三屋清左衛門 残日録の続編である。
この全15編の短編は、1985年~89年に掛けて発表されている。
藤沢周平氏、58歳から62歳にかけての作である。(69歳で他界)
この短編集の最終稿にあたる「早春の光」では、仲のよい平八が中風を患い歩行訓練を始めたのを垣間見た清左衛門に、こう言わせている。
「―――そうか平八。いよいよ歩く習練をはじめたか、と清左衛門は思った。
人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終えればよい。
しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた。・・・」
60歳前後でよくもこれだけの境地に到達し得たものだと、作者の洞察力の高さにほとほと感心させられたのである。
NHKが1993年にドラマ化し、現在「蔵出し」と称して放映しているものと、小説とを照らし合わせながら楽しんでいる。
(短編だからこそ出来る、もしこれが長編だととても面倒で不可能である)
ここで引用した「早春の光」はもう少し先に放映されるので、小説との照合はまだ。
複雑な心理描写を、監督、脚本家や俳優の表現力にゆだねることに限界があるのだろう、
これまで観てきたことからすると、小説の上での心理描写は、多くの場合省略されることが多かったように思える。
それ故、この部分も省略される可能性は無きにしも非ずである。
ドラマでは、この部分をどのように表現するか、楽しみにしているのである。
小説とドラマの間のギャップは避けられないし、同様に舞台演劇・映画でも同じことであろう。
誰かは忘れたが、小説をドラマ化することを拒否する作家があることを耳にした記憶がある。
当然といえば、当然であろう。