猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 29 古浄瑠璃 小大夫(2)

2014年04月02日 19時53分49秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こ大ぶ下巻 5段目 (2)

碓氷峠に御台所と若君達を残して、安綱は下野の国に潜入しました。先ず、どうにかして、甘楽太夫が捕らえられている牢に近付いて、様子を探ろうと思案をしました。

『そうだ、乞食の姿に化けて、牢の様子を探ることにしよう。』

と思い定めると、ぼろぼろの簑を着て、破れ笠を被り、手足を汚して、杖をついてよろよろと歩いて見ました。我ながら、惨めで哀れな姿です。

 『これも、主君の為。恨みは塵ほどもなし。』

 と、自らを奮い立て、牢の近くまでやって来ました。甘楽太夫が捕らえられている牢と覚しき所に、竹林が見えます。その周りには掘が切られています。掘に添って道がありますが、行き交う人もありません。日夜、厳しい警護の武士が詰めていて、鳥ででもなければ、牢に近付くことは出来そうにありません。このように厳しい警護の中にも、どこかに隙があるだろうと、安綱は我慢強く偵察を続けますが、そう簡単には、隙を見せません。安綱は、

 『むう、この牢の番頭は、長沢の源蔵と聞く。源蔵の館の様子を探ってみるか。』

 と思い立ち、牢の前を通り過ぎると、門外に立って、

 「くたびれ果てた乞食に、お恵みを。」

 と物乞いをしてみました。すると、門番が跳んで来ました。

 「やい、ここは、乞食に限らず、誰であろうとも通行禁止であるぞ。門外の制札が見えぬか。」

 と、杖を振り上げて、安綱を打ち叩きました。安綱は打たれるままに、打ち萎れて、

 「これは、申し訳ありません。ここまで来てしまったのも、このような乞食には、札というものが読めないからで御座います。どうか、お許し下さい。」

 と言うのでした。門番は、

 「なんと、口強情な乞食か。」

 と腹を立て、更に杖を振り上げましたが、その時、源蔵が走り出て来て、

 「やあやあ、そんなむごいことをするな。そのような乞食に、そんなことを言っても分かる筈も無い。あの乞食も、その昔は、由緒ある者のなれの果てかもしれないではないか。日々厳食(いつじき)を求めて、露の命を繋いでいる者に可哀想な事をするな。あの牢屋の甘楽を見よ。人の一生の行方は分からんものだ。お前にも、どんな怖ろしい報いが訪れるか、分からないのだぞ。さあ、施行を取らせてから、帰しなさい。」

 と、慈悲深い事を言うのでした。やがて、施行が出されました。源蔵は、

 「この場所は、何人たりとも、固く立ち入りが禁じられておる。もう二度と来てはならぬ。」

 と念を押して、奥に戻りました。安綱は、源蔵の後ろ姿をつくづくと見ながら、

 『むう、こいつは、なかなか立派な武士であるな。また、うろうろしていて、再び叱責されては、怪しまれる。』

 と考え、一旦、上野の国へと戻って行きました。

 安綱は、上野の国に戻ると女房の所へ戻りました。女房は驚いて、

 「おや、御台所や若君達は、どうなされましたか。もしや、打ち捨てて来たのではないでしょうね。そうであれば、早く戻ってあげて下さい。私も、長い間、打ち捨てられたままで、その寂しさに耐えていますが、主君の為ならば、露程も恨みはいたしません。」

 と、言うのでした。安綱は、これを聞いて、

 「おお、長い間、捨て置いたのに、恨み辛みをも言わずに耐えてくれるか、有り難い。それ程、主君の事を思っていてくれるのか。御台様も若君達もお元気にしているので、安心してくれ。あれから、私と有重でお供をして逃げたが、松枝(松井田:群馬県安中市)の宿で追っ手が迫り、有重が残って防戦する間に、碓氷の峠までなんとか落ち延びることができたのだ。」

 と、話すのでした。女房は聞いて、

 「それでも、住み慣れないそんな山奥で、誰が、水を汲み、薪を取ってくれるのですか。可哀想に。」

 と悲しむのでした。そこで安綱は、

 「実は、お前に頼みがある。」

 と、膝を詰めました。 

 「どうか、お前は、源蔵の所の下の水仕になってくれないか。そして、例え源蔵が、西を東と言っても、これに従うのだぞ。お前は、年増とは言え、まだまだ色っぽい所も十分あるから、きっと源蔵もお前に言い寄って来るだろうが、それにも従うのだ。そうして、機を見てお殿様を救い出すのだ。しかし、私を恨んでくれるなよ。夫婦は、一夜を共にしただけでも五百生の縁となると聞く。ましてや、お前と私は、もう数年の契りを込めた仲。夫の為に二世まで、平にお願い申す。」

 女房は、これを聞くと、

 「主君の為、夫の為のお役に立てるならば、例え、身を刻まれ、骨をばらばらにされても、この命は惜しくはありません。」

 と、覚悟するのでした。それから、安綱夫婦は、早速、下野の源蔵館に向かいました。

  源蔵館の近くまで来ると安綱は、

 「あそこの門が源蔵の館よ。私は、この木の本から離れずに待っているから、何か用がある時は、ここまで出て来るのだぞ。」

 と涙ながらに、女房を送り出すのでした。女房が源蔵館の門外に佇んでいると、内より下女が出てきて、

 「おまえは、この内に用でもあるのかね。」

 と尋ねました。女房は、

 「はい、私は、この国の隣の那須の国の者ですが、昨年の春、夫を亡くしました。夫の叔父が私を売り飛ばそうとするので、ここへ逃げて参りました。どうか哀れと思って、この内の下の水仕にさせて下さい。」

 と、答えるのでした。下女が源蔵に取り次ぎますと、源蔵は、女房を呼び入れました。女房を見た源蔵は、

 「いやいや、下女にしておくには勿体ない。取り上げて使うことにしよう。」

 と言って、女房に小大夫と名を付けて、重宝するようになりました。元々小大夫は、何事にもそつが無く、朝夕身を惜しまずに立ち働き、良く気が付き、身内だけで無く外様の家までにも気を配ったので、小太夫程の女房は無いとまで言われる程になりました。かの小大夫の頼もしさは、言い様もありません。

 つづく

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