父、岩城の判官正氏の無実を訴えて、本領安堵の為に都を目指した、厨子王丸一行。遥か福島県信夫(しのぶ)郡からの旅であるが、会津街道で越後に出て船便を利用するのが、一般的な上洛ルートであったのだろう。ひと月程掛かって、直江津に辿り着いたらしい。佐渡の文弥人形が採用している舞鶴市立西図書館所蔵の山本角太夫正本には、会津街道を通ったという定かな記述は無いが、ご当地「直江津」のことを、次の様に書いている。
「歩み慣らわぬ、草鞋(そうあい)に、二人の君達(きんだち)、歩行(かち)の旅
労り参らす者とては、姥竹親子五人連れ、手を引き勇め、杖となり
又、柱とも頼もしく
疲れを背なに「安井の里」、旅寝の枕、夢にだに
父御にいつか、「扇の橋」
越後の国に聞こえたる、「直井の浦」にぞ着き給う」
「直井の浦」は「直江津」のことだと分かっているのだから、「安井」も「安江」と、最初に読み替えることができれば良かったのだが、会津街道を沿いを隈無く調べても、「安井の里」は見つからなかった。東光寺(稽古場)の方丈さんからは全国地名辞典までコピーしてもらったが、福島と新潟の該当地域に、とうとう「安井」を見出すことはできなかった。ある時、直江津の地図を眺めて居て、「安江」を発見して驚いた。それも、ちゃんと荒川(関川)の東側にあって、橋に至る直前の地区である。山本角太夫は、どうしてこんな細かい字名を知っていたのだろうか、不思議である。
「扇の橋」は、「応化」とも「逢岐」とも表記されるが、現在これに該当する橋は存在しない。ここでの掛詞としては、正に「逢岐」が相応しいであろう。「扇の橋」があったであろう所付近には、現在「直江津橋」が掛かっており、山椒太夫のレリーフが、この物語のご当地であることを物語っているのは、嬉しいことである。
御台、厨子王、安寿姫、姥竹(
乳母の宇和竹)、小八郎の五名は扇の橋まで辿り着いた頃は、もう日暮れであった。通りがかりの農夫に、宿を尋ねるが、旅人を泊めることは禁じられていると言う。人々は、仕方無く橋の上で一夜を明かすことにするのだが・・・
写真の橋は、現在の直江津橋と、橋の欄干に設置されている山椒太夫のレリーフの内のひとつ。
山角(山岡)の太夫に騙された人々は、関川の河口から沖に連れ出され、安寿と厨子王は、蝦夷の高八に、御台所と姥竹は、佐渡の平次へと、別れ別れに売られて行く。
そういう物語を思い浮かべながら、関川の河口を眺めてみると、なんでもない風景がもの悲しく見えてくるものである。(安寿姫と厨子王の供養塔付近から、河口を望む)
姥竹は、別の話からではあるが(瞽女唄や説経祭文では、投身自殺をする)「乳母嶽明神」「乳母嶽神社」としてお祀りされている。(茶屋ヶ原の乳母嶽神社)
舞台写真の中の舟に乗っている人売りの山岡太夫(山角太夫)は、高田の妙国寺に祀られている。
という様に、上越市と山椒太夫は切っても切れない。そして、このご当地で、山椒太夫を演じる機会を与えていただいたことは、大変名誉なことだと、深く感謝申し上げます。来年には北陸新幹線が開通し、高田開府400年に盛り上がる上越市は、これから更に発展して行くことでしょう。今回お世話になった方々も皆々元気な方ばかりなので、ますます期待が高まります。今回の公演を主催していただきました「山椒太夫高田世界館公演実行委員会」の皆々様、大変ありがとうございました。