この休みの日。値上がりした煙草をケチって(我慢して)、こらえきれなくなったら数日おきに近くのコンビニに煙草を買いに行く。今は二日吸ったら一日は休めるようになった。
わたしは、その時にその近場の林に寄って、この頃は栗拾いをするのがならいになっている。3、4本ほどあって、道路際は山栗だが、ちょっと近くに大きな実の栗を見つけて今はそこである。近在の農家が植えっぱなしにした、「銀寄せ」の品種かな、もったいない。誰もきづかないのか拾う人もいない。世の中は、なんでもそうだが、食べ物はお金を払い店で買うものであるらしい。清潔で安全なものらしい。みすから手をよごさない消費は美徳なのか、嫌な世の中だ。木の実の栄養価を考えると、わたしにはもったいなくてしょうがない。
そこは、コンビニの大きな駐車場から丸見えで、どうかと思うが、わたしは堂々と拾ってくる。毎回、ズボンの両ポケットがパンパンになるほどだ。持ち帰ると、家内が栗を煮てくれる。それを、わたしだけがおやつ代わりに食べる。台所はオール電化、焼いてもいいのだが調理はすべて電気になっていて、こればかりはしょうがない。
だが、こういうことは家族の誰もが気味悪がって食べようとしない。
これからは甘ガキの季節だ。
最近、北朝鮮がらみの読書に耽っていて、今は 萩原遼の文庫本にかかりきり。わたしらしくもなく再読ということになる。この人は「大宅壮一賞」を受賞した作家だ。ほかにも日本共産党出身の著作者がいて本をものにするが、一般世間的にはそういう稀な視点からのものが面白いようだ。勿論、政治上の信念や胡散臭い教条的なものはない場合であるらしいのだが。そしてそこでは、奇を衒うことも本を売らんかなという下心も必要もない。
だから、なんだというわけではないのだが、著作者の経歴をみると、何かを為す場合は人生で何かを失ったか不運に遇った場合にいい作品を残すようにおもう。
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