多く、表面の喫煙自粛の健康表示も変わっていない。ショートホープの箱が変わったのだが、表面はその通りだが、キャラメル箱(B式箱)の中箱には蓋と底面に、こんな風に素人のコピーまがいの宣伝文章が書かれている。しかし、これでは、逆の内容になるのではないか。

 “太く、短い。だから濃くて、うまい。”

 “デザインが変わった。しかし、取り出した1本に火をつければ、いつもと何も変わらないことに気がつくだろう。ガツンとキレのある吸い応えも、その存在感も。”

 最後になったが、禁煙の問題、わたしの気質ではいくら社会の風潮がそういうことになってもなびかない。意味のない付和雷同をもっとも嫌う。物にはすべからく良悪の二面がある、多数が正しいとは限らない。これからも煙草銭に事欠かない限り、わたしは吸い続けていくことだろう。

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老境五句、戯れ言風にて・・・

2014年02月22日 04時36分32秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
 ・飛行機雲 いつかはきっとと思いつ六十路かな

 ・目もかすみ 足もよろけつ 春近し

 ・騒ぐ世に あくびとため息のみ 繰り返し

 ・鼻水も くしゃみ眼やににも 老いて春

 ・偽りも馬鹿も見えたる世に 水温む
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春の花、五句

2014年02月21日 05時07分34秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
 いつもの、朝、長時間通勤の最後の乗換え駅で、電車を待つ間、戯れに妄想心に駆られ、かすかな口吻の次に発句を得る。その間、数分間。安直ながら記してみる。歳をとっておどろく物事も少なくなってきている身上だが、何十年振りかのたび重なる雪降りの後にも時日は過ぎていく。暦の上では「雨水」から「啓蟄」へ、句は、わが家の身近な春の花を題材にしてみた。爽春はまだか。

 ・薄日射しミモザも咲かば 一合瓶

 ・ゆきやなぎ ひとつぶひとつぶと開きおり

 ・深紅に黄やうす青のパンジー咲く

 ・南風 さくら草も咲いている

 ・蠟梅も 棒の先に黄金こぼれる
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立春の日に詠む

2014年02月12日 04時08分01秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

  立春の日に雪降りて、
 ・朝日立つ しろがねを撒き出し 今いづこ

 ・漆黒の 夜寒に起き出ずふるさとをおもう

 ・俯きて 䔥々と降りつ 灯ともる

 ・裸木に目白たわれむ 春日射し

 ・膨らむ芽 春を待つらむゆきやなぎ

 ・日輪にあかね雲 胸躍り
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2月の雪

2014年02月08日 07時57分29秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
 1月の正月明けに細かい粉雪が初雪だったかが、人工的に紗をまぶしたようにキラキラ光る雪が舞った。次いで、隣家の庭では羽全体が萌黄で薄茶色の胸と腹をした 目白 が飛来、わたしにとっては初見だった。
 ところで、これは先日の雪。2月4日は立春の日である。朝から雨で次第に正午過ぎに大気は冷え込んでくると細かいふわふわした雪になる。それからあっという間もなく綿状に謂集した小さな白塊になった。
 わたしたちの地域では珍しいので画像でアップする。翌日の朝の6時半頃、忙しい仕事の出がけに撮影した。

        
 わが家の北西側には‘山武杉’が植林されている。この杉は千葉県産の品種で、伝染性の赤枯溝腐れ病に罹り木材の商品化は断念したもの。だから、間伐などの手入れは放棄していて、今では林地が荒れ放題になっている。構図は林冠のラインと空の青さ、黒白の単彩色と青空になる。
        

        
 昔の田舎、旧正月には水木の赤い枝先(冬芽)に小さな丸餅を挿して祝った。この樹木は柿とフェイジョアだ。着雪の光景も当地ではなかなか見られず珍しい、これはなんだか餅花のようだ。
        

        
 二階のベランダからのショット写真。この方角に、明けの明星と北斗七星が見られる。今を盛りと花が咲いていた千葉県名産の枇杷の木も雪帽子をかぶる。
        
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わが家の家族、イブちゃん

2014年01月30日 05時53分13秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
この間、「大寒」も過ぎてもうすぐ2月の暦になる。昼日も長くなる。
 今日はわが家の家族を紹介する。去年の12月に来てからほぼ一か月、チンチラ系の親の下で五つ子で生まれた子猫である。生後三か月だ。今回の命名は家内で、名前は「イブ」という。クリスマスの前々日に来たので雄なのだが、そういうことになった。当地に引っ越した直後に飼い始めたが突然失踪した「ペン太」、4,5年前に病名不明で急死した長毛種の「ボン」に次いで、今回で三代目になった。とりあえず、このサイトに初お目見えさせることにする。
 これは、ミニ書斎のチェアに座る朝早いヘンテコ親父の膝の上である。
          

          
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讀賣新聞の「時代の証言者」ー藤森照信

2014年01月25日 07時41分24秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

 現在、讀賣新聞には「時代の証言者」ー藤森照信が朝刊に掲載されている。藤森は擬洋風建築の研究家か趣味者であるらしい。掲載は金曜日と日曜日を除く毎日で、株式、スポーツ、社会面に次ぐ、読者投書欄にあり、40ページ内外の真ん中辺である。わたしは気に入るとスクラップにして保存する。多分、談話風に取材し記者がまとめたものか。
 わたしは長年、讀賣新聞をとっているが、このコラム記事は割合いに読む記事だ。大体、連載物25回くらいの長さで、色んな人物が登場する。政治家も多いのだが、わたしにとって面白かったのはいろいろと政界で毀誉褒貶のあった与謝野馨だ。この方は目先の利く大変な実務型の才能の持ち主であるが、その反面、同僚から嫉妬されやすく単独行動を強いられる性格のようだ。親とは全く比較にもならず愚にもつかない河野洋平、共産党の不破哲三。モダンジャズの渡辺貞夫、俳人の金子兜太、染織家の志村ふくみさん、このあいだ物故された西武グループの堤清二などなど。
 昨年の秋ごろには民主党の首相であった野田佳彦氏もあったが、内容的には近年では最低のもの。この人にはみずから独自の政治思想はからっきしなくて政治をおこなうにあたっての技術のみで、実務と力学があるだけである。「松下政経塾」で学んだ経歴とはなんであったのか。説得する技術としての演説だけで、人間を学ぶ機会はなかったのか。現代の政治家の悪い特徴として、職業的に唯一持つべき資質である人間性の機微やセンチメントなき人物であった。文章的には無内容も同然である。
 今回の藤森照信について、9回目の連載内容である。それには、暗い学生の頃をおくりどうやら今でも思い出したくないことを明言しているのだ。そこで、わたしが関心を持ったのは長野の山村育ちで、東北大、上京後の東大時代の彷徨のことだ。豊かに感覚と実感に満ちた四季変化と自然いっぱいの生活から一変する。文化や歴史、伝統意識など自己にとって語るべき中身のなさに愕然とする。そして自身にとっていうべき言葉も見つからずふしだらな数年間の大学生活の時代。その奥深さにはまり込む。都会での見るものすべてについての無知への自覚と覚醒の頃の文章である。
 地方出身者は、「田舎者」から都会人の生活に慣れるのにあくせくする。人間の多さと多様さ、人材のるつぼ、優劣の競争社会の激しさである。あらかじめ、世間には全てに価値が付けられている。生活の資は全てお金という貨幣を介して行われる。人間関係の猥雑さと複層に気付き始める。皮肉にも対人関係は意識したり気付いた人にのみ問題化する介雑さ。一体、自分が自分でいられるには、どうするか。
 そんなことで、今回の記述は、かつての二十代の頃の、わたし自身の孤独な無間地獄におちいった経験を想起させる。
            
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猪瀬前都知事のこと

2013年12月26日 05時53分49秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
今年もあとわずか、神宮館の太陽太陰暦も買った、年賀状はまだ買っていない。寝正月になりそうな準備のための映画のDVDや本はまだ、だが、残りの日々も少ない。
 ここでは猪瀬前都知事のことを取り上げる。大宅ノンフィクション賞を受賞し小泉内閣の時には国の法人のいい加減な補助金の使い道について追及したことで知られる。この時の行動にはわたしも大いに賛成したものである。
 そして、この目覚ましい活躍に惚れ込んだ石原さんが副知事に招き、その後の昨年の12月の知事選に押されて初当選した。それで例の5,000万騒ぎで都議会で追及されて、辞任に追い込まれた。
 まず、わたしの感想では、そんなに悪いことをしたわけではない、ということだ。
 (書き込み中)
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仕事環境と、わが師走の草花

2013年12月16日 04時19分22秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
最近は、このブログもなかなか更新せずにいる。というのも、今は工事検査を迎えて10日以上休まずにいるほど業務が忙しいせいだ。この年齢でこのような仕儀は普段のわたしらしくもないとは思うのだが、月給を戴いている身分、そんなことも言っていられない。この仕事環境でしみじみ感じるのは年齢、立場で不明点や問題が起きた時に周りに相談出来ずみずから解決しないといけない、ということだ。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、か・・・。(もうすぐ、一生も終わりそうなのに・・・)。
 それでも、わたしはオープンで比較的に割り切って未知のことはたずねる性格だが、良くも悪くもプライドが邪魔し周囲は年少者に囲まれて対応に気まずい同世代はいっぱいいることと思う。

    
 撮影日時:平成25年12月15日(日曜日)15:30頃 なお、写真上で左クリックすると画像を拡大して見ることができます(タイトルバーの横の⇦ボタンで元に戻る)。

 そんな昨日のひさしぶりの休日、すでに殺風景になってしまった庭に降りたら、ドウダンツツジ、黄色く草紅葉の代表であって枯れ草になっている風知草、野性のシクラメン、何気ない白い小菊だと放っておいたら綺麗な薄紫色がかったポンポン菊の存在に気づいた。
             
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日記のことですが・・・

2013年11月22日 13時19分40秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
暦の上では22日は小雪、あと一カ月で冬至だ。ますます日が短くなる此の頃である。うちで恒例となっている落ち葉拾いもやっとこさ収まっている。わが家は緑が濃くて樹木が大きい。紺屋の白袴ではないがわたしの職業柄、路上に大きくなった木の落ち葉集めや落花や実を拾うことが毎朝の日課になっている。近所の人に迷惑をかけちゃいけない。知らなきゃいいということではない。他人の家の前に飛散することは、心理上、嫌なものだ。

 先日、ある人に世間話のついでに、わたしが日記のことを話したら、すごいっ・・・とギョッとする感じでおどろかれた。そして、そのアクションに逆にわたしがおどろいた。わたしの場合は、ごく普通に当たり前のことだったのだ。
 わたしは、大学ノートに日記をほぼ19歳代からつけていると言ったのだ。それが45年強の年月、続いている。ボリュームは知らないうちに、一冊分がほぼ三年連年日記風になった。若い時は文学や不明な事柄をまとめた辞書替わりに1ページを費やしたりしたが、今では三行書きが多くて、天気模様、家内からの小遣いや買ったものに品名や金額、電話や来訪者、遠方に行ったことが書かれている。大げさだが、天気などは気象データを作れるほどになっている。
 現在は14冊目でそれ以外にないとおもっていたら、その前に6冊分あることが判明した。ノートは万年筆で書かれていて、紙質は黄色く変色している。
 このうち、№2は平成5.12.17から平成7.4.16にあたるが、このノートは紛失した。たしか、池上本門寺の洗足池でおこなった社内の桜の花見会で、したたか飲んで酔っ払い電車の網棚に置き忘れたショルダーバッグ に入っていたものである。数年後にバッグは見つかったのだが、財布やその他の中身はなかった。
     

      
 そこから関連して派生したノートとして、4冊目になる「書物購入予定・貸出し簿」、「庭弄り日誌」、「ギボウシ栽培日誌」、「俳句集」、それに資格試験などの「受験記録」がある。まあ、わたしの業務上のことについても必ず工事記録を残す習慣が身についているから性格的にはメモ魔とも言えるかもしれない。そしていづれも、いつかわかるだろうからと、その都度特に不明点は書き記している。
 一般的には目的というかなんというかは、ひとりの孤独な心をいやしたり、思索経過の整理、読後感想、備忘録、のためにということになりそうだ。詩と俳句と短歌、読んだ本の気に入ったフレーズ、分からない言葉、東北の方言の語源とかである。
 したがって、このブログも始めてから8年目になるのだが、ブログはこの日記の延長上にあって、身辺雑記がおもな動機である。むろん、自己顕示欲も少々加わっている。それはわたしが以前に言い及んだ通りに、単にアナログからデジタルへスムーズに移行したのに過ぎない。また、わたしたちの日常にあっては、電子メールもほとんどが業務用につかわれているようだが、わたしは私的にも実際的に郵便を出したりの習慣があって、今に至っている。デジタル万能の世とは言え今の若い世代とは異なり、書信や通信などその基本的なマナーや方には習熟しているだ。
 ちなみに、わが家族はこのわたしの習慣に無関心だ。
 
 以下の画像は、平成12年5月27日の ≪自分史≫ 第二版 と平成16年2月2日の ≪極私的造園設計経歴書「緑の仕事」≫ である。いずれも、ワープロで書き込み編まれたもの。当時の身近な知友の範囲内で配った。このことについては、いつか触れられたらこの場で触れたい。
      

           
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剪定作業と大文字草とサザンクロス・・・?

2013年11月11日 05時35分24秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
11月10日の日曜日。寒くなるとの予想に反して、南寄りの生ぬるい風が吹いた。まだ、木枯らし一号にはならないようだ。今日のわたしは、朝、今年最後の柿一ケ(本年の収穫量は171個・・・!!)を剥いてトーストとともに食べる。TV番組のTBSのサンデーモーニングのあとに、わが庭に出る。
 先々週に続き邪魔扱いの モチノキの芯どめ、レモン、小紫式部、雪柳、フェイジョアの枝抜き、それに大きくなってしまった枇杷の剪定をする。ギボウシの鉢内の雑草取り。わたしは、ひさかたぶりに汗をかく。捨てずに10cm内外に刻んだ枝や葉は、25kg入りの空き袋5個にもなる。
 もう少しすると、道路際のホルトノキや柿の高木を整姿剪定する予定だ。それらをすべて密封し発酵させて肥料にする。水を少し入れきつく袋詰めをし、重しを載せる要領でそれぞれの袋を逆様に積みあげる。そうすれば、完熟すると1/3の大きさになる。自家製堆肥の出来上がりだ

 写真は大文字草だ。忘れかけていたのを奥の方から引っぱり出したら芽数が増えてびっしり白い花を着けていた。目を皿にしてズームで見ると、あたかも雪降りの情景のよう。そこで、ふと思うのは十数年前の6月に行った、旅行初日、南半球のオーストラリア西海岸のパースでの出来事だ。初めて船上でのディナーで夜半にみた南十字星だが、草花にも似たネーミングの“Sourthen Cross”があったのだ。白い花ではとかすかに記憶しているが、どうだったか。
 その時には俳句を詠んだっけなあ。と、過去にまとめた「自分史」の中を探すと出てきた。
 ・スワンの畔 目を凝らして立つ サザンクロス
 確か、臨場感を持って現地で作ったのだが、こうして掲げると、単語を並べただけであって幼稚で未熟な句である。流れる情感が表わされていない。わたしは恥を気にするにはどうせ年寄りだ、この機にここへ載せておこう。

撮影日時:平成25年11月11日(日曜日)16:00頃
          
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秋の朝、電車通勤の途中で、

2013年11月09日 06時33分58秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
 わたしは、仕事に行く途中の電車の中で、都合4回乗り換えるのだが、1回目の降り際にいいときめきが来た。発句だ。2度目の乗り換えでは、これから45分ほど乗る、馴染みのロングシートに座り野帳を探すが忘れたらしくて、そのままええやい、と読みかけの文庫本の表紙カバーを裏返しにして俳句を書き込む。いつも持参している小さいゴルフ鉛筆を利用した文字は殴り書きだ。ちなみにわたしの場合は、いつも、野帳は句帳替わり。
 朝の出がけに、事務所にてパソコンに向かって打合せ用文案を考えるよりも時間を惜しみ通勤の車中でまとめようとしていたら、順番が逆、こんな仕儀になる。作句はいつもこんな状態で浮かんでくる。わたしは、なんだか、無意味なことだが、わたし自身の面妖な気分をほかの乗客に対しさとられないようにうつろな表情とのろい動作でごまかしている。

秋の朝
 ・朝日昇る 燦めくかがやき 秋瞑想

 ・もうろうと山水画の如し まぶたの裡

 
 ・露のもとに草木悉皆 両手揉む

 
うたた寝
 ・目覚めて 地鳴きのごとき しじまかな

 ・逆夢か 汗ばむ身に 秋陽射し


秋の空
 ・尾をふり 沃土の餌をあさりて セグロセキレイ 

 ・柿紅葉 木守柿落つ 抜ける空


 もちろん、続けて表紙カバーの次頁に文案メモを箇条書き風にまとめる。朝の7時頃から40分かかった訳だ、ややわたしの朝の気持ちは軽快になった。これで、いつものように、事務所に着けば自動的に仕事モードに変わる。
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