月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その12

2009年01月22日 | 小説 吉岡刑事物語




ドアノブに伸ばしかけた手が、ふと止まった。
目の間にどっしりと構えたオーク材の扉の前で、
そのまま、そこに静止したままの己の手を、
吉岡はじっと見つめていた。
周囲に沈んだ夜気は、かすかな雪の匂いを含み、重い。
ひとつ、
深く息を吸い込み、
ひとつ、
それを吐きだし、
そして夜空を仰いだ。
目に入ってきたのは、底なしの漆黒。
翼を広げた、黒鳥の羽のような。
底のない、井戸のような。

「いらっしゃい」

開けたドアの向こうから、
暖かな空気に入り混じった彼女の声が耳に届いた。
心地良く照明を落とした店内には、
入り口のドアと同様、
質の良いオーク材のカウンターテーブルと、
室内の隅に置かれたグランドピアノがひっそりと置いてあるだけだ。
黒のハーフコートを横に置きながら、
吉岡はカウンターのスツールに腰をかけた。

「こんばんは」

「いやね、なによかしこまちゃって」

ウィスキーの入ったグラスを吉岡の前に置きながら、
彼女は軽く笑った。
店内には、吉岡しか他に客はいない。
毎年この日、彼女は必ず店を閉じ、
そして吉岡はこの店に足を運ぶ。

「今夜は雪かしら?」

カウンターのぐるりを回ってきた彼女が、
そう言いながら吉岡の横に腰を掛けた。

「そうだね。降るかもしれないよ」

「積もるといいわね」

聞こえてきた彼女の声は明るかったが、
その表情は横顔にかかった髪に隠れて吉岡からは見えない。

「元気そうで、安心したわ」

「君も、元気そうでよかった」

吉岡は一口飲んだウィスキーのグラスを、
そっとテーブルの上に置いた。

「山村さんがね、先日、二日前だったかしら、久しぶりにここにお見えになったのよ」

「山村さんが、一人で?」

「ええ、一人で来てね、さんざん飲んで愚痴って帰ってらっしゃったわ」

クスっと笑う彼女の顔は正面の酒棚に向いたままだ。

「大変だったね」

商業柄滅多なことでは酔わない、というより酔えないのだが、
しかし鬼警部の山村にさえ、時には、
非番の前くらいにはありえる話だなと吉岡は思った。

「呑みながらね、吉岡のばかたれがって、何度も何度も言っていたのよ」

「え?」

見つめていたグラスから顔を上げて、
吉岡は彼女の横顔を見た。

「刑事部長ご自慢の美人の娘さんとの縁談を断るなんて、
あいつは大バカ中の大馬鹿野郎だって。
せっかくの大出世の糸を自分から切りやがったって、
それはもうすごい剣幕で怒ってらっしゃって。
あいつは何もわかっちゃいないって言いながら、
最後の方は泣いてらっしゃるみたいだったわ」

そう言って彼女は静かにグラスに口をつけた。
心はどこを見つめているのだろう、黒髪の向こうにある瞳は、
目の前の空間に向けられたままだ。

「そう」

カラン、とグラスの中の氷が音を立てた。
吉岡は彼女の横顔から視線を逸らし、
再び手の中のグラスに視線を戻した。
静けさが、二人の空間を押し包んでいく。

「ばかねぇ・・・」

不意に響いた彼女の言葉に、
吉岡は一瞬上げかけた顔を、
しかしぐっと再びグラスに向け直した。

「・・・そうだね」

琥珀色のウィスキーが、グラスの中で小さく揺れている。
透明な氷がグラスの中で行き場を失い、
カラン、
カラン、
と、
行ったり来たりを繰り返す。

「ねぇ」

彼女の声が沈黙を破った。
吉岡は彼女に顔を上げる。

「手相を見てあげるわ」

彼女が微笑みながら言った。

「え、手相?」

「そうよ」

「君が見るの、手相を?」

「ええ、そうよ。そんな驚いた顔しないで。私も占いなんて信じないのだけど。
でもお客さんにね、すごく手相に凝っている人がいて、
その人から当たるっていう手相の見方を伝授してもらったの」

突拍子もない話題転換がおかしくて、
吉岡は思わず笑ってしまった。
店内の空気が一気にほぐれていく。

「あら、これでも本格的に教えて頂いたのよ」

「いいよ」

「本当に?」

「うん。はい、どうぞ」

と言って吉岡は両手を差し出した。
まるで少年のように邪気がないその笑顔を一瞬真顔で見つめた後、
ありがとう、と言って彼女は吉岡の両手を手に取った。
その刹那、肘がグラスに当たってテーブルから落ちた。
ガシャン、と板張りの床に砕け散った硝子の破片が散らばる。
慌ててスツールから降りて、
散乱した硝子の破片を拾おうとした彼女の手を、

「僕がやるから」

吉岡の手がすばやく止めた。
一つずつ、無数に散ってしまった硝子の破片を、
吉岡は床の一箇所に丁寧に拾い集めていく。

「あ、」

鋭く尖った切っ先の一片が、
吉岡の手から床に落ちた。
すっと一本の赤い線がその人差し指に走り落ちていく。

「大変!」

「大丈夫だよ、全然平気」

「駄目よ、血を止めないと」

彼女はカウンターの中へと走って戻り、
そこから持って戻って来た清潔なタオルを素早く吉岡の指に当てて止血をした。
二人の足元には硝子の欠片が散らばっている。
そのまま暫く二人はじっと黙っていた。
静まり返った店内に、行き場を失った時間が堆積していく。

「ごめんね・・・」

やがて彼女が小さく呟いた。

「私のせいだわ」

俯いたまま、彼女はじっと吉岡の指をタオルで押さえている。

―僕が、

といいかけて吉岡は口をつぐんだ。言いたい言葉が、
言いたくて言えない言葉が、
秒針とともに、心に沈んでいく。

ーそれは僕が、

ぽた、涙の粒が吉岡の手のひらに落ちて止まった。
上げた視線の先に、黒髪に隠れた彼女の顔が微かに震えている。
その細い肩も、微かに、隠しきれずに揺れている。

「君のせいじゃないよ」

静かな声が店内の空気をそっと揺らした。
吉岡は、俯いている彼女の顔を見つめながら言った。

「君が謝ることじゃない」

零れ落ちる涙は、硝子の破片の上にも落ちていく。
吉岡は、ぐっと顔を上げ直し、俯き続けている彼女に微笑んだ。

「もう、だいじょうぶだよ」

静かに言って、
吉岡は自分の手から彼女の手をそっと離した。




店の扉を開けて外に出ると、街は白く染まりかけていた。
漆黒の夜空から、真っ白な雪がしんしんと舞い降りている。

-今夜はきっと積もるよ、雪。

扉に振り返り、そう心の中で呟くと、
吉岡はハーフコートの襟を立てながら雪の中へと歩き出した。
歩きながらあの事件がおこった日のことを今夜も思い出していた。
決して忘れることのないあの日も雪が降っていた。
あの日降っていた雪は積もらなかった。
積もるといいなという彼女のささやかな願いは叶わなかった。

でも今夜は積もるよ。

吉岡はもう一度足を止めて彼女の店を振り返った。その時、

「吉岡、」

と呼びかけられて前方を振り返ると、
降りしきる雪の中に先輩刑事の山村がいつの間にか立っていた。

「十年前のこの日も雪だったよな。いつまで続けるつもりだ?」

吉岡はすっと山村に向き直った。
ほんの数メートルの隔たりに、白い雪が降りしきる。
山村はくたびれたコートのポケットから取り出したタバコに、
続けて取り出したライターで火をつけた。
タバコの先から登る白い煙が、凍てついた夜気に霧散していく。

「くだらない真似は、もうよせ」

肺の中の煙と一緒に吐き捨てるように山村は言った。

「真似ではないです。本気です」

「それなら尚更だ。もうやめろ」

「やめません」

低く舌打ちして、山村は吸っていた煙草を地面に投げ捨てた。
ジュと音がして煙草の先の火が消える。真っ白い雪の上に、
黒い染みが醜く残った。

「三年前の今日時効になった事件だ。それは終わりを意味している。
十年間、時効になってからは非番を返上しながら単独でお前は事件を追い続けた。
もういいだろう、十分気も済んだだろう。もう終わりにしろ」

「僕にとっては終わっていない事件です」

見つめていた雪面上の黒い染みから顔を上げて、
吉岡は山村を見据えた。

「終わってるんだよ、とっくに。
いいか、たとえお前が真ホシを見つけ出してあの娘の父親の冤罪を晴らしたとしてもだ、
それでどうなる? 法は真犯人を罰することはもうできない。それとも何か、
お前の手で自ら罰するつもりなのか?どうやってやるんだよ、笑わせるな」

吉岡は凍えている両手をぐっと握りしめた。

「甘いんだよ、お前は」

山村が続ける。

「婚約者だった彼女の父親を犯罪者にでっち上げた真ボシは確かに憎いだろうよ。
父親が会社の横領金をもったまま失踪したといわれて彼女は会社を追われ、
そしてそれ以来母親は精神を放棄してしまった。
ただ一人、頼りになるはずのお前はキャリアの刑事だ。やめさせるわけにはいかない。
警察官が犯罪者の身内を持つことは絶対にタブーだからな。それで彼女は自分の未来を諦めたんだ」

吉岡は両手の拳をさらに握り締めた。

「お前は確かにあの時辞表を出したさ、しかし上に受け容れてもらえなかった。なぜだかわかるか? 
それはお前が必要な人間だからだ、俺たちにとってな」

「自分は、」

「あの子にとってだけ必要でありたかった、とでも言いたいのか?
それはただの感傷だ。感傷なんてものは人生の妨げにしかならねえ」

山村は一歩吉岡の前に足を踏み出した。

「あの事件にはお前一人では到底解決できない裏の大組織が絡んでいるんだ。
未だにお前があの事件を追い続けていることがわかったら、
あいつらは確実にお前を消しにくる。下っ端の刑事なんかはな、
虫けらみたいに簡単につぶされちまうんだ。消されるんだよ、何もかかったことになっちまうんだ」

「わかっています」

「わかっているならとっととやめろ!」

憤った山村の言葉が静まり返った周囲に響き渡る。

「いいか、彼女はお前の刑事としての未来を選んだんだ。
そこに自分の未来も託した。その意味をよく考えろ」

再び感情を消した声で吐き捨てると、山村は踵を返して去っていった。
雪が、その背中を白く消し去っていく。
吉岡は、その場にただじっと佇んでいた。





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4 コメント

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こんな過去を・・・ (noriko)
2009-01-24 16:58:54
吉岡刑事が背負っていたとは・・・。切なくて、美しくて泣けてきました。

言葉も仕草も吉岡くんにぴったりで、映像が浮かんできます。
警官の血も観たいけど、吉岡刑事物語の方がもっと観たいかも。

本格的になってきて、益々引き込まれてます。


返信する
そうなのです・・・ (風子)
2009-01-25 10:29:52
実は吉岡刑事にはこんな過去が・・・。

なんか書いていくうちにどんどん加速がついちゃって、
もうどうにもとまらないわ、リンダ。
となってしまいました~。

このシリーズ、気に入ってもらえてよかったです
とっても嬉しいです。
「また書いてみよー!」って励みになります!
ありがとうございます、norikoさん。 風子感動でぃす。
返信する
これは・・・ (まーしゃ)
2009-02-01 02:20:44
とても切ないお話ですね・・・。
婚約者がいたのかぁ。。。

路線が変わってきましたねぇ。
今回もnorikoさんと同様に、
吉岡くんの姿を思い浮かべながら読んでました。
私も映像で観てみたいです!

って、すっかり脳内映像に焼き付いちゃったけど。

最近は全く本を読んでないけど、
ここで良いお話が読めるから嬉しいです♪
返信する
はい・・・ (風子)
2009-02-01 09:17:30
婚約者がいたのですたい、吉岡刑事ってば。。。

なんか書いているうちに、
路線が大幅に変わってしまいますた。 えへへ~。

吉岡くんの姿を思い浮かべてもらえて嬉しいでぃす!
よかったぁ~


こちらこそいつも読んでくださって
ありがとうございます、まーしゃさん。
コメントまで頂けて、感謝、感謝です!
一緒に楽しんでもらえてとても嬉しいです。
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