かさでら観音の本地 ④
さて、菖蒲の前をまんまと消すことができたと喜んだ北の方でしたが、ひとつだけ、
気にかかることがありました。
「今は、もう、思いの儘に、菖蒲の前を消し去ったが、下の水仕の糸竹を、このまま生
かしておいては、いつ、この秘密を人に話すとも限らぬ。」
と、北の方は思案して、糸竹を呼び出しました。北の方は、糸竹に、
「さて、お前は、下郎とはいいながら、この度は、大事の御用を良く果たしました。そ
こで褒美に、身に付けた衣装は、残らずお前にあげましょう。それに、お前は、あの猿
回しに恋いこがれていると聞きました。褒美に、暇を取らせましょう。この文を持って、
都の方へ尋ね行けば、必ず巡り会えますよ。さあ、早く行きなさい。」
と、誠しやかに言いました。真に受けた糸竹は、涙を浮かべてお礼を言うと、そさくさ
と、都を指して出発しました。
糸竹が、急ぎ、都を目指して歩き出すと、後ろから、男が二人追いかけて来ます。
「やあ、待て。おのれは、誰に断り、番所を抜け出るか。法を背く科人め。やれ、討て、
殺せ。」
と、糸竹を取り巻きました。糸竹は、騒がず、
「いやいや、わらわは、御台様の仰せによって、参る者。不躾なことして、後で、後悔
召されるな。」
と、睨みつけますが、男達は、
「愚かなことを、糸竹。我々は、御台様の命令で、これまで追っかけて来たのだ。覚悟
せよ。」
と、言うなり、間髪入れずに、ちょうどと、糸竹を切り捨てました。ああっとばかりに、
もんどり打って倒れた糸竹は声を上げ、
「ええ、さては、謀り追い出して、殺すつもりだったのか。ああ、腹立たしや、口惜し
や、この恨み、晴らさでおくものかあ。」
と、言う声も聞き入れず、男達は、散々に切り付けて、糸竹を殺害したのでした。
そんなことがあったとも知らない滋賀殿は、北の方、兄弟ご一門を集めて、宴を開い
て、憂さを晴らしておりましたが、思い出すのは、哀れな菖蒲の前の事ばかりです。世
の無常を感ぜずにはいられません。そんな時に、突然、築山の陰より、怪しい物が現れ
出ました。一座の人々は、いったい何が出たかと見てみると、なんとそれは、色青ざめ
た女の生首ではありませんか。苦しげに吐く息は、火炎となり、その髪の毛は、長々と
梢にまとわり、たなびいて、凄まじばかりの有様です。滋賀殿は、太刀をおっとり、縁
先に走り出ると、
「おのれは何者。推量するに、菖蒲が前の亡魂か。おのれが、不義故、殺されしことな
れば、誰を恨んで、ここまで来たるか。」
と、大音声で呼ばわると、生首は、
「いや、これはもったいなき仰せかな。どうして、菖蒲の前でありましょうか。恥ずか
しながら、自らは、下に召し使われおりました糸竹が亡魂でありまする。それなる御台
様の御心底の恨めしや。御台様の頼みとて、もったいなくも姫君の縁切りに荷担しまし
たが、それも皆、御台様の計らい。私に何の罪科あって、情けなくも、刃に掛けて殺し
たか。その上、冥途へ行っても、やんごとなき縁を妨げた科により、阿鼻大焦(あびだ
いしょう)の地獄に落とされ、浮かぶ事もさらに無し。この上は、子々孫々に至まで
悉く取り殺し、今生の恨みを晴らしてやる。ああ、苦しい。」
と、叫ぶ声が、御殿に響き渡りました。人々は、ひっそりと静まりかえって、物を言う
者もおりません。全ての秘密が暴かれた今、滋賀殿は、はあっと、大きな溜息を付き、
「ええ、浅ましや。このような子細とは、露も知らずに、菖蒲の前を失ったことの無念
さよ。草葉の陰にて、さぞや父を恨んだことであろう。」
と、歯がみをして、涙に暮れました。やがて、滋賀殿は、きっと立ち上がると、
「ええ、浅ましき火宅(かたく)の住まい。これこそ、発心の門出。」
と、言うなり、髻をばっさり切って捨て、物も言わずに、館を去ろうとしました。驚い
た兄弟が、取り付くと、滋賀殿は、兄弟を左右にかっぱと突き倒して、
「妻子珍宝(さいしちんぽう)
及王位(きゅうおうい)
臨命終時(りんみょうしゅうじ)
不随者(ぶずいしゃ)」(大集経虚空蔵菩薩品)
(※死ぬ時は、何も持っては行けないという意味)
と、言い捨てると、滋賀殿は、そのまま遁世してしまったのです。
主を失い、幽霊が出る怖ろしい御殿から、人々が去るのは、あっという間でした。
今は、もう、荒れ果てた御殿に、御台と兄弟だけが寂しく取り残されました。この人々
の心の内は、哀れともなかかな、申すばかりはありません。
つづく
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