猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ②

2013年06月08日 22時58分33秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇

 その頃、左大臣有澄は、葛城の宮の名代として、白鬚明神へ参詣しておりました。数々

の珍味、美味をお供えなされ、社人、楽人が、糸竹を演奏する中、国家鎮護の儀式を執り行

っています。神主右近の大夫(だいぶ)が、六根清浄の大祓を切り払い、中臣が、三種の大

祓を執り行い、滞りなく儀式が終わると、御神楽が奉納されました。ところが、すべての行

事が終わりますと、社殿の下から、不思議にも白髪の翁が現れて、お供え物をばくばくと食

べ始めたのです。人々は、

「おお、正しく、白鬚明神が顕れなさった。有り難や。」

と、地に平伏して三拝するのでした。しかし、左大臣有澄は、にやにやしながら、

「何を馬鹿な。神というものは、慈悲をその正体として、人々の尊敬を食とするものだぞ。

白鬚明神が顕れて、お供え物を食うはずがない。どうせ、狐、貉が化けてでたのに違いない。

誰かある。」

と、言うと、執権金輪の五郎輝元生年十八歳が、さっと駆け寄って、翁を取り押さえました。

金輪の五郎は、

「何者だ、正直に申せ。そうでなければ、首を刎ねるぞ。」

と、詰め寄ると、老人は、ぶるぶると震えながら、

「やや、お間違いなされるな。金輪殿。私を、見忘れなさったか。私は、絵師の金岡です。

この度、宮中における美人揃えの絵姿を、誓詞を持って描きましたが、逆目の皇子は、ご息

女、花照姫殿へ横恋慕いたし、叶わないことを嫉み、私に、醜く描くように脅かしてきました。

断れば、命が無かったので、花照姫を醜く描きましたが、誓詞の罰が当たり、倅は、忽ちに

めくらとなり、私は、このように五体が竦んでしまったのです。そして、獄屋に押し込まれて

おりましたが、この社殿の裏に捨てられ、倅も、行方知れずとなりました。もう三日の間、

何も食べておりません。神へのお供え物を勿体なくは、思いましたが、仕方なく食した次第。

お許し下さい。」

と、涙を流すのでした。これを聞いた左大臣有澄は、

「なんと、お前は金岡か。神は正しい心に宿るものだ。お前は、邪(よこしま)な者に従っ

たから天罰を受けても仕方ない。例えどれほど醜く描こうとも、花照姫の生まれ付いての

容姿が変わるわけでもない。さて、しかし、後日の証拠の為に、金岡は、神主右近の大夫に

預け置くぞ。」

と言うと、都へ向けて帰って行きました。

 さて、内裏では、斉明天皇が、美人揃えに出された、醜い絵に激怒なされておりました。

逆目の皇子は、しゃしゃり出て、

「左大臣有澄が、おのれの威勢をいいことに、あの様な醜い絵を、美人と偽って奏聞したこ

とは、上を軽んじ、行く末の逆心の現れと存じます。どうか世の中に正道をお示し下さい。


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ①

2013年06月08日 10時02分59秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

「天智天皇」という浄瑠璃は、近松門左衛門三十七歳の作品であり、元禄二年に初演され、当時、大変な人気を集めたらしい。内容的にも奇想天外のストーリーで、確かに面白い。

その舞台は、様々な絡繰りを展開して、観客をあっと言わせたようである。これを、江戸の人々も見たかったのだろう。天満重太夫は、「天智天皇」を説経に焼き直して、江戸で演じた。元禄五年(1692年)のことである。(説経正本集第三(41))

天智天皇 

思無邪(しむじゃ)の三字は、神を拝む心の大本であり、怖不敬(ふふけい)の三字は、

祭典を行うに当たって尤も重要な心掛けである。神を祀る時には、神がそこに居ると思って、

勤めなければならない。

 さて、斉明天皇という方は、舒明天皇のお后様でしたが、十全の位に就かれ、一天四海

の浪も静まり、家の戸を閉める必要も無い程の泰平の世を治められたのです。斉明天皇には、

皇子が二人おりました。第一の皇子を「逆目の皇子」(架空)と言い、その背丈は一丈あま

り(約3m)で、色は浅黒く、その目は逆様についていたと言うことです。そのお姿は、夜

叉の様で、その性格も、生まれつき放逸でありましたから、父舒明天皇の勘気に触れて、

二条の館に蟄居させられておりましたが、母斉明天皇の嘆願によって、舒明天皇の崩御の折

に、恩赦を受けて、参内できるようになりました。

 第二の皇子は、「葛城の宮」(中大兄皇子)と言い、そのお姿は、大変艶やかで、慈悲第一

のお心をお持ちでしたので、次期天皇の位は、葛城の宮が継ぐことになっていました。諸卿

は皆、葛城の宮を尊敬して、仕えていたのでした。

 時の摂政は、左大臣の有澄と右大臣の是澄(架空)が勤め、民の事を考えて天下の政を

行っておりました。

それは、天智元年(662年)のことでありました。斉明天皇は、諸卿を集めて、次の様

に宣旨を下されました。

「今月十六日、葛城の宮へ、位を譲ります。そこで、眉目(みめ)貌(かたち)の美しい

姫があれば、后にしたいと思います。」

右大臣是澄は、

「これは、大変有り難い宣旨です。左大臣有澄の姫こそ、三国一の美女と聞いております。」

と答えました。しかし、その時、逆目の皇子は進み出で、

「確かに、それはそうかもしれませんが、広く姫探しをしては如何でしょうか。姫の絵を

描かせて、これを見比べ、一番の美人を后とするべきです。丁度、金岡という老人の絵師

がおりますが、この者は、いずれの奥へも出入りを許され、姫達の姿も良く知っております。

金岡親子に絵を描かせるようにお申し付け下さい。」

と言うのでした。斉明天皇は、尤もであると思い、金岡を内裏に召し、諸卿の姫を絵に写す

ように命じたのでした。吉田の少将が、熊野誓詞を取り出すと、金岡親子は、贔屓をしない

という誓いを立てさせられました。それから、親子は姫達の絵を見たままに描いたのでした。

一方、左大臣有澄は、天下安全の祈願の為、その頃、白鬚明神(滋賀県高島市)に参詣しておりました。

 さて、逆目の皇子は、家来達を集めて、こう話しました。