猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ①

2013年06月08日 10時02分59秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

「天智天皇」という浄瑠璃は、近松門左衛門三十七歳の作品であり、元禄二年に初演され、当時、大変な人気を集めたらしい。内容的にも奇想天外のストーリーで、確かに面白い。

その舞台は、様々な絡繰りを展開して、観客をあっと言わせたようである。これを、江戸の人々も見たかったのだろう。天満重太夫は、「天智天皇」を説経に焼き直して、江戸で演じた。元禄五年(1692年)のことである。(説経正本集第三(41))

天智天皇 

思無邪(しむじゃ)の三字は、神を拝む心の大本であり、怖不敬(ふふけい)の三字は、

祭典を行うに当たって尤も重要な心掛けである。神を祀る時には、神がそこに居ると思って、

勤めなければならない。

 さて、斉明天皇という方は、舒明天皇のお后様でしたが、十全の位に就かれ、一天四海

の浪も静まり、家の戸を閉める必要も無い程の泰平の世を治められたのです。斉明天皇には、

皇子が二人おりました。第一の皇子を「逆目の皇子」(架空)と言い、その背丈は一丈あま

り(約3m)で、色は浅黒く、その目は逆様についていたと言うことです。そのお姿は、夜

叉の様で、その性格も、生まれつき放逸でありましたから、父舒明天皇の勘気に触れて、

二条の館に蟄居させられておりましたが、母斉明天皇の嘆願によって、舒明天皇の崩御の折

に、恩赦を受けて、参内できるようになりました。

 第二の皇子は、「葛城の宮」(中大兄皇子)と言い、そのお姿は、大変艶やかで、慈悲第一

のお心をお持ちでしたので、次期天皇の位は、葛城の宮が継ぐことになっていました。諸卿

は皆、葛城の宮を尊敬して、仕えていたのでした。

 時の摂政は、左大臣の有澄と右大臣の是澄(架空)が勤め、民の事を考えて天下の政を

行っておりました。

それは、天智元年(662年)のことでありました。斉明天皇は、諸卿を集めて、次の様

に宣旨を下されました。

「今月十六日、葛城の宮へ、位を譲ります。そこで、眉目(みめ)貌(かたち)の美しい

姫があれば、后にしたいと思います。」

右大臣是澄は、

「これは、大変有り難い宣旨です。左大臣有澄の姫こそ、三国一の美女と聞いております。」

と答えました。しかし、その時、逆目の皇子は進み出で、

「確かに、それはそうかもしれませんが、広く姫探しをしては如何でしょうか。姫の絵を

描かせて、これを見比べ、一番の美人を后とするべきです。丁度、金岡という老人の絵師

がおりますが、この者は、いずれの奥へも出入りを許され、姫達の姿も良く知っております。

金岡親子に絵を描かせるようにお申し付け下さい。」

と言うのでした。斉明天皇は、尤もであると思い、金岡を内裏に召し、諸卿の姫を絵に写す

ように命じたのでした。吉田の少将が、熊野誓詞を取り出すと、金岡親子は、贔屓をしない

という誓いを立てさせられました。それから、親子は姫達の絵を見たままに描いたのでした。

一方、左大臣有澄は、天下安全の祈願の為、その頃、白鬚明神(滋賀県高島市)に参詣しておりました。

 さて、逆目の皇子は、家来達を集めて、こう話しました。


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