猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑦

2011年12月02日 10時42分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑦

 無事に日本に戻った道元、道正が、京の都に到着されたのは、安貞(あんてい)元年丁亥(ひのとい)(1227年鎌倉時代)の年のことでした。道元は、帰朝の報告をするために、装束を改めて参内されました。禁裏において諸々の奏聞をすると、御門よりの宣旨に、

「いかに道元、この度の入唐、衆生利益の勧めは如何に。」

と問われました。道元は謹んで承り、

「元より、愚魂の僧ですから、なんとも、申し上げることもできませんが、この碧巌録は、長く衆生済度のために、大変有益な有り難い宝経であります。」

と、達磨の三祖(道信)、六祖(慧能)の大事の秘事、悟るところの妙典を、謹んで差し上げました。

 御門を初め、公卿、大臣。各々が開いて見てみると、成る程博学、叡智に溢れて言葉に尽くすこともできないすばらしさです。一同、誠に道元禅師こそ、達磨の二度目の出世であり、日本の宝であると感歎しました。そして、御門より、

「さても道元禅師、曹洞一宗の開山たるべし。」

という宣旨を頂き、併せて、紫の玉衣を拝受しました。そして、道正には、一宗の官位を給わり、宇治の里に寺を建立するように仰せつけられました。

 さて、御前を罷り立つと、早速に宇治の里へ行き、天童八景を映して「興聖寺(こうしょうじ)」を建立なされました。(※実際の興聖寺は伏見区深草)道元、道正は、日々行い澄まして修業を重ね過ごしておられましたが、ある時道元は、

「今、濁世(じょくせ)の衆生は、病苦に責め苦しめられ、苦悩を悲しむばかりで、仏道に帰依しようとする者は少ない。衆生を化度するために、神仙解毒を慈悲に施して、病苦を救い、重ねて仏道を説き聞かせて、成仏の本懐を遂げさせるための布教をしよう。」

と、考え、京洛中に高札を立て、近隣諸国に触れを出して、貧民救済に乗り出しました。貧なる者には食物を、病者には解毒を与えて救済し、いかなる病も、平癒しないということはありませんでした。

 さて、ここに又、哀れをとどめしは、小原という山奥に、貧女の親子がおりました。いたわしいことにこの貧女は、幼い時に父を失い、母と伴に十八年の春秋を、あなたこなたと流浪しながら過ごしたのでした。その心の内こそいたわしい限りです。憂きことばかりの生活に、母親は、三年以前より足腰も立たず寝たきりになっていました。なんの生業も無く、貧女は、里田におりては、落ち穂を拾い、作物を盗んでは母親を養ってきました。貧女はある日、母親にこう話ました。

「この頃、都には、尊いお坊様が御説法をされ、その上名誉のお薬を慈悲に施すと聞きました。私は、都へ行ってそのお薬をもらってこようと思います。すぐに戻ってきますから、寂しくとも待っていてくださいね。」

母上は、これを聞いて、

「それは、よいことを聞いてきた。わしも一緒に都へ行き、御説法も聴聞して、菩提の種ともしたいものじゃが、少しの道も歩まれぬことの悲しやな。」

と、嘆き悲しみました。親孝行な貧女は、

「それほどに願われるのなら、私が連れて行ってあげましょう。」

と、なんとか、母を都まで連れて行く手立てはないものかと思案していますと、道端に捨て置かれたの土車が目に留まりました。

 貧女は、母を土車に乗せると、縄を肩に掛けて、小原の山奥から引き出しました。しかし、ボロボロの土車は言うことを聞きません。あっちで休み、こっちで休みして、ようやく東寺あたりまで来ましたが、あまりも揺られ過ぎた母親は、疲労のあまり意識不明の重体となってしまいました。貧女が呼べど叫べど答えません。せっかく都までやって来たのに、母を死なせてしまったと、貧女は、車に取り付いて泣くばかりです。

 そこに通りかかったのは、神仙解毒を広めるために布教をしていた道正でした。道正は、泣いている貧女を見ると、声を掛けました。

「いったいどうして泣いておられるのですか。」

途方に暮れていた貧女は、喜んで、

「のう、お坊様、これは私の母上ですが、今、亡くなってしまったのです。」

と、道正に取りすがって泣き崩れました。道正が母の容体を見ると、虫の息とはいえまだ生きているようです。さっそく神仙解毒を取り出すと、口でかみ砕き、老女に与えました。すると、たちまちにほっと息をつき、意識を取り戻すと目を開けました。

「ああ、苦しい、苦しい。私はどうしたのじゃ。このお坊様は?」

と、起きあがりました。喜んだ貧女は、母に飛びついて、

「母上様、御身は、一度お亡くなりになったのですが、お坊様のお慈悲で、蘇えられたのです。」

と、泣きながら語りました。母上は、

「これは、有り難い、有り難い。」

と、道正に手を合わせて拝まれました。道正は、

「何事も、宿業なれば是非もなし、ただただ念仏を唱えなさい。それにしても、娘の母孝行の志、あまりに不憫なことである。愚僧が庵に来て、我れらが教化を受けなさい。」

と仰りました。貧女はこれを聞いて、

「誠に、有り難き仰せですが、車にて母を曳けば、また容体が悪くなってしまいます。今夜は、ここにて休み、明日尋ねることにいたします。」

と、答えましたが、道正は、お供の者に母を担がせて、貧女を伴って庵にもどったのでした。

つづく


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