煤色に曇る冬空に、海猫が啼いていた。
重く湿った潮の風に舞う翼は、水面を掠めながら、
高く、低く、荒れた波間の上に幾重にも飛び重なっている。
厚い雲間から零れ落ちる陽光はうねる波面を水銀色に染め返し、
薄墨色のフィルターに覆われた海辺は、
墨絵のようにうら寂しく色を失くしたまま、
打ち寄せ返す荒波を辛抱強く受け止めている。
「帰れ」
浜辺の一隅に置かれた木箱から一枚開きにされた魚を数枚掴み取りながら、
大隈多づは低く言い放った。
「来るなと言ったはずじゃ」
目線を上げずに言い足した視界の隅に、見慣れぬ男物のスニーカーが映っている。
紺色のキャンバス地の上に、海からの風に飛ばされた浜の砂が散っていた。
多づは腰を上げて横を向き、天日干し用の魚をセイロに並べた。
「そんなもん持って来られても迷惑なだけだ。帰れ」
沖からの波は風にうねり、打ち寄せる毎に大きな飛まつとなって
浜辺に砕け散っていく。
「聞こえんのか。帰れと言っておるんだ」
「生まれ育った海が見たいと仰っていたので・・・」
荒風の中をやわらかにくぐり抜けてきた声に、
シミだらけに日焼けした多づの手がふと止まった。
「息子さんの徳治さんが・・」
「わしに息子などおらん」
多づは背後からの声を遮断し、再び作業の手を動かした。
「あれとはとうの昔に縁を切った。勝手にこの土地から出ていき、
勝手に野たれ死んでいったんだ。勝手にどこにでも葬られたらいい」
多づは腰を屈めて足元の木箱に手を伸ばした。
死んだ魚の濁った目が、じっとこちらを見つめ返してくる。
ひび割れた深い皺に埋もれた多づの目が、ぐっと陰鬱に沈んでいった。
「・・・あんたどこの馬の骨とも知らんがな、」
多づは箱の底に残った数枚の魚を無造作に両手に掴み取り、
「一体どんな了見でここへ来た?」
向き直ったセイロにそれを一枚ずつ敷き詰めながら言葉を吐いた。
背中越しに感じる沈黙は、咆哮を上げて吹きすぎる海風の中で、
そっと静まり返っている。
「あれに何を吹き込まれたのか知らんがの、聞いた話を全部本気にしとるんか?
あいつはな、子供んときから一度だってまともに生きたことはなかった
大のろくでなしなんじゃぞ。ホラばかり吹いて、周りに迷惑かけ通しで、
自分では何にもせんと文句ばっかり言うて、そうして招いた自分の不幸に対してすら
全く責任を持てんかった、どうしようもないクズなんじゃ。あいつのせいでな、
わしはどれだけ嫌な苦労を背負ってきたか。あんた、こないな知ったようなことしてな、
手前でいい気になっておるだけだろうが、なんも知らんくせに!」
はちきれた怒りに多づは憤然と叫んで後ろを振り返り、
そこで目が合った眼差しに一瞬息を止めた。
ねばりつくように湿り唸る風の中で、その瞳はすっと鎮まり返ったまま、
真っ直ぐに多づの目を見守っている。
非難する色も、憐れみをなぞる色もそこには微塵もなく、ただ、
多づの気持ちをあるがままにしっかりと受けとめている。
「・・・帰れ」
多づは投げ捨てるように言って、視線を横に逸らした。
「今すぐ帰れ・・・」
ざらついた砂風が耳元を掠めていく。
「遺灰を・・・川に還しますが、それでよろしいでしょうか?」
そっと気持ちを包みこむように聞こえてきた言葉の響きに、
多づの目が僅かに揺れ動いた。ゆっくりと横に流れていった視線が、
相手の左肩に重そうに垂れ下がったバックパックに据えられていく。
「徳治さんの遺言・・」
「わしの知ったことか」
多づはぴしゃりと相手の言葉を低く遮り、
空になった木箱を足元から拾い上げた。
「そんなゴミは川にでもドブにでも好きなように捨てたらええ」
顔を上げた視線の先に相手の瞳があった。
こらえようもなく湧き上がってしまったような哀しみの色が、
その眼差しに深く濃く浮かびあがっている。
多づは両手に掴んだ木箱の取っ手をぎゅっと強く握り返し、
相手の顔を上目遣いに睨み返した。
あんたにな・・・、
と喉にへばり張り付いた言葉が、湿った風に絡むように吐き出されていく。
「そんな目でわしを見る権利はない。あやつのせいで、わしがどれだけ
しんどい思いをしてきたか、わしの人生がどれだけめちゃくちゃにされたか、
どれほど台無しにされてきたのか、その悔しさが、辛さが、あんたにわかるのか?
やつさえおらんかったら、わしの人生はどれだけましなものになっていたか、
あんたにその思いがほんの少しでもわかるんか?どれだけわかるんだ?
ちっともわからんだろう? お前になにがわかる! とっとと帰れ!
帰れ! 帰れ! 帰れ!」
多づは持っていた木箱を相手に投げつけ、踵を返してその場から歩き去った。
興奮にかられた足はしかしすぐにもつれて蹴躓き、よろりとその膝が砂浜に折れる前に、
背後から伸びてきた手がやさしく多づの身体を抱え直した。
「・・・離さんかい」
多づはぞんざいに言い放ったが、しかし両肩を支えてくるその手の温もりを
自分から振り払おうとはしなかった。
「そんなもん今更持ってきてもな・・・」
そっと離れていった手の温もりを追いかけるように、多づは後ろに向き返った。
目の前に佇む姿は、切ないくらいの温もりをその瞳に宿しながら、
悲しいほど物静かに清んでいる。
「・・・墓なんてないんじゃ」
全身のこわばりがほどけていく感覚に逆らえぬまま、
多づは吐き出すように言った。
「わしだってな、もうじきくたばれば無縁仏となる身なんだ。いいか、あんた、
金がなければ墓は買えん。金が払えなければ仏にも見放される。
その惨めさがあんた、わかるのか? 徳治を入れる墓なんてわしにはない。
だから川にでもどこにでもな、」
多づはそこで言葉を止め、相手の肩にかかったバックパックに再び視線を据えた。
「そんなもんは気の済む様にどこにでもぶちまけてやったらええ。
わしには一切関係のないことだ。もう二度とここには来るな」
多づはそう言って相手に投げつけた木箱を浜から取り上げ、
相手の眼差しを振り切るように砂浜を離れていった。
海風に吹かれ飛ぶ砂塵が、歩き去っていく多づの背中を灰褐色に霞ませていく。
「ヒデ、」
遠ざかっていく小さな背中を切なく見送り続ける瞳が、
背後からの呼び声に静かに振り返った。
萩原が、唸り吹く海風の中に立っている。
「筒井が缶コーヒー買って待ってるんだけどさ、」
萩原はダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、
捻った上半身を県道に向けた。閑散とした狭い二車線道路の脇に、
ボルボがポツンと横付け駐車されている。
「冷めないうちに戻らないとですね、」
「うん・・・」
萩原の言葉に吉岡は静かに頷き、
「天然噴火するからさ、あの野生人は」
そういいながら県道に向かって歩き出した萩原に、
ほんの少し微笑んだ。
先を行く萩原に、吉岡は肩を並べていく。
歩きながらそっと後ろを振り返った吉岡の視線の先に、
多づの姿はもう見えなかった。
川面に照り返す波光が、きらきらと、きらきらと、揺れ輝いていた。
木綿の白布に包まれた小さな箱からさらさらと流れ落ていく粉の粒子が、
ゆったりとした川の懐に包まれながら下流へと流されていく。
水際に片膝を落とし、吉岡は川の流れを静かに見つめていた。
俺がくたばったらな、 遺灰は故郷の川に流してくれ。
徳治から繰り返し聞いていた言葉が、川のせせらぎに重なっていく。
会いに行く度にいつも酒に酔っていた徳治だったが、
しかしその言葉を語っている時だけは、素面に戻った目をしていた。
俺はな、この世に生まれてくるはずじゃあなかったんだ。
父親がわからねぇ子供だったもんだから、産まれる前に、
おふくろは何度も川に流しちまおうとしたんだってよ、俺のこと。
だけどどうしても出来なかったらしくてさ、結局は産まれちまったんだ。
ほんとにろくでもねぇことばっかり俺はいつもしてたもんだから、
悪さをするたびに、おふくろはその話を持ち出してな、
お前なんか川に流しちまえばよかったんだって狂ったように泣き喚いてさ、
二人とも大喧嘩の繰り返しでな。自分の酷さはわかっちゃいたけど、
やっぱりそんな言葉をおふくろから毎日のように聞くのは耐えられなくてよ、
家飛び出したんだ、俺。二十歳をとおにすぎてたけどな、その時。
でもおふくろにしてみりゃ、100年以上の苦しみだったろうよ、俺との生活は。
それ以来おふくろのとこには帰ってないんだ。帰れないよな・・・。
合わせる顔がねぇよ。
吉岡は目線を上げて、向こう岸を眺め見た。
生い茂る常緑樹の枝葉が、冬の木漏れ陽に薄くきらめいている。
迷惑だけかけて、親孝行なんてひとっつもしてないからな・・・。
だからせめて俺が死んだらよ、遺灰を川に流してくれ。
俺が大真面目に言ってるってことは、秀隆、お前にならわかるだろ。
だからこうして頼んでるんだ。いいか、俺の遺灰はな、川に流してくれよ。
おふくろが俺を流そうとしても流せなかった川に、流してくれ。
それがせめてもの、親孝行になるかもしれんから・・・。
頼んだぞ、秀隆。
吉岡はバックパックから日本酒の小瓶を取り出して蓋を開け、
中に入った酒をそっと川に流した。
耳に寄せてくる瀬音はやさしく穏やかな子守唄を繰り返している。
川面を静かに見つめ続ける吉岡の心の中に、
息を引き取る間際に呟いた徳治の最期の言葉が、
ゆっくりと沈み落ちていった。
おかあちゃん・・・
吉岡はそっと目を閉じ、一つ静かに呼吸を深めながら、
再び瞼を開いて川の流れを眺め見た。
冬ざれの中を歩き去っていった多づの背中と、
母の名を呟きながら亡くなっていった徳治の姿が、
ゆったりと流れる川面の光に浮かんで揺らめきながら、
やがて下流へと静かにたち消えていく。
吉岡は川面に向かって深く静かに黙礼し、
それから白布の箱と空き瓶をバックパックの中にしまい戻して、
岸辺にそっと立ち上がった。不意の立ち眩みが襲ってきて、
目の前の視界がぐらりと前後に傾いだ。
「ガキの時さ、」
筒井が左腕を掴んで支えながら、崩れ落ちかけた吉岡の横に並んだ。
「不思議でしょうがなかったんだよな。沢山の川の水が流れ込むのに、
どうして海の水は溢れたりしないんだろうって」
吉岡が身体を立て直すのを目の端で確認しながらそう言ったあと、
筒井はジーンズのポケットに両手をつっこんで川の下流を見渡した。
「川は洪水を起こして溢れるのに、なんでそれを受け入れる海の水は溢れないんだ?
ってあるとき親父に訊いたんだ。そしたら親父のやつ、
“そりゃあな、川は感情であり、海は愛情であるということの証なんだ、小僧”
って答えてさ、アホじゃねぇのか、この親父は、って思ったんだけどその時は。
でも今ならさ、その言葉の意味がわかるような気がするんだよな、
なんとなくだけどさ」
「ただの強烈なおっさんってだけじゃないよな、お前の親父さん」
そう言いながら今度は萩原が何気なく後方から吉岡の右横に並んだ。
「“おい聖人、ちゃんと元気に落ち込んで大きくなれよ、それが人生だ”って、
会うと未だに言うんだよな。落ちた底には必ず何かが転がってるんだ、
見落とさずにきちんと拾えよ、それを、ってさ」
水面を伝う風が、川の流れを見渡す三人の足元に吹きすぎていく。
「徳さんってじいさんはさ・・・、何を拾ったのかな、その人生で・・・」
自問するように萩原は言って、向こう岸に臨む雑木林を眺め見た。
吉岡と筒井は、黙って静かに川の流れを見つめ続けている。
上午の陽は、終わりつつある冬の景色に和やかな光を降り注いでいた。
「・・・ずっと聞きたかったから聞くけどさ、ヒデ」
少し間をおいて、萩原が吉岡に尋ねてきた。
「答えるよな?」
有無を言わせぬ口調に吉岡はちょっと笑って、
それから、うん、と小さく頷いた。
「どうして警察学校に行こうと思ったんだ?」
前方を見つめたまま問いかけてきた萩原の言葉に、
吉岡は一呼吸おいてから目線を上げて、遥かを遠くを見渡した。
「そんな夢、一度も話したことなかっただろ、学生の時。
なんで刑事なんかになったんだよ、ヒデ?」
萩原は横を向いて、隣に佇む吉岡の横顔を見た。
景色を超えたどこか彼方を見つめる吉岡の瞳は、
穏やかな薄日を受けて、やわらかに澄みきっている。
照り返す波光が、薄く透き通るその白い肌に、
光と翳の彩光を揺らめかせていた。
「大学三年の夏に、ある人に出会ったんだ・・・」
風に揺れる光に記憶を辿っていくように、
吉岡は言葉を待つ二人にゆっくりと話し出した。
「立山を単独縦走したときに一晩、たまたま隣にテントを張ってた人だったんだけど、
その人が夜中に珈琲を入れてくれてね、互いにとりとめのない話をし始めて、
それでだんだんと話しこんでいくうちに、その人は15年以上も山に篭って
テント生活を続けているんだって打ち明けてくれたんだ。
20代の最後の記念にと一緒に登った冬の剣で遭難してしまった親友を、
今も探し続けているんだって言って・・・」
吉岡は思い出の中に帰っていくようにゆっくりと瞬きをし、
微かに伏せた睫毛をそっと上げて向こうの川岸に視線を渡した。
「一緒に頂上に並び立ったはずなのに、ほんの一瞬のうちにその親友は、
真横から崖下に消えてしまったって・・・。叫び声も聞こえなかったくらい、
それはあっという間の出来事だったらしくて・・・。間違って踏んでしまったんだ、
雪庇を・・・」
吉岡は微かに空を仰いだ。
灰色にくすんだ厚い雲が、川の上流へと流されていく。
「それ以来その人は、滑落してしまった親友の亡骸を、
ずっと探し続けているんだって言って・・・。
やりがいのあった都会の仕事を辞めて、
結婚の約束をしていた大切な人に別れを告げて、
山小屋の荷上げを手伝いながら、
三千メートルからの高みから落ちていってしまった、
どこかに瞑っているはずの親友の破片を探していて・・・。
一度、事故の何年か後に、亡くなった親友のご両親がテントにやってきて、
その人の案内で一緒に剣を登って、もちろん頂上までは行けなかったけど、
でも息子が最後に辿った道を登れて嬉しかったと、
だからもう充分だからどうか自分の人生を生きてくれって、
そのときに親友のご両親は言ったらしいんだけど、
でもその人は山を降りなかったんだ。
負ってしまった過去を、どうしても自分の背から
下ろすことが出来なかったんだよね・・・」
流れる雲が陽の通りを掠めて、川面に翳が横切っていった。
「その夏の間中、ずっとその人との出会いのことを考えていたんだけど、
暫くたってから決めたんだ、山岳警備隊に入ろうって」
そこで静かに話し終えて、吉岡は遠く川面を見渡していった。
筒井はじっと向こう岸に揺れる木々のさざめきを眺めつづけ、
萩原は目先を下っていく川の流れを見つめていた。
「遣り切れないじゃないか・・・」
しばらくして萩原が、川べりにぽつんと言葉を落とした。
「遭難したその親友も、それから・・・」
萩原は水流の一点に視線を据えた。小さな渦が円を描いている。
「ずっと親友を探し続けているその人も・・・遣り切れないじゃないか」
遥か前方を見つめる吉岡の瞳の色が、そっとかすかに霞んでいった。
筒井は川の流れを見渡したまま、硬く口を結んだままでいる。
「どうしてその親友が滑落しちゃったんだ?」
萩原は遣る瀬無い思いを言葉の数珠に繋げていった。
「どうしてその親友が死ななくちゃならなかったんだ?
どうしてその親友でならなくちゃいけなかったんだ?
どうしてその命はそんなにも早く消えてしまう運命だったんだ?
どうしてなんだよ、なんでなんだよ、遣り切れないじゃないか、
どうして・・・」
止め処もなく零れてきてしまう気持ちを、
萩原はぐっと両の拳に押し込めた。
「どうしてなのかは、誰にもわからないよね」
吉岡の穏やかな声が、
足元の川波を見据える萩原の耳に静かに伝わってきた。
「同時に頂点に並んだはずなのに、
どうして二人のうちの一人は雪岩の上に立ち、
どうしてもう一人は雪庇を踏んで滑落してしまったのか、
それは誰にもわからないよね。
誰にも説明できることではないし、
誰にも納得できることじゃないと思う。
それが・・・運命と呼ばれるものならば、
僕らに出来ることは、
それを受け入れること。
屈従せずに、
受け入れること」
風に舞う桜の花びらのように、吉岡の言葉はゆっくりと、
萩原の心の底に降り積もっていく。
「ハギ、」
つと顔を横にもたげると、
吉岡がいつものように微笑みかけていた。
「帰ろうか」
その肩越しに、背中を向けた筒井が、
ボルボの停まる小道へと向かってゆっくりと歩いていく。
吉岡はもう一度頷くように萩原に微笑むと、
静かに流れ続ける川の岸辺からそっと離れていった。
つづく
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