石原慎太郎東京都知事の発言、「(新しい)原発を半分本気で東京に造ったらいいよ」…に怒ったぼくは
そのことを批判するエントリーを書きました
原発を東京に造る…なんてことあり得ない話で、そんなことを慎太郎がわからんはずはないでしょ
それに、そもそも慎太郎は東京に原発なんて造る気もまったくないのに
「半分本気」ならぬ、「半分冗談」のように、そんなことを言ったんです
そんでもね、ぼくかて、大阪府という都市部に住んでまして、
原発が近くにできないということにあぐらをかいてたんですわ
(今まで原発(の安全性)について、ぼくは何も考えてませんでした)
スリーマイル事故ではいちおう放射性物質の施設外放出はなかった…ということやったし
悲惨なチェルノブイリ事故かて、なんか遠い国、遠いところの話としか思えんかったし
かつ、何の根拠もナシに、あれはソビエトやったしな、日本やったら起こらんやろ…と
これまた深刻には受け止められへんかったんです
ぼくは原発の技術的なことなんかまったくわからんのですけど
それは結果から還元できる話やないのかな…と思うんです
スリーマイルやチェルノブイリからは還元できなかったぼくですけど
ぼくが住んでるこの国で起こったフクシマの事故によって、
原発は超危険で超有害なもんやった…ということにようやく気ーついたんです
ぼくが今頃になって気ーついたことを、ずっと前から気ーついてた人たちがいました
(ぼくはそういう人たちがいてはったということさえ、今まで知りませんでした)
おとといの新聞に、原子力の良心的専門家としてすっかり有名になった
京都大学原子炉実験所助教の小出裕章という人の記事が出てまして
そこにはこんなことが書いてありました
学生であった若き小出さんの素朴な質問に対する答え、
「国がやっていることだから」、「我々にも生活がある」…って、こんなん理屈になってないですよね
こういうことがあって、小出さんは原発の安全性に疑問をもち、その後の専門的な検討を経て
原発は人類にとって極めて危険なもの、極めて有害なものであることを確信したのだといいます
原発が都会につくられないことにあぐらをかいて、フクシマの悲惨な事故を身近で見てもなお
「半分本気」という「半分冗談」で「東京に原発をつくったら…」という男と
原発が都会につくられずに過疎地に押しつけられていることを目の当たりにして
原子力の研究者としての姿勢を180度転換した小出さん…
おんなじことを見て、一方は「都会に住んでる自分は安全」だということを前提にして
「何が起こっても原発を続けるんだ」と言い
もう一方は、「こんな差別は許せない」と感じて、研究者としての姿勢を大転換した…
この二人の違いはいったい、どこから来るんだろうか…とぼくは思わず考えるんです
小出さんが言うてはるんですけど、原発は差別の上に成り立つもんでしょ
それは、過疎地への差別と非正社員(電力会社に属さない作業員)に対する差別という
二重の差別構造によって成り立つんです
その二つの差別がなかったら、原発なんかつくられへんもんやし
動かしていかれへんもんなんです
過疎地に危険を押しつけて、電力会社に属さない作業員に危険を押しつけて
ぼくたち都会の住民と、電力会社の社員は、今まで原発からの利益だけを受けてきたんですよね
他者の犠牲の下で享受する利益って、いったい何なんでしょうか?
今ね、「原発止めたら電気足りない詐欺」がばれた原発推進派が
今度は、「原発やめたら電気代が上がる、経済が悪化する詐欺」やってるでしょ
その詐欺に乗っかったとしてもね、原発を続けて得られる利益は、
電気代があんまり上がらない利益や経済が悪化しない利益ぐらいなもんでしょ
なんでそんな利益が、(人命を含む)人の暮らしと天秤にかけられるんですか
小出さんは、原発をやめるのに、これ(=フクシマの事故)以上、何が必要なのか…って
呆れてはるんですけど、ぼくもまったくおんなじ考えなんです
原発をやめるのに、これ以上何が必要なんでしょうか
ホンマにぼくには、彼ら推進派の頭の中がわからんのです。。。
そのことを批判するエントリーを書きました
原発を東京に造る…なんてことあり得ない話で、そんなことを慎太郎がわからんはずはないでしょ
それに、そもそも慎太郎は東京に原発なんて造る気もまったくないのに
「半分本気」ならぬ、「半分冗談」のように、そんなことを言ったんです
そんでもね、ぼくかて、大阪府という都市部に住んでまして、
原発が近くにできないということにあぐらをかいてたんですわ
(今まで原発(の安全性)について、ぼくは何も考えてませんでした)
スリーマイル事故ではいちおう放射性物質の施設外放出はなかった…ということやったし
悲惨なチェルノブイリ事故かて、なんか遠い国、遠いところの話としか思えんかったし
かつ、何の根拠もナシに、あれはソビエトやったしな、日本やったら起こらんやろ…と
これまた深刻には受け止められへんかったんです
ぼくは原発の技術的なことなんかまったくわからんのですけど
それは結果から還元できる話やないのかな…と思うんです
スリーマイルやチェルノブイリからは還元できなかったぼくですけど
ぼくが住んでるこの国で起こったフクシマの事故によって、
原発は超危険で超有害なもんやった…ということにようやく気ーついたんです
ぼくが今頃になって気ーついたことを、ずっと前から気ーついてた人たちがいました
(ぼくはそういう人たちがいてはったということさえ、今まで知りませんでした)
おとといの新聞に、原子力の良心的専門家としてすっかり有名になった
京都大学原子炉実験所助教の小出裕章という人の記事が出てまして
そこにはこんなことが書いてありました
(原発が)本当に必要なら、なぜ電気を大量に消費する都会に原発を置かず、
過疎地にばかりつくるのか。この問いに答えられる教員はいなかった。
「国がやっていることだから」「我々にも生活がある」。こんな言葉が返ってきたこともあった。
学生であった若き小出さんの素朴な質問に対する答え、
「国がやっていることだから」、「我々にも生活がある」…って、こんなん理屈になってないですよね
こういうことがあって、小出さんは原発の安全性に疑問をもち、その後の専門的な検討を経て
原発は人類にとって極めて危険なもの、極めて有害なものであることを確信したのだといいます
原発が都会につくられないことにあぐらをかいて、フクシマの悲惨な事故を身近で見てもなお
「半分本気」という「半分冗談」で「東京に原発をつくったら…」という男と
原発が都会につくられずに過疎地に押しつけられていることを目の当たりにして
原子力の研究者としての姿勢を180度転換した小出さん…
おんなじことを見て、一方は「都会に住んでる自分は安全」だということを前提にして
「何が起こっても原発を続けるんだ」と言い
もう一方は、「こんな差別は許せない」と感じて、研究者としての姿勢を大転換した…
この二人の違いはいったい、どこから来るんだろうか…とぼくは思わず考えるんです
小出さんが言うてはるんですけど、原発は差別の上に成り立つもんでしょ
それは、過疎地への差別と非正社員(電力会社に属さない作業員)に対する差別という
二重の差別構造によって成り立つんです
その二つの差別がなかったら、原発なんかつくられへんもんやし
動かしていかれへんもんなんです
過疎地に危険を押しつけて、電力会社に属さない作業員に危険を押しつけて
ぼくたち都会の住民と、電力会社の社員は、今まで原発からの利益だけを受けてきたんですよね
他者の犠牲の下で享受する利益って、いったい何なんでしょうか?
今ね、「原発止めたら電気足りない詐欺」がばれた原発推進派が
今度は、「原発やめたら電気代が上がる、経済が悪化する詐欺」やってるでしょ
その詐欺に乗っかったとしてもね、原発を続けて得られる利益は、
電気代があんまり上がらない利益や経済が悪化しない利益ぐらいなもんでしょ
なんでそんな利益が、(人命を含む)人の暮らしと天秤にかけられるんですか
小出さんは、原発をやめるのに、これ(=フクシマの事故)以上、何が必要なのか…って
呆れてはるんですけど、ぼくもまったくおんなじ考えなんです
原発をやめるのに、これ以上何が必要なんでしょうか
ホンマにぼくには、彼ら推進派の頭の中がわからんのです。。。