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自己欺瞞 ~光市事件の弁護団~

2008-04-23 01:10:12 | ニュース
 光市の事件の判決が広島高等裁判所であったが、弁護団が即時上告したそうだ。


 被告には裁判を受ける権利はある。でも弁護団は自分たちの仕事のために仕事をしてはいけない。


 なぜ弁護をしなければならないのか?

 それは権利だからか?

 そういうことが仕事だからか?

 弁護の主人公はだれだ?

 弁護士か?

 いやそうではないだろう。

 弁護団が自らのことを「意見が割れても、一つの方向に行った。こういう弁護団であることを誇りに思う」と言ったそうだが、何言ってるんだこいつ?


 20人以上の弁護士がつくってどういうことだろうか?弁護士っていったい何者だ?



 刑事裁判でいつも思うのは、「弁護士」達の発言だ。北九州の飲酒事故にせよ今回の事件にせよ、犯罪を犯した容疑者あるいは犯人と被害者あるいは被害者家族が本当は事件の第一者であり第二者である。

 
 それを「法律」に基づいて処罰するかどうかの為に「検事」と「弁護士」と「裁判所」が存在する。つまり、「事件という事実」があって、その事実が真実なのかどうかという点の評価と、その事実の背景となった環境やいきさつがどうだったのかという点の評価には言及することはあったとしても、それを夢物語のようにしてまで作りあげて弁護することは弁護士の仕事ではない。また検事が事実を裏付ける証拠をそろえる必要があるのと同じように、弁護士も証拠が必要なのは、そういう「作りあげ」を避けるためでもある。



 この「作りあげ」のことを「ねつ造」というが、それは検事も弁護士もやってはならない。


 

 ところで、判決に関係なく、この被告はどのように罪を償うつもりでいるのだろうか?自らの犯した罪は、自分がどんな精神状態だったかに関係なく、事実として残る。それをどう捉えているのだろうか? たくさんの言い訳をして、それを認めてもらえたとして、それはいったい何のためなのだろうか?弁護団はそれでどうしたいのだろうか?いったい弁護団は何を勝ち取ろうとしているのだろうか?弁護団は誰のために控訴したんだろうか?弁護団の自己満足の為にやっているのだとしたら、この弁護団こそ恐ろしい存在だ。

 

 最近の弁護士や弁護団をみていると、自己欺瞞という言葉が頭をかすめる。

 
 




狭い視野

2008-04-23 00:34:59 | 心と体
 人は年齢を重ねて行けば、どうしても、自分のやり方に固執する傾向がある。

 これは当たり前だし、必ずしも悪いとは言えない。しかし、時にはそのせいで視野が狭くなることもあり、大切な助言やアドバイスを聞き逃すこともある。


 人のアドバイスを「あ~分ってる、分ってる」と言ってしまうことがある人は要注意である。

 その結果迷惑がかかるのは、本人よりも「周囲」であることが多い。



 
 経験を重ねても、当事者であるとどうしても見える部分が狭くなる。常に全体が見える人というのは限られている。経験を重ねたひとよりも、経験はあまり無くても、第三者であればよく見える事が多い。


 つまり、それだけ周囲のほうが「ハラハラ」させられているのである。


 そしてうまく行かないと「ほらね、やっぱり」となる。


 確信犯的に「ハラハラ」させていれば別だが、そういうケースはまれだし、そんなことなかなか分ってもらえるモノではない。



 結局、周囲も一緒になって「うまくいかなかった」事への対応に追われ、このように周囲がフォローすることになる。







 でも、よくよく考えてみれば、これは若い人が失敗して、上司や先輩、周囲がフォローするのとなんら違わない。


 つまり、仕事の失敗のフォローには、先輩・後輩は関係ないし、上司も部下も関係無い。失敗するときはするし、うまく行くときはうまく行くものだ。


 だから、上司は部下の、先輩は後輩の、「あ~見えてないなぁ、このままだとだめだろうなぁ。」と思ったときには、自分にも当てはまることがないか、再確認したほうがいい。



 狭い視野とは、「自分は大丈夫」だけど「部下や後輩は心配」といった形で物事を見ることでもある。


 広い視野とは、「自分の事も心配」で「部下や後輩にも気づいたら言ってくれ」というものの見方であるとも言える。



 広い視野を持てば、他の人からのアドバイスも素直に聞けるし、耳を傾ける価値があるというふうに自然に認識できるようになる。




 このように狭い視野というのは実にもったいない。時には広く意見を聞いてみるのはどうだろうか?