「天智天皇」という浄瑠璃は、近松門左衛門三十七歳の作品であり、元禄二年に初演され、当時、大変な人気を集めたらしい。内容的にも奇想天外のストーリーで、確かに面白い。
その舞台は、様々な絡繰りを展開して、観客をあっと言わせたようである。これを、江戸の人々も見たかったのだろう。天満重太夫は、「天智天皇」を説経に焼き直して、江戸で演じた。元禄五年(1692年)のことである。(説経正本集第三(41))
天智天皇 ①
思無邪(しむじゃ)の三字は、神を拝む心の大本であり、怖不敬(ふふけい)の三字は、
祭典を行うに当たって尤も重要な心掛けである。神を祀る時には、神がそこに居ると思って、
勤めなければならない。
さて、斉明天皇という方は、舒明天皇のお后様でしたが、十全の位に就かれ、一天四海
の浪も静まり、家の戸を閉める必要も無い程の泰平の世を治められたのです。斉明天皇には、
皇子が二人おりました。第一の皇子を「逆目の皇子」(架空)と言い、その背丈は一丈あま
り(約3m)で、色は浅黒く、その目は逆様についていたと言うことです。そのお姿は、夜
叉の様で、その性格も、生まれつき放逸でありましたから、父舒明天皇の勘気に触れて、
二条の館に蟄居させられておりましたが、母斉明天皇の嘆願によって、舒明天皇の崩御の折
に、恩赦を受けて、参内できるようになりました。
第二の皇子は、「葛城の宮」(中大兄皇子)と言い、そのお姿は、大変艶やかで、慈悲第一
のお心をお持ちでしたので、次期天皇の位は、葛城の宮が継ぐことになっていました。諸卿
は皆、葛城の宮を尊敬して、仕えていたのでした。
時の摂政は、左大臣の有澄と右大臣の是澄(架空)が勤め、民の事を考えて天下の政を
行っておりました。
それは、天智元年(662年)のことでありました。斉明天皇は、諸卿を集めて、次の様
に宣旨を下されました。
「今月十六日、葛城の宮へ、位を譲ります。そこで、眉目(みめ)貌(かたち)の美しい
姫があれば、后にしたいと思います。」
右大臣是澄は、
「これは、大変有り難い宣旨です。左大臣有澄の姫こそ、三国一の美女と聞いております。」
と答えました。しかし、その時、逆目の皇子は進み出で、
「確かに、それはそうかもしれませんが、広く姫探しをしては如何でしょうか。姫の絵を
描かせて、これを見比べ、一番の美人を后とするべきです。丁度、金岡という老人の絵師
がおりますが、この者は、いずれの奥へも出入りを許され、姫達の姿も良く知っております。
金岡親子に絵を描かせるようにお申し付け下さい。」
と言うのでした。斉明天皇は、尤もであると思い、金岡を内裏に召し、諸卿の姫を絵に写す
ように命じたのでした。吉田の少将が、熊野誓詞を取り出すと、金岡親子は、贔屓をしない
という誓いを立てさせられました。それから、親子は姫達の絵を見たままに描いたのでした。
一方、左大臣有澄は、天下安全の祈願の為、その頃、白鬚明神(滋賀県高島市)に参詣しておりました。
さて、逆目の皇子は、家来達を集めて、こう話しました。
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