説経節と一口に言ってしまった場合、何を指しているのか困ることがある。私は長い間、そのことにすら気が付かないでいた。
私が伝承した「薩摩派説経節」は、初代薩摩若太夫から約200年の歴史があるが、これは、学者が、「後期説経節」と呼ぶように、江戸時代の後期(寛成・享和・文化頃)に、新たに作曲された説経節である。元祖の説経節は、約400年前の寛永から亨保の約百年間に、人形操りとして人気を得ていた。「説経節」(東洋文庫)や「説経正本集」(角川書店)に収録されている「説経節」は皆、この時代に出版された木版本を翻刻した資料である。但し、正本化される以前にも長い「説経節」の歴史があったであろうと推測される。
この元祖「説経節」の時代には、大阪与七郎、佐渡七太夫、天満八太夫、日暮小太夫と言った太夫達がいて、人気を博していた。しかし、この元祖「説経節」は、近松門左衛門の義太夫浄瑠璃に駆逐・吸収されて消えてしまう。「説経」は、文字としては残ったが、「節」としては全く失われた。
実は「薩摩派説経」は、正確には説経「節」ではない。初代若太夫の正本には「説経祭文」と書いてあるからである。これまで、薩摩派をどういうわけか説経節と言い習わしてはきたが、よくよく考えて見ると、やはり「説経祭文」と呼ぶべきであろうと思う。初代若太夫は、「説経節」に関する知識は当然あったと思われ、「説経節」の正本にも目を通していたと思われるが、それが、どんな「節」で語られたのかは分からなかった。彼にとっても百年も前に廃れた芸能である。そこで、初代若太夫は「祭文」もしくは「歌祭文」の「節」を流用させて、京屋五鶴に新たに三味線音楽を作曲させた。それが、現在「薩摩派説経節」と呼ばれているものである。祭文の節は七五調であるから、当然、章句も若太夫によって新たに作られた。「説経祭文」は、内容は「説経節」を下敷きにしているが、章句はかなり異なる。また、「説経節」を下敷きにしないで、浄瑠璃化された説経節を下敷きにしているものもある。
薩摩派の章句と節しか知らない者(かつての私のことであるが)からすると、元祖「説経節」の章句は大変扱いづらい。「説経祭文」の「節」には乗らないのである。つまり、「説経節」では、語る「言葉」が重要であり、「節」は「言葉」に従属してつけられたのだろうと思われるが、「説経祭文」では、「節」があって、「言葉」が従属したと感じる。「祭文」しか知らなかった私は、長いこと「古い説経は、やっぱり、ササラとか鉦とかをたたいて、お話調に語っていたんだろう。」と勝手に思っていた。
ずいぶん長いこと、そういう誤解のままに過ごしたと思う。それは、「薩摩派説経節」という言葉の使い方に原因がある。「祭文」ということが強調されていれば、「説経節」とは別物なのだという意識が持てたであろうが、やっている本人がよく理解できていなかった。
400年前の「説経節」には、既に三味線も用いられて、人形操りの興業を盛んに行っている。確かに「節」があったはずだ。元祖「説経節」の章句を語った「節」はどんな「節」だったのだろうか?初代若太夫は、「説経節」語るために「節」を付けたのではなく、「祭文」の節で説経を語れるように章句を改作、あるいは改竄し、「説経祭文」を作ったが、古い「説経節」のままに語れるように「節」を工夫することが、ほんとの「説経節」ではないだろうか。
このことは、最近、調査した名古屋甚目寺の「説教源氏節」でも同じである。これも「説教祭文」とあり、しかも「清元」という新浄瑠璃の「節」を流用して、その章句も、独特に改変している。
説経節と同時代の浄瑠璃を「古浄瑠璃」と呼んで、近松門左衛門・義太夫浄瑠璃の「浄瑠璃」と区別しているが、この古浄瑠璃も古曲として豊後節などが辛くも残っているが、その外はどのような「節」だったかを知るすべはない。また、「説経節」を語っていた各太夫達が、同じ「節」を語ったわけではない。当時の正本には、「せっきょう」とは書いてあるが、「説経節」とは書いてない。「節」は太夫本人の固有のものであり、例えば、天満八太夫であれば、「天満節」と呼ばれた。
そこで、私は、こう気が付いた。
現在、「説経祭文」を語る者は、日本全国に、私も含めて十数人は数えることができそうであるが、「説経節」を語る者は一人もいない。(ささら語りを除き、三味線で「節」を語るもののみを数える)
「節」は太夫に固有のものであるはずだから、「説経節正本」の章句をそのままに使い「節」をつければ、即ち、それこそが「説経節」である。
新しい仕事が見えてきた。
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