うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

チリ鉱山落盤事故救出事件で思うこと。

2010年10月16日 06時39分16秒 | わたしの日常です。

 このほどの チリ鉱山落盤事故について、たまたま、テレビで見続けていて、思い出したことがある。
 結果は予定を早めて、33人全員救出が一日にて完了した。彼らは35℃で90%の湿度の厳しい条件、69日間も地下 688mに閉じ込められていた。これは生活の場というより生存する環境としても苛酷な条件下である。
 それにつれて、救出時にそれぞれの人のさまざまな人生模様がみられた。なんだか、複雑だが面白い。このなかで、発見されるまでのトンネル内の規律の保ち方について、現場監督の ルイス・ウルスア氏のリーダーぶりにわたしは特に感じることがあった。非常事態に際して、閉鎖空間での現場管理、食料配分や三班交代制などである。そして、それについての重要なことは仲間意識であるようだ。大東亜戦争にみられる国家間の戦争でも、戦場で心をひとつにまとめるには、その目的が圧制からの解放や自由や平等などの観念的な理念や概念でもなくて、まして実は天皇陛下とか国のためというよりも、個人としてこの身近に隣り合った同僚の危機や災難を防ぐ共同の連帯意識がいちばん影響をもつものと思われる。

 わたしは20代半ばで、今の 都営地下鉄新宿線の新設工事に土木作業員で働いたことがあった。その頃は、たしか、亀戸の飯場暮らしである。路線的には深川あたりの江東区内だったと思うが、そこで、スコップで人力で掘削中に人間の頭以上の大きさのコンクリートの欠片が頭上にあたり、ヒヤッとしたことがあり、その時は体に別条はなかった。ヘルメットを着用していて、安全だったのだ。それ以来、わたしは悪運に強いと妙に自信を得たものである。その時分は若くて、大学の学費や生活費を稼ぐためにという目的ではあったのだが、その頃の日常はデスペレートなものであった。とにかくわたしは、ひとり、知人とも故郷とも疎遠になり社会から取り残されたような暮らしをおくっており、明日のことも考えずにいた野放図な頃だ。

 それから、後年、都内の造園会社にいたころ、わたしは会社の部下を連れて秋田から青森へ二泊三日の旅程で慰安、研修旅行を計画した。往き帰りは飛行機で、宿泊先は日本海側の 黄金崎不老ふ死、 酸ケ湯の温泉旅館である。その間の移動は8人乗りのレンタカー、未舗装の悪路を考慮して馬力があり車高のある車を手配した。まだ、世にナビは出回っていない頃、運転担当はわたしだけである。
 目的は 白神山地内のブナ原生林をめぐることで、当時は世界自然遺産に指定される前後の10月下旬、紅葉にはかなり遅かった頃である。秋田県寄りの 十二湖、二日目には 旧弘西林道を走り、昼近くに宿でつくってもらった二個のおにぎりを 暗門の滝を見ながら食べた。それからリンゴ畑を走る アップルロード(広域農道)を経て、東北高速縦貫道路に入り、 十和田湖を周遊して、 奥入瀬渓流を歩き、八甲田山の麓の酸ケ湯に向かった。翌日、帰りは酸ケ湯から黒石市内を過ぎて 弘前城公園に行き、当時発見されたばかりの 三内丸山遺跡を見てから青森空港から夜半に帰京した。

 妙な話、その頃、わたしは仕事でもお客への接待含みでも泊まる際には温泉地、特に秘湯ポイントを好んで旅程表に組んだもの。わたしは過去にあちこちと日本全国へ行ったのだが、そんなこんなが長じて、旅行企画は手馴れたもので、プランを練って、目的地・道路事情・ルート設定や廉価の手段や方法を調べて旅行会社に微調整を指示していた。これでは、職業としての旅行添乗員もできるかなと自負するほどだ。だから、今回も一般のパック旅行とはおもむきが違って、この手造りの旅行は参加者には概して喜ばれたものとおもう。今おもうと、この時も結構、盛りだくさんの内容だ。わたしも入れて参加者は5名か。費用も3割ぐらい安く上げたものとおもう。この時の旅行費用は各自毎月2000円を積み立てておいて、いざという時点では不足分を当時のワンマン社長にお願いして会社で負担してもらっていた。
 問題は 酸ケ湯から 城ヶ倉大橋を経て黒石市内へ向かう国道であった。朝起きると、当地は一面の銀世界であった。初雪か、路面には10cmくらい積もったのだろうか。わたしは驚き、帰りが無事に帰りつけるか恐くなってしまった。若い社員は初心者、ほかはペーパードライバーだし、比較的運転し慣れているのはわたししかいない。しかも、雪道は初めても同然である。なによりも、雪そのものの恐さを知っているものが参加者にいないようにおもえた。この辺の地元では既にスノータイヤにはき替えていたが、わたしの車は、チェインも不備でノーマルである。
 道は、多分、1000m前後の山林の中から下の黒石市内の一般道まで大きく蛇行しながらもすべてなだらかな下り坂である。この高低差を、どう運転するべきか。
 出発前にみんなにこの状況の説明をした。場合によったらここから青森まで定期バスで帰るか、もしこの車で戻るとしたら、歩くぐらいのスピードの超低速運転で行く。それは徐行どころではない、時間はかかってもやむを得ない。エンジンブレーキを効かせてオーバードライブ、ロー、セコンドのみで速度を調整維持し加速はしないしフットブレーキは踏まない。ハザードランプを点滅させて運転する、後続車は必ず先に通す、ハンドル操作は少なめにする。
 事前に、車両の整備状態をチェック、平地で急発進や停止をなんども確認する。そんな心の用意をする。
 このときの所要時間は小一時間だろうか、わたしは全身が汗だくになり緊張した。距離は7.8kmぐらいか。通常の天候であれば10分ていど、景勝地のなかをあっという間に通り過ぎるだろう。結果的に何事もなくうまくいったのだが、道は舗装されていても、山間部のせいか部分的に石ころや砂利が表面にのっている。現地は広い片側一車線、地元の車両が多いなかで、途中は特にわきに寄り大型のバスやトラックに追い越させるのが難しくてハラハラする。さいわいにも横滑りやスリップもなく運転していった。
 わたしは、住んでいる千葉でのわずかな雪道運転の経験と、幼い東北でのかすかな雪国暮らしの記憶を想い起こしていた。特に過去の、歩く時の足裏の感覚を現在のペダルワークの感触に近づけるべく苦心し、雪の路面とタイヤとの接触音や車の細かい動きに神経を配った。
 わたしの性格は、本来はウジウジ思案するタイプ。ですが、その場に臨んでの行動は結構思い切っているらしい。
 話が妙な展開になりましたが、まあ、ということで、おしまいです。

 追記: 実はわたしは、青森県に数回行っております。その内容をわたしなりに、このグログでも過去にシリーズでアップしています。左のカテゴリー 「下北半島・白神山地を行く」をクリックしてみてください。
          

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