月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その52

2011年01月29日 | 小説 吉岡刑事物語




接見室に入ると、満悦顔の谷原とすぐに目が合った。
三島は厚いガラスを隔てた相向かいに腰を下ろし、
鞄から取り出した調書に無言のまま目を通した。

「ありがとうございます」

つと目を上げると、谷原とまた目が合った。締まりのない顔で笑っている。

「まだ決まったわけじゃない。判決はこれから出る。浮かれるのは早い」

三島は調書に視線を戻して言った。

「でももう決まったようなもんだってみんな言っていますよ。
俺は完全に無罪で、すぐにも娑婆に出られるって」

三島の眉間に深い皺が寄った。顔を上げて何か言いかけたが、
壁の時計が目に入り、思い直して調書の上へ視線を戻した。

「最後にもう一度確認しておくけれど、事件のあった両日、
君は関口さんの恋人と会っていた。それについてだけれど、」

「それはもう美香ちゃんがちゃんと証言しているじゃないですか」

三島は顔を上げた。

「君の口からもういちど確かめたいだけだよ」

「会ってましたよ、ちゃんと。美香ちゃん二股かけていたから。
関口ってほんとばかだよなぁ」

そう言って谷原は声を出して笑った。空気を歪ませるような笑い声だ。
いつ見ても聞いても好きになれない笑い方だった。
三島は灰汁のようにどうしても浮き上がってくる嫌悪感を追いやるように、
確認の質問を続けた。

「君の起こした過去の傷害事―」

「ねぇ先生、今度は関口が捕まる番ですよね?」

三島の口元が引きつったように締まり、ゆっくりと正面に上がった。
筋肉の緩みきった顔の谷原がこちらを見て笑っている。

「俺を捕まえたあの刑事、なんて言ったっけ、吉岡だっけ? 
俺が無罪になったら今度は関口を捕まえるのかな、俺のときみたいにさ、
自首しろとかいって」

三島の視線はじっと目の前の顔を捉えている。

「それは君には関係のないことだろう。あっちはあっちでまた勝手にやるさ」

それだけ言って、三島は再び調書の上に視線を戻した。

「でもむかっ腹たつよ、あの刑事。俺の大切な人生の時間を奪ったんだから。
許せないよ。先生には感謝しているよ。俺を救ってくれた恩人だからさ」

まただ。文面を追う三島の目に苛立が走る。勘違いするな。
俺はお前のために法廷で争ったわけじゃない。
お前を救おうなんて思った事ははなから一度もなかった。
三島は口から出かかった言葉を深い呼吸で押さえ込み、
調書に神経を集中しようとした。新しく出た状況証拠は全て法廷で立証されている。
利はこちらにあり、非は検察側にある。それはこれまでの公判で確定されたも同然だ。

「でも関口なんて、捕まって死刑になっても身内は全部死んじゃっているし、
誰も悲しまないから気が楽だよね」

三島の視線が、調書の上でピタリと止まった。顔を上げて、
いつになく饒舌になっている谷原の顔を見た。谷原は嗤っている。
嗤うという文字がその顔にはぴったりだった。

「そんなことはない」

三島は言ってやった。
谷原に対する嫌悪感が義務感を超えて出てきた不意の言葉だった。

「関口には一人息子がいる。実際その子は逃げていく犯人の後ろ姿を目撃している」

前回の公判の後、関口の息子が急に思い出したと言って口にしたことだった。
信憑性はないとして、検察も調書を取らなかった。
三島は壁の時計を見た。接見を早く終わらせて最終弁論要旨の確認をしたかった。
三島は再び調書に意識を集中させた。

「話は前後するけれど最初の事件・・・」

ふと周囲の空気が変わった気がして、三島は顔を上げた。
そこで全ての動作が止まった。谷原が、奇妙に顔を歪ませている。
分厚い頬の下の筋肉が、引きつったように痙攣していた。

「息子?」

滑稽なくらいに惚けた声で、谷原は聞き返してきた。

「そんなこと関口から聞いた事なかった」

三島は、急激な喉の乾きを覚えた。

「どういうこと、先生?」

三島の背中にじっとりと汗が流れ出てくる。耳の奥で金属音が鳴っていた。

「なにそれ?」

惚けた顔で固まっている谷原の口から言葉だけが零れ出てくる。

「説明してよ、先生」

谷原の視線が声が蛭のように三島の皮膚に張り付いてくる。
三島は乾いた口を開いた。

「関口さんは、自分に子供がいることがわかると、恋人の美香さんが
自分から離れていってしまうかもしれないと憂慮して、
店では子供がいる事を隠していたんだ」

まさか・・・。
疑念が否応無しに沸き上がってくる。
三島は必死でそれを心の奥底に押さえ込んだ。
谷原は白昼夢を彷徨っているような顔つきでぼうっとしたまま視線を宙に泳がせている。
今まで一度も見た事のない表情だった。
まさか・・・。
いやそんなはずはない。三島は疑念を振り払った。
繋ぎ合わせたパズルは完璧なはずだ。見落としたピースなんてない。
状況証拠はそろっている。谷原のアリバイは公判の証言で立証されている。
捜査のミスは明らかだった。疑いは最初から関口にあった。吉岡はミスをした。
だから俺はこいつを弁護した。勝てると思ったからだ、吉岡に。

「だけどその子供の証言はまるで当てにならないな」

三島は自分に言い聞かせるように言った。
谷原は長年の勾留生活から拘禁反応を起こしているだけだ。無理はない。
こいつは無罪だ。こいつはやっていない。
三島は洪水のように溢れ出てくる疑惑の念を払拭させるように、
わざと砕けた調子で声高に言った。

「隣の家との隙間から犯人が猛スピードで走り出ていったと言っているが、
そもそもそれは地形的に立証できない。所詮子供の作り話だろう」

その瞬間、谷原の身体から張りつめた空気が抜けていくのがわかった。

「そうだよね、あんな鉢だらけの場所をダッシュで走り抜けられる訳ないし」

三島の顔が凍りついた。時間が止まり、空間が歪んで、谷原の顔が視界に霞んだ。
顔から一気に血の気が引いていく。
どうしてそれを知っている?
三島は唖然としながら目の前にいる人物を凝視した。
調書にも碌に目を通さなかった国選弁護士に導かれての一審の死刑判決に冤罪性を感じ、
二つの事件を自分の足で一から調べ直して、接見、文通を繰り返した結果無罪だと確信した、
そう確信したからこそ弁護を引き受けたはずの、今目の前にいるこの男は、
一体誰だ?
三島は、したり顔で笑っている谷原の顔を見つめつづけた。
どうしてそれを知っているんだ?
犯人の靴後が残っていた犯行現場の家の脇道に、被害者の女性が育てていた
コスモスの花鉢が置いてあったと、その場に行ったはずのないお前が、
どうして知っている?
破顔している谷原が、一縷の懸念もなく自分を見つめ返している。
見た事もないくらいの醜い笑い顔だと、三島は全身に鳥肌がたった。こいつは・・・
やっている。
こいつが犯人だ。

「時間です」

看守がやってきて、接見時間の終わりを告げた。





弁護人は最終弁論を、と裁判長からの言葉が耳に入っても、
三島はすぐに椅子から立ち上がらなかった。
法廷内は呼吸音さえ憚れるくらいにひっそりと静まり返り、
三島の言葉を待っている。
軽く咳払いをした裁判長の督促に、三島は自分の意思でというよりは、
長年の習慣から自動的に椅子から立ち上がった。

「これより最終弁論を開始します」

発した自分の声が、頭の中の空洞で虚しく響いている感覚がした。
三島は、この最終弁論の時を事前に幾度も頭に思い描き、
書き上げた弁論要旨も幾度となく丹念に通読していた。
公判は自分の思い描いた通りに澱みなく進んできた。
自分の判断に間違いはなかった。
なかったはずだ。

「被告人は高田はつ子に対する殺人ならびに死体遺棄、」

口から機械的に言葉が流れ出ていく。頭の中には、
検察側から提出された殺害現場の写真が浮かんでいた。

「その夫である高田克治にたいする殺人ならびに死体遺棄の四つの訴因で起訴され・・・」

真っ赤な血溜まりの中で俯せに倒れていた二つの死体・・・
殺人死体という括りにはめ込まれてしまった人間の身体・・・

「一審の判決を不服と感じ・・・」

心の中の何かが先へ進もうとする自分を必死に引き止めている気がしていた。
行くな。まだ間に合う。引き返せ、と。

「事件の概要を一から調べ直し・・・」

心の中のせめぎ合いとは裏腹に、言葉は滞りなく流れ出ていく。
三島の意識は、傍聴席から自分を見つめている一対の瞳に向けられていった。
やっとここまできた。あと少しで勝てる。あと一歩踏み出せば、
あの瞳に勝てる。

「被告人本人との接見、文通を繰り返し・・・」

一審判決をここまで覆してくるのは至難の業だった。
勝利の女神は今、完全にこちらに微笑んでいる。
報道記者たちは弁護側勝訴の下書きをタイプで打ち始めているだろう。
援護グループの作った白幕は無罪を宣言する瞬間を今か今かと待っている。
全てが思い描いた通りに運んでいる。
加速度のついた勝利の流れは止まらない。

「被告人が過去に起こした事件、その後の生活態度は、
確かに品行方正と言い切れるものではなかったかもしれませんが・・・」

谷原の歪んだ嗤い顔が頭に浮かんだ。
殺された二人の姿がそこに重なっていく。
けれど・・・

「しかし被告人は、いや人間というものは全ての面において・・・」

死んだ二人は還らない。
被害者二人の流れは止まってしまった。

「弱みの部分を持ち合わせていることは誰にも否めない事実で・・・」

敬ちゃんはすごいねぇ・・・

繰り出されていく言葉の裏で、記憶の断片が再び喋りだした。

神童だ、この子は・・・
大人になったらきっと立派な人間になるよ・・・
三島にはかなわない・・・
かなわない・・・
かなわない・・・
情に厚くて・・・
守り抜くことは必ず守り抜いて・・・
誰よりも頼りがいがあって・・・
誰からも愛されていて・・・
いいやつなんだと・・・
本人がいないところでも
みんな嬉しそうにそう話していた・・・
友達であることが自分の誇りだと・・・
かなわない・・・
かなわない・・・

吉岡にはずっとかなわなかった。

「検察側は被告のその弱みの部分につけ込み自白を強制したと・・・」

戻れ。戻るんだ。
心のどこかで何かがそう叫んでいた。
まだ戻れる。引き返せ。

「被告人の無罪を主張します」

三島は、己の卑小さをはっきりと自覚した。





法廷内はひっそりと静まり返っていた。
無罪判決に沸かされていた喧噪は、喜びも悲しみも混ぜ合わせた人の波とともに、
引き潮となってドアの向こうの外海へと浚われていった。
人の生の重さを量った部屋の空間は、過去という重さにも未来という不確かさにも
まるで無関心な気配を呈したまま黙り込んでいる。
三島は何百枚にも及ぶ調書の束をブリーフケースにしまい入れ、
それからゆっくりと立ち上がった。裁判長席、証言台、そして被告人席へと
重い視線を渡していき、そしてドアの方へとゆっくりと身体を回した。思った通り、
吉岡はそこに立っていた。
三島はブリーフケースを手に取り、ドアへと向かって歩きだした。革靴の音だけが、
二人の間にやけに大きく鳴っている。
吉岡は黙ったまま、静かに三島を見つめていた。その姿全体からはまるで、
全ラウンドの負け試合を終えたボクサーのような気配が漂い流れている。
けれども静かに見つめ返してくるその瞳は決して打ちのめされてはいなかった。
負けを転嫁する瞳でも、相手を糾弾し誹謗する瞳でもない。ただひとつ、
その瞳からは混じり気のないたった一つ思いが、
真っ直ぐに三島へと向かって語られているだけだった。
何故?
と。
何故なんだ?
と。
三島はブリーフケースの持ち手をぐっと握り返した。
あと数歩で吉岡のもとに辿り着く。
吉岡はそっとその場に佇んだまま、
三島の歩みを引き受けようとしている。

「負け犬が」

三島は一言吐いてドアの向こうへ出た。
足早に横を通り過ぎるとき、自分の肩が吉岡の右肩にぶつかった。




裁判所内では、写真の撮影は禁止されている。
奇跡に近い無罪判決を勝ち取った弁護士を待ち構える報道陣たちは、
厚い木材の扉の向こうに陣取っているのだろう。
裁判を終えた建物内は冷え冷えとした静けさの中に包まれて、
第一法廷内から出てきた三島の靴音だけが大理石を敷き詰めた回廊に響き渡っていた。

「見くびるなよ」

正面玄関を押し開ける一歩手前で声がして、横を向くと、報道記者バッヂをつけた男が一人、
柱に寄りかかりながら三島を見ていた。三島はそのバッヂを素早く確認していく。
社会派を謳っている新聞社の記者だった。社名の下に萩原と記されている。
三島はゆっくりと身体を相手に向け、何の事だとその顔を睨み返した。

「真実をさ」

萩原という記者の片側の口端が軽く上がった。笑ったのだろう。けれどもその目は
少しも笑っていなかった。
三島は、斜に構えた視線を投げつけてくる相手の顔を再度睨み返したあと、
無言のまま正面玄関の扉を押した。一斉に焚かれたカメラのフラッシュが、
三島の視界を眩ませた。
無罪釈放された谷原信也が関口親子を殺傷したのは、それから三週間後のことだった。




つづく

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 吉岡刑事物語・その51 | トップ | 吉岡刑事物語・その53 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
真実はひとつ (霧島)
2011-02-01 21:41:54
お久しぶりです。お元気でしたか?事情があって3ヶ月ほどPCをあまり開いてませんでした。
この物語又読み直してます。真実はひとつ、この言葉の重みを感じながら。

吉岡が警視庁に入る事を知って弁護士になった三島、吉岡には人間としてとても敵わないと思っている三島がこの事件で優位にたって初めてあの澄んだ瞳に勝てると思った矢先に真実を知ってしまった。この時の心の闇は測り知れないですね。 無罪を勝ち取ってはみたものの己の卑小さを自覚した三島が哀れです。
静かに見つめ返してくる吉岡の瞳は打ちのめされていない・・の一節が好きです。いつものように吉岡くんの良さを的確に表現して下さる風子さん、素敵ですね。この物語のどこを切り取っても実在の吉岡くんが居て、ついついのめり込んで読んでます。物語の組み立ても面白いし、裁判、医療等現場を実践してるような筆運び、風子さんって一体どれだけの引き出しを持っている方なんでしょうと感心します。
司法界のかけひきや矛盾、そこに生じる苦しみや嘆き、人を裁く事の罪深さを語る夫の友人達を身近に見て、真実に辿り着くまでの大変さを思います。
ところで吉岡の病気が気懸かりですが・・。 
つづきを楽しみにしてます。
返信する
ひとつの重み (風子)
2011-02-02 21:30:43

霧島さん、こんにちは♪
コメントありがとうございます
お声を届けていただけてとても嬉しかったです。
私も年明け早々から引いた風邪をこじらせてしまって、
最近になってやっとアメーバーから人間に復帰できました。
日本の冬は寒かとです、はぁ~へっぶし

霧島さんからのコメント、大切に読ませて頂きました。
今回の話はなんだかいつもよりとても重くて・・・・
途中で何度も止めようかと思いながら書いていたので、
霧島さんのお言葉にとても救われる思いがしました。
書いてみてよかったようって思えたです。元気がでました。
ありがとうございます

いえいえそんなそんな、私、引き出しは一つだけしか持っていないのですぅ。 
実際に現場にいらっしゃるプロの方々からみたら、
速攻ダメだしをされてしまうと思うのですが、勢いで書いてしまっていて。
一つの引き出しの中身を埋めてくれている吉岡君の持つ無限の色彩が、
開いたパレットへとふわっと色を出してくれるので、わたしはただそれを
辿っていけばいいというか・・・なんか書いていてそんな感じがするとです。

人が人を裁くことの重さって、
そこには計り知れない苦しみがあるのでしょうね。。。。

法の罪への境界線はどこに引かれてくるのか、
真実の重みはどこへ沈んでいくのか、
そんなことをふと考えたりしますです。

ところでそうなのです。吉岡刑事の病状なのですが・・・、
私も気懸かりです。
って答えになっていないですよね。
三島の話があともうちょっと続く予定なのですが、
その後に最終話へと続けていけたらいいなと思っています。
吉岡刑事のことをこれからも見守っていただけましたら幸いに思いますです。
どうぞ宜しくお願いいたします。

霧島さん、いつも読んでくださって本当にありがとうございます。
とてもとても嬉しくて、そしてとてもとてもありがたいです。
お話できて幸せでした。 
まだまた寒い日が続きますが、どうぞ体調にはお気をつけて、
お元気に素敵な冬をお過ごし下さい
返信する

コメントを投稿

小説 吉岡刑事物語」カテゴリの最新記事