はらだ ②
明け方になって、種直は、御僧の寝ている座敷に立ち寄って、声を掛けました。
「申し、御僧様。夕べは、酒に酔って、つまらない事を話してしまいました。あの話しは無かったことにして、鎌倉殿にお伝えするのは、絶対にやめて下さい。さあ、もう夜も明けますので、どうかお起き下さい。」
種直が、障子を開けてみると、御僧の姿はありません。種直が、驚いて座敷に入ると、扇が置かれているのが見えました。
「これは、慌てて、お忘れになったか。」
と、種直が取り上げて、開いて見てみると、
「なになに、原田が本領、返し与える。春になったら、鎌倉を訪ねよ。」
と、鎌倉殿の御判が据えてあるではありませんか。御台所と諸共に、その喜びは限りもありません。この事を聞き付けて、曽ての郎等達も戻ってきました。そうして、明くる年の春になったのです。
種直が、御台所に、
「鎌倉殿のお言葉に従い、急いで鎌倉へ下ることにするぞ。」
と、告げると、御台所は、
「そうですね。それでは、私もお供をして、都まで参ります。それというのも、私には、宿願があるのです。」
と言うのでした。種直は、輿を整えて、御台所を乗せると、早速に都へと上って行きました。
さて、都に着くと御台様は、あちらこちらの「神虫(しんちゅう)」(厄除け札)を、集めて廻るのでした。そうこうしている内に、もう秋の半ばになってしまいました。種直が、
「さて、鎌倉殿は、春には下れと仰っていたのに、春どころか、もう秋も半ばになってしまったぞ。急いで、鎌倉へ参ろう。」
と言うと、御台様は、
「いつ、お知らせしようかと、思っていましたが、実は、私の胎内には、七月半の嬰児があります。どうか、男の子か、女の子かを、確かめてから、鎌倉へお下りくださいませ。」
と、願うのでした。しかし、種直は、
「その子が生まれて、男子ならば、この形見を取らせよ。」
と、守り袋と、黄金造りの御佩刀(はかせ)を渡すのでした。御台所は、仕方無く、法華経の七の巻きを取り出すと、
「このお経は、安穏長寿の経ですから、道中のお守りとして下さい。」
と言って、互いに形見を取り交わすのでした。こうして、種直主従は、鎌倉へと向かったのでした。
さて其の頃、鎌倉の一族の者どもの元には、原田が本領を安堵されて、鎌倉へ下って来るらしいという知らせが既に届いていました。種直が、下ってくれば、自分たちの讒奏が明白になり、打ち首は逃れられません。いろいろ評定した結論は、再び讒奏をして、原田追討の軍勢を出せるようにしようということでした。一族の面々は、御前に出ると、
「原田次郎種直が、鎌倉に攻め下って来きます。知らせによると、昨年の秋に、鎌倉殿が筑紫で、原田の館にお泊まりになった折、原田は、鎌倉殿と知らずに逃がしてしまったので、無念と思い、攻め下って来るということです。」
などと、讒奏を繰り返すのでした。しかし、鎌倉殿は、この一族が、讒奏をしたことを知っていましたから、取り合いませんでした。しかし、一族の面々は、
「後々、後悔いたしますな。御覚悟下さい。」
等と、しつこくも、七回も訴訟したということです。あまりしつこいので、鎌倉殿は、
「そこまで言うのならば、あなた方が、迎え撃てば良いでしょう。」
と、言ったのでした。一族の三千余騎が、由比ヶ浜で、種直を迎え撃つことになりました。
そこへ、待ち伏せのことなど、夢にも知らない種直の一行が来ました。待ち伏せの人々が、
「そこを通るのは、原田殿か。鎌倉殿のご命令により、成敗いたす。腹を切られよ。」
と、呼ばわると、種直は、
「さては、又、讒奏したな。」
と、大勢の中へ飛び込んで入り、ここを最期と戦いました。しかし、多勢に無勢、やがて種直達は、郎等四五人にまで、切り崩されてしまいました。最早これまでと、種直は腹を切ろうとしましたが、藤王という家来が、取り縋って、
「お待ち下さい。君は、ここは先ず、落ち延びて下さい。命を全うする亀は、蓬莱山にも辿り着くと聞きます。畏れ多き事ですが、君の名を名乗って、私が腹をきります。」
と言うのでした。種直は、
「浅ましい死に方をするぐらいなら、腹を切った方がましだ。」
と、はねつけましたが、どうしても藤王が取り付いて離れないので、とうとう、種直は、簑笠を付けて、浜地へと落ちたのでした。寄せ手の者達は、これを見ると、種直とは知らずに捕縛して、落人なりと言いながら、鎌倉へ引いて行きました。それから、藤王は、再び大勢に飛び込んで、散々に戦いましたが、やがて小高い所に駆け上ると、
「我を誰だと思うか。原田の二郎種直。今年二十七歳。剛なる者の腹の切り方を良く見て、手本とせよ。」
と言い放って、腹十文字に掻き切るのでした。藤王の首は、直ちに鎌倉へと運ばれました。種直の心の内は、何にも例え様がありません。
つづく
明け方になって、種直は、御僧の寝ている座敷に立ち寄って、声を掛けました。
「申し、御僧様。夕べは、酒に酔って、つまらない事を話してしまいました。あの話しは無かったことにして、鎌倉殿にお伝えするのは、絶対にやめて下さい。さあ、もう夜も明けますので、どうかお起き下さい。」
種直が、障子を開けてみると、御僧の姿はありません。種直が、驚いて座敷に入ると、扇が置かれているのが見えました。
「これは、慌てて、お忘れになったか。」
と、種直が取り上げて、開いて見てみると、
「なになに、原田が本領、返し与える。春になったら、鎌倉を訪ねよ。」
と、鎌倉殿の御判が据えてあるではありませんか。御台所と諸共に、その喜びは限りもありません。この事を聞き付けて、曽ての郎等達も戻ってきました。そうして、明くる年の春になったのです。
種直が、御台所に、
「鎌倉殿のお言葉に従い、急いで鎌倉へ下ることにするぞ。」
と、告げると、御台所は、
「そうですね。それでは、私もお供をして、都まで参ります。それというのも、私には、宿願があるのです。」
と言うのでした。種直は、輿を整えて、御台所を乗せると、早速に都へと上って行きました。
さて、都に着くと御台様は、あちらこちらの「神虫(しんちゅう)」(厄除け札)を、集めて廻るのでした。そうこうしている内に、もう秋の半ばになってしまいました。種直が、
「さて、鎌倉殿は、春には下れと仰っていたのに、春どころか、もう秋も半ばになってしまったぞ。急いで、鎌倉へ参ろう。」
と言うと、御台様は、
「いつ、お知らせしようかと、思っていましたが、実は、私の胎内には、七月半の嬰児があります。どうか、男の子か、女の子かを、確かめてから、鎌倉へお下りくださいませ。」
と、願うのでした。しかし、種直は、
「その子が生まれて、男子ならば、この形見を取らせよ。」
と、守り袋と、黄金造りの御佩刀(はかせ)を渡すのでした。御台所は、仕方無く、法華経の七の巻きを取り出すと、
「このお経は、安穏長寿の経ですから、道中のお守りとして下さい。」
と言って、互いに形見を取り交わすのでした。こうして、種直主従は、鎌倉へと向かったのでした。
さて其の頃、鎌倉の一族の者どもの元には、原田が本領を安堵されて、鎌倉へ下って来るらしいという知らせが既に届いていました。種直が、下ってくれば、自分たちの讒奏が明白になり、打ち首は逃れられません。いろいろ評定した結論は、再び讒奏をして、原田追討の軍勢を出せるようにしようということでした。一族の面々は、御前に出ると、
「原田次郎種直が、鎌倉に攻め下って来きます。知らせによると、昨年の秋に、鎌倉殿が筑紫で、原田の館にお泊まりになった折、原田は、鎌倉殿と知らずに逃がしてしまったので、無念と思い、攻め下って来るということです。」
などと、讒奏を繰り返すのでした。しかし、鎌倉殿は、この一族が、讒奏をしたことを知っていましたから、取り合いませんでした。しかし、一族の面々は、
「後々、後悔いたしますな。御覚悟下さい。」
等と、しつこくも、七回も訴訟したということです。あまりしつこいので、鎌倉殿は、
「そこまで言うのならば、あなた方が、迎え撃てば良いでしょう。」
と、言ったのでした。一族の三千余騎が、由比ヶ浜で、種直を迎え撃つことになりました。
そこへ、待ち伏せのことなど、夢にも知らない種直の一行が来ました。待ち伏せの人々が、
「そこを通るのは、原田殿か。鎌倉殿のご命令により、成敗いたす。腹を切られよ。」
と、呼ばわると、種直は、
「さては、又、讒奏したな。」
と、大勢の中へ飛び込んで入り、ここを最期と戦いました。しかし、多勢に無勢、やがて種直達は、郎等四五人にまで、切り崩されてしまいました。最早これまでと、種直は腹を切ろうとしましたが、藤王という家来が、取り縋って、
「お待ち下さい。君は、ここは先ず、落ち延びて下さい。命を全うする亀は、蓬莱山にも辿り着くと聞きます。畏れ多き事ですが、君の名を名乗って、私が腹をきります。」
と言うのでした。種直は、
「浅ましい死に方をするぐらいなら、腹を切った方がましだ。」
と、はねつけましたが、どうしても藤王が取り付いて離れないので、とうとう、種直は、簑笠を付けて、浜地へと落ちたのでした。寄せ手の者達は、これを見ると、種直とは知らずに捕縛して、落人なりと言いながら、鎌倉へ引いて行きました。それから、藤王は、再び大勢に飛び込んで、散々に戦いましたが、やがて小高い所に駆け上ると、
「我を誰だと思うか。原田の二郎種直。今年二十七歳。剛なる者の腹の切り方を良く見て、手本とせよ。」
と言い放って、腹十文字に掻き切るのでした。藤王の首は、直ちに鎌倉へと運ばれました。種直の心の内は、何にも例え様がありません。
つづく
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