ぼん天こく ⑥終
羅仙国は、人が住む国ではないので、通りかかる者もありません。中納言はたった一
人で、話しかける相手もありません。たまに聞こえてくるのは、浜の千鳥が友を呼ぶ声
だけです。州崎に寄せてくる浪の音があまりにも凄いので、中納言は、漢竹の横笛を取
り出すと、音も澄みやかに吹き始めました。
鬼の大王である破羅門王は、この中納言の笛の音を遠音に聞きつけて、
「なにやら、浜辺の方から、良い笛の音が聞こえてくるが、いったに何者か。連れて参れ。」
と言いました。眷属どもが、浜辺に出てみると、修行者が笛を吹いています。いきなり
取って押さえると、中納言を破羅門王の前へと引き据えました。破羅門王は、
「如何に、修行者。この国は、三界を隔て、人が来るような国ではないのに、どうやっ
てやって来たのだ。」
と、言いました。中納言は、大王の姿を見ると、
『南無三宝。これは、梵天国から逃げ出した罪人に違い無い。ここで、日本の者と言っ
ては、まずいな。』
と、考えて、
「私は、遙か数万里も離れた契丹国(けいたんこく:モンゴル)の者です。仏法修行に
出ましたが、悪風に流されて、ここに流れ着きました。どうか、哀れと思し召し、御慈
悲を下さい。」
と、答えました。大王は、しばらく中納言をしげしげと眺めると、
「お前の姿を、よくよく見ると、梵天国の婿となった中納言に良く似ておるな。お前は、
嘘を言っているのではないか。」
と、言うのでした。中納言は、にこにこと笑いながら、
「このような賤しい修行者を、比べようも無い、梵天国の婿とご一緒になされるのですか。
私は、五戒を守る僧ですから、一念五百生、懸念無量劫。梵天王の姫宮など、目に見る
ことすら、禁じております。」
と、答えました。すると、大王はこう言いました。
「それであるならば、苦しゅうない。実は、頼みがあるのだが、先ほど吹いていた横笛
とやらを、ちょっと聞かせてもらいたい。」
中納言は、早速に腰から漢竹の横笛を取り出すと、女子が男子を恋いし、男子が女子を
偲ぶ曲である、想夫連(そうふれん)という曲を、半時余り吹いたのでした。あまりに
素晴らしい笛の音であったので、大王を始め、鬼の眷属どもも皆、聞き惚れたのでした。
その笛の音は、御簾の内にいた天女御前にも聞こえてきました。天女御前は驚いて、
「おや、いったいどういうことでしょう。この笛の音は、妾が夫の中納言の笛。夫は、
ここに、どうやって来たのでしょうか。」
と、気もそぞろに、懐かしさの余り、声も上げずに忍び泣くのでした。その様子を見て
いた女房で、蛇骨の夜叉女という、心の獰猛な女は、
「姫君、あの修行者が吹くものを聞いて、涙をお流しになるとは、いったいどういこことです。」
と、言うのでした。天女御前は、これを聞いて、
「あなた方は、知らないであろうが、あれは、私が梵天国に居た時に、いつも吹いてい
た横笛というものなのですよ。久しぶりの笛の音に、故郷のことが懐かしくなって涙が
こぼれました。」
と、ごまかすのでした。
そんな折、破羅門王の所へ、隣国からの使者が訪ねて来ました。それは、隣国で起こ
っていた戦争の応援の依頼でした。やがて、破羅門王は、天女御前の所にやってきて、
「如何に姫君。隣国に合戦があり、三日の間、加勢に行って来る。すぐに帰るが、寂し
くなったなら、あの修行者に横笛とやらを吹いてもらうがよい。」
と言うと、出陣して行きました。さて、中納言も天女御前も、互いにそれと分かったも
のの、うかうかと近寄るわけには行きません。しかし、破羅門王が帰らぬ内に、なんと
かしなくてはなりません。そこで、天女御前は、酒宴を催すことにしたのでした。夜に
なると、女房達を集めて酒宴を開き、中納言には、隣の部屋で笛を吹かせました。自ら
酌に回って、酒を勧めました。やがて、夜叉女を始め女房共は、酔いつぶれてしまいま
した。時分を見計らって、天女御前は、抜け出すと、中納言の所へ行きました。こうし
て、ようやく二人は、再会を果たしたのでした。二人は、互いの袖にすがりついて、言
葉もありません。しかし、いつまでもそうしては、いられません。天女御前は、
「早く、葦原国へ帰りましょう。」
と言いました。しかし、中納言は、こう言うのでした。
「しい、声が高い。この島は、三界から隔たった島。私には帰る手立てが分かりません。」
これを聞いた天女御前は、
「それでは、鬼が秘蔵している千里を駆ける車を奪いましょう。」
と言うと、中納言を連れて車に乗り込んだのでした。そうして二人は、あっという間に
葦原国へと帰ることができたのでした。
やがて、夜叉女は、笛の音が聞こえないことに気がついて、かっぱと起きあがってみ
ると、天女御前も修行者も姿が見えません。驚いた夜叉女は、万里に響き渡る合図の
太鼓を叩いて、破羅門王に異変を伝えました。これを聞いた破羅門王は、何事かと、急
ぎ帰国しますと、姫君がおりません。
「さては、あの修行者めは、やはり中納言であったか。刹那に攻め入って八つ裂きにしてくれん。」
と、万里を駆ける車に飛び乗って、葦原国へ行こうとしました。ところが、その時、
梵天国より、四天王が飛んで来て、破羅門王の車を木っ端微塵に蹴破ったのでした。
さて、中納言と天女御前の二人は、無事に五條の館に戻ることができました。そして、
中納言は、梵天王の自筆の御判を、帝へと献上したのでした。帝は、
「日本の例しにしよう。」
と仰って、父の大臣高藤を勧請して、梵天の自筆の御判を添えて、五條の西の洞院に
「天使の宮」(五條天神:京都市下京区松原通西洞院西入天神前町)を祀り、国土を納
め、仏果をお守りになったのでした。
それから中納言は、本国の丹後・但馬を安堵されて、国に戻り、棟門を立ち並べて、
富貴の家と栄えたとのことです。その後、中納言殿は「切戸の文殊」、天女御前は「成
相の観音」として勧請され、今の世に至るまで、衆生を済度し、国土を守っていただい
ております。
誠に、上古も末の世も
例し少なき御事と
上下万民、おしなべて
尊っとかりともなかなか
申すばかりはなかりけり
おわり
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