猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ④

2013年01月23日 14時20分53秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ④

さて、都に上った金王丸は、常磐御前がいらっしゃる紫野(むらさきの:京都市北区南部)

に着きました。金王は、早速に常磐御前のお前に出て、

「さしも、剛の殿も、長田に討たれてしまいました。又、鎌田親子も残らず討たれ、某

も、討ち死にをしようと思いましたが、相手になる敵がおりません。長田の子供五人を

討ち取りましたが、残念ながら長田を取り逃がしました。長田を追って、これより六波

羅へ参るつもりです。ここに、居たいとは思いますが、少しでも早く、長田を討ち取っ

て、我が君のご供養に供えたいと思います。それでは、お暇申します。さらば。」

と、言い捨てると、行方をくらましてしまいました。

 可哀相に、常磐御前は、夢か現かと驚いて、

「やれ、金王よ。暫く留まって、殿の御最期の様子を詳しくお話下さい。ああ、恨めしい

世の中よ。」

と、声を上げて泣き崩れました。ようやく、涙を押しとどめると、常磐御前は、

「さては、長田は翻意して、殿を討ったのですね。さぞや、無念に思われたことでしょう。

この若達や、私は、これからどうしたらいいのでしょう。どうしようも無い身となって

しまいました。」

と、つぶやいて、又泣く外はありません。しかし、泣いてばかりいても仕方ありません。

常磐御前は、

「今となっては、嘆き悲しんでも仕方がない。ここに留まっていては、六波羅が追っ

手を差し向けて来るに違い無い。まだ、触れの出ない内に、どこかへ落ち延びなくては。」

と、思い直しました。そこで、先ず母上に、供を一人付けて、乳母の所へ送りました。

それから、三人の若、乙若、今若、牛若を連れて、密かに館を忍び出たのでした。行

き先も定めぬ心細い旅立ちです。常磐御前の胸の内が思いやられます。

 兄、今若の装束は、練り絹の肌着に白い綾地の直垂(ひたたれ)。弟の乙若の装束は、

紅の二つ衣(重ね着の着物)に帯を締めただけです。ご自身は、十二単の裾をたくし上

げ、二歳になる牛若を懐に抱いて、市女笠で顔を隠しました。五條の辺りの黒土で、初

めて足を汚すお姿は、哀れとしか言い様がありません。

 時は、永暦元年(1160年)正月17日の夜の事です。清水参りのこの夜は、多く

の人々が、行き交っています。常磐御前は、人々に紛れて清水寺に詣でました。左の格

子に入り、十の蓮花(手)をもみ合わせ、八寸の頭を地にすりつけると、常磐御前は、

「そもそも、清水寺は、田村丸(田村麻呂)が、大同二年(807年)にご建立されました。

誠に、霊験新たかの観世音。三人の若達の行く末を、お守り下さい。」

と、お祈りをし、その夜は、清水寺に隠れました。翌朝、常磐御前はご本尊の前から

立ち出で、西門に佇んで、遙かの西を眺めました。

「四条、五条の橋が見える。清き石川(?)の流れは、末の世まで続くのでしょう。あ

の西の境を過ぎ行けば、実りの花も咲くことでしょう。この道は、六道の辻とか、聞き

ますが、ほんとうに冥途へ続いているとは、恐ろしいことです。」

と、つぶやいて、歩き始めました。

(以下道行き)

下り居(おりい:馬や車に乗らないこと)の衣、播磨潟(兵庫県明石)

飾磨(しかま:兵庫県姫路市)の歩行路(かちじ)、苦しやの

その垂乳根(たらちね)を尋ねん

心細さは、鳥辺山(鳥野辺;火葬場)

煙の末も、浮き雲の

定め無き世の、露の身の

頼む命は、白玉の(※をに掛かる掛詞)

おたぎの寺や(愛宕念仏寺:京都市右京区嵯峨野)六波羅の観音堂を伏し拝み

「如何に、若達。ここは、敵(かたき)の館の前。こちらへ早く来なさい。兄弟よ。」

と、市女笠を傾けて、足を速めて急がるる

都にな高き大仏や

三十三間(三十三間堂:京都市東山区)伏し拝み、

阿弥陀が峰も見え渡る。(京都市東部の山:東山三十六峰)

一二の橋(一条・二条)や、法成寺(京都市上京区にかつてあった)

山崎千軒(京都府乙訓郡大山崎町)、宝寺(宝積寺)、松ヶ崎(京都市左京区松ヶ崎)をも打ち眺め

木幡(こばた:宇治市木幡)の山に着き給う

時は、正月十八日のことです。宇治は、春雨が降りますが、木幡の山は、まだ雪深い

頃です。降る白雪を払いながら、急ぐ姿は、哀れなかぎりです。若君達は、たまりかね

て、声を上げ、

「どうして、お乳や乳母はいないのですか。どうして母上には、付き人が居ないのですか。


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