12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

大砲の音

2007年06月15日 05時45分30秒 | Weblog

 国道を走行中、軍用車両の車列に出くわした。

なぜか、実弾演習場に近い、奈義町現代美術館を訪れたとき聞いた、大砲の音を思い出した。

1分に1回程度、“ドオオーン”と鳴るのである。
この音は、とても純粋な、ドオオーンという澄んだ音であるのに驚かされた。

まるで、低音用の太鼓を叩いていたような、楽器的な音がするのであった。

地域の住民にとっても、それほど不快な音でないのかもしれないと感じたのであった。

更に、連想として、ピストルの音を思い出した。

数十年前のことである、A国以上に危険な国と評されていた南米の某国でのこと。

国家・州・市の全ての警察が腐敗し、全く信用出来ないため、自前で警備会社を雇って、自己防衛をしなくてはならない状態の貧しい国でのこと。

そんな関係で、ホテル・銀行・企業は、銃を持ったガードマンだらけ。

住民の多くが、銃器を所持していたのであった。

夜、ベッドで小説を読んでいたとき、パンという乾いた音がし、ホテルの前の通りが騒がしくなった。

安全第一と、“知らぬ顔のはんべい”を決め込んで、直ぐ寝てしまった。

 翌朝、新聞を見ると、ホテルの近所のキャバレーで、男がピストルで射殺されたと書いてあった。

 映画もどきの“ダダーン”という、勇ましい音では決してなかったのであった。

このときの音も、乾いたとても純粋なパンという音であった。

軍用車両から、殺伐としたことを、思い出してしまった。


浮くか沈むか

2007年06月13日 07時14分43秒 | Weblog

作家“なだいなだ”氏は、顰蹙をかう話をすることで有名である、

小生は決してこれを真似ようとするものではない。
嫌いなのでめったにしないつもりであるが、
この一文は、食前1時間は読んで欲しくない内容になってしまった。

申し訳ないことであるが、一大実験を行ったので、どうしても報告したかったのである。

通常肉などの動物系の材料を使用しないと子供たちからブーイングが出るため、どうしても菜食主義者を真似ることが出来なかった。

 あるとき、子供達が家を三日間留守にしたことがあった。

それで千載一遇のチャンスとばかり実験をしたのである。

牛乳と時折の卵以外は、全て植物系の材料で三度三度食事をする実験である。

多少不完全ながら菜食主義者の食事を摂取したのである。

この結果、完全に“ぷかぷか浮く”のである。

なぜこのような実験を試みたかというと、あるラジオ番組で、繊維質の多少は、「浮くか沈むか」で判定できると言っていたからである。

これで確信が得られた、今後は、野菜類の量を多くし、「ぷかぷか」となるようなメニューとしなくてはと、決心したのである。


ハイビジョン

2007年06月12日 04時27分22秒 | Weblog

 先日、家内の親友ご夫妻とバスツアーを偶然ご一緒することになった。
そのときの話し。 

 そのご家庭は、最近ハイビジョンTVを購入されたのである。

 「最近は、ハイビジョン放送以外は見なくなった」とおっしゃる。

 理由は、通常のTV放送は、映像が悪くて見るに耐えないからだとの事であった。

これは困ったことになった。
現在撮り溜めているビデオが、将来見るに耐えなくなる、ということである。

過去の財産の価値が激減することを暗示された。

ハイビジョンの副作用が、思いもかけないことになった。

さても困ったことになった。


ドラマか小説か

2007年06月11日 05時52分10秒 | Weblog

三屋清左衛門 残日録の続編である。
この全15編の短編は、1985年~89年に掛けて発表されている。

藤沢周平氏、58歳から62歳にかけての作である。(69歳で他界)

この短編集の最終稿にあたる「早春の光」では、仲のよい平八が中風を患い歩行訓練を始めたのを垣間見た清左衛門に、こう言わせている。

 「―――そうか平八。いよいよ歩く習練をはじめたか、と清左衛門は思った。

人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終えればよい。

しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた。・・・」

60歳前後でよくもこれだけの境地に到達し得たものだと、作者の洞察力の高さにほとほと感心させられたのである。

NHKが1993年にドラマ化し、現在「蔵出し」と称して放映しているものと、小説とを照らし合わせながら楽しんでいる。
(短編だからこそ出来る、もしこれが長編だととても面倒で不可能である)

ここで引用した「早春の光」はもう少し先に放映されるので、小説との照合はまだ。

複雑な心理描写を、監督、脚本家や俳優の表現力にゆだねることに限界があるのだろう、

これまで観てきたことからすると、小説の上での心理描写は、多くの場合省略されることが多かったように思える。

それ故、この部分も省略される可能性は無きにしも非ずである。

ドラマでは、この部分をどのように表現するか、楽しみにしているのである。

小説とドラマの間のギャップは避けられないし、同様に舞台演劇・映画でも同じことであろう。

誰かは忘れたが、小説をドラマ化することを拒否する作家があることを耳にした記憶がある。

当然といえば、当然であろう。


だれーかは しーらねーど

2007年06月10日 05時54分53秒 | Weblog

 「どーこのだれかは しーらないけれど・・・月光仮面の・・・」という歌は、
小生の脳裏に鮮明に残っているが、毎日病みつきになって読んでいるブログがある。

「どーこのだれかは しーらない 小生より随分若いオバ様(お嬢様ではあまりに乖離がおおき過ぎよう)のブログ」である、

ご参考までに、最近の作をご披露しよう。

“今日は健康診断の日でした。1番気になるのは、体重増加です。

今朝はコーヒー飲んだのみ。
(いつもは食事して行くんだけど、今年はなんせ・・・・なもんで、朝食なし)

着ていく服は毎年決まっていて、私が持っている中で、1番重量がないスカートとTシャツ。

・・・計った体重は、昨年より3K増です。やっぱし、ガクッ。
(体重計は、非情な、女心の分からんやつです。)・・・

ところで、今年から“メタボリック・・・”でウエスト計ります。

ここで、私は大きな間違いを。女性はウエスト90cm以上が要注意なので、そんなん、私にゃ関係ないと高をくくっていたのですが、

ウエストではありませぬよ、腹回りです。

私がウエストを出しますと、
「パンツ下に下ろしてください」「エッ!パンツをずらすんですか?」

「そうですよ~、お腹の1番出ているところを計りますからね~」あらまっ!

で、サイズは書けませんが、“メタボリック”近いです、やばいです。

 ・・・・ 明日はプールに行って、ウォーキングの教室に参加して来ます。
歩き方を教わって、後は自主練習することに。

週に3日は行きたいと思ってます。
ひこどん、そのうち泳ぎにも挑戦するからね!
  “

活発な仲良し女性グループの一員のブログのようである。

自由闊達・恐れを知らぬ積極人生のお手本である。

文章は口語体、テンポがすばらしい、おそらく機関銃のごときタイプタッチであろう。

 「県庁の☆」ならぬ「ブログの星」である。

今様、「清少納言」風である、近き将来、ブログの古典として、絶大なる評価がなされるか、

埋没の憂き目に会うかは知らないが、小生にとっては、異色の作品であり、楽しみである。

自分のブログが、方丈記や徒然草風になりつつある現在、何とかこの作風にと転換を願うのであるが、

役者が違う、とてもこのレベルには到達不可能である。

毎日、抱腹絶倒するだけで、満足することにした。

ご迷惑かも知らないが、

「どーこの誰かは しーらないけれど・・・誰でもみーんな読んでいる・・・」となって欲しい気もするのである。

追記:下記をクリックすると、そのブログに飛びます。

セピア 日々のつぶやき


遺族外来

2007年06月09日 05時50分55秒 | Weblog

「遺族外来」 ラジオの深夜放送で初めて聴いた言葉である。

 外国ではどのようなのか不明であるが、国内では、1年ほど前から関東の大学病院で始めたとのこと。

治療といえば、患者中心に考えていたが、実際のところは、周りの家族も大変な苦労を強いられているのである。

不幸にして、身近な人が旅立ち、残された遺族は悲嘆にくれ、大なり小なり精神や肉体に不調をきたすのが通例である。

 心療内科の一教授を核として、新しい診療科をスタートし、さまざまな不調に苦しめられている遺族のために貢献しているようである。

多くの遺族は、大きな悲嘆が引き金で、うつ状態に陥り、精神と更には肉体まで変調をきたしていることが多いのである。

今までは、見向きもされなかったこの種の患者に、ようやく陽がさしたのである。

今後の、更なる発展を願うものである。


変わった小説

2007年06月08日 06時01分28秒 | Weblog

 友人にメールで教わった本(図書館にあった)、田中啓文著 ㈱集英社発行
「笑酔亭梅寿謎解噺」と「笑酔亭梅寿謎解噺2」の2冊を、面白く読んだ。

筆者は、1962年生まれ、働き盛りの世代である。
ジャズ・上方落語・小劇団の芝居・宝塚歌劇・ビールなどをこよなく愛する人と、紹介してあった。

鶏の鶏冠(トサカ)のような髪型の突拍子もない若者が主人公。

各小編の題名は、上方落語の題と同じであるが、内容は、いたって現代風になっている。

奇妙な物語なのであるが、落語の話に合わせているような筋書きとなっている。

気楽にすらすらと読める、面白かったが、癖のあるエンターテインメント本である。

上方落語に多少の知識があると、更に楽しめるようである。

 2冊で、合計14編の短編小説である。

(一冊目)
1. たちきり線香
2.らくだ
3.時うどん
4.平林(たいらばやし)
5.住吉駕籠(すみよしかご)
6.子は鎹(こはかすがい)
7.千両みかん (二冊目)

(二冊目)

8.蛇含草(じゃがんそう)
9.天神山
10.ちりとてちん
11.道具屋
12.猿後家(さるごけ)
13.抜け雀(ぬけすずめ)
14.親子茶屋

丁度、若者たちの音楽に接するような感触であった。

面白くは感じるのであるが、それと言って感銘・感激にまでは至らない、何か釈然としないのである。

これ以上の論評は、小生には出来ないのである。

世代の差をかんじさせられたのである。

翻って考えてみると、友人は、小生より遥かに若者世代に近いのであろうと思い知らされた。


棚田

2007年06月06日 05時20分32秒 | Weblog
棚田

この日は、標高約1000m、面積は甲子園の約90倍、 森林の大部分は、ブナ・ミズナラなどの落葉広葉樹 ・・・「岡山県立森林公園」を予定していたが、あいにくと、中国山地は雨雲混じり、空模様がおかしかった。

急遽、津山市から三分の一ほど岡山方面に帰った所の「棚田」に目的地を変更した。

この辺りは、「日本の棚田百選」で県関係で4箇所選ばれ、そのうち3箇所が集中している、棚田名所である。

そのうちのひとつ、亀甲駅(または誕生寺駅、弓削駅などからも似たような距離であるが)から10kmほど西の山間部に入った美咲町「大垪和(おおはが)西棚田」を訪れた。

標高400mの山間地に位置し、棚田が、大きな谷全体、360度のすり鉢状に850枚が広がっている。

また、中世密教の神秘さを今にとどめてもいる地区であり、棚田とあわせての見学者も多いというのが、この地区の売りである。

ここも例外でなく、過疎高齢化が進んでいる。
協同組合・機械化・委託-共同作業等で、棚田の荒廃防止に努めているのが散見された。

美しい棚田の景観の裏には、これを守る人達の苦労があることを、垣間見た。

無責任な傍観者であるが、今後も四季折々の景観を、見物に来させてもらうことにしている。

追記;
6月3日(日)この地区で棚田祭り行われた。
県内の読者には、何度もこの地を訪れ、写真などをたくさんお持ちの方もおられるようである。


さびつき

2007年06月05日 06時31分32秒 | Weblog

本日火曜日は、BS2で、午後7時45分から、「平八の汗」と題する「残日録」の放映がある。ご興味のある方はどうぞご覧ください。

三屋清左衛門 残日録」の続きである。

  第二番目の「高札場」という短編から一部引用。

“・・・清左衛門の身体は油の切れかかった車同様にさびついていたのである。

少し無理に動かすと、身体はたちまち軋み声を立てた。

およそ三十年ぶりに・・・木刀を振ってみると、手と足の動きがばらばらで、おまけにたちまちあごが出て眼がくらむという醜態ぶりだった。

 かくてはならじと、・・・、道場通いをふくめて出来るだけ身体を動かすように勤めてきたのだが、

その甲斐あって、近ごろは木刀を振っただけでは眼がくらむようなことはなくなったし、炎天下の川岸で小半日釣りをしたくらいでは、さほど疲れを感じなくなった。“

真にその通りである、小生のことを見透かしているかのごとく、書いてあるではないか。

長年のデスクワークで、知らず知らずに小生の運動機能が、さびついてしまったのである。

それが原因で、あちこち痛くなってきた。

頭のほうはといえば、生産性・合理化・コスト低減・利益創出(今となっては、殆んど役に立たない)・・・などの方面は、連日連夜フル回転であったが、

反面、情緒・感性・・・の方は、全くお留守となり、幼児以下にまで低下しているように思っている。

小説だから、清左衛門はこの第二番目の作品で、そこそこに体力を回復したことになっているが、

小生の場合には、さび落としに何年もかかるのではなかろうかと思っている。

幸いなことに、このさび落としのための、好都合な条件をひとつ見つけた。

それは、一病息災に代表されることであるが、「ひざの痛みを解消する」という目的を持ったことである。

何事もなければ三日坊主なのだが、止めると痛くなるという強迫観念から、「止めるに止められなくなった」のである。

 「白露や 死んでゆく日も 帯締めて  三橋 鷹女」のような、

壮絶ともいえる、女性の美に対する執着に負けないように、

PPK(ピンピンコロリ)達成を目指そうと思っている。


駅名いろいろ

2007年06月04日 06時46分09秒 | Weblog

棚田見物に出かけたとき、ある駅で休憩をした。

写真は、駅名にちなんで、屋根に亀の頭をつけている「亀甲(かめのこう)」駅の駅舎です。

岡山-津山間(JR津山線) 58.7kmに、岡山と津山を含め合計16の駅がある。

珍しい名前の駅が多いのであるが、代表選手を三つほど。

1.福渡(ふくわたり); 福が来るにちなんで、入場券がよく売れる。

2.神目(こうめ); とにかく読みにくい。

3.誕生寺;お寺ではない、純然たる駅である。

   法然上人の生誕の寺にちなんでつけた駅名。

誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人生誕の聖地。

建久四年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたものである。

名前が読めないことが多々ある。
駅名も例外でない。


首に棘

2007年06月03日 08時08分32秒 | Weblog

 “ためしてがってん”からの受け売り。

人は加齢とともに、首の軟骨が萎縮し、それを補うべく骨が変形・伸長し「棘(とげ)」を形成するというのである。

三十代くらいから、軟骨の萎縮が始まり、棘が成長し始めるようである。

 この放送では、MRIの検査で実験参加者全員に棘があったが、症状が出る人は限られていた。

問題となる苦痛や障害は、棘の位置により決まるのである。
 もし不幸にして、神経に近いところに棘が発生し、神経を圧迫すれば問題が起きるのである。

小生も、以前CTの検査で、首の軟骨が潰れていると言われたことがあった。

左後方に首を強く曲げると、左手がしびれるように感じるのである。
この症状は、まさに棘によるものであろうと思った。

この番組のよいところは、至極簡単で短時間の体操を教えてくれたことである。

実験者の言を借りると、だんだん良くなるというようなものでなく、ある日突然に痺れや痛みがなくなると言っていた。

とにかく、簡単で短時間でよい、効果の程は暫く先に報告するとして、人体実験を始めたところである。

簡単で短時間で出来る体操なので、経済的な負担とか肉体的な負担などは全く無い。

 あとはやる気だけである。 こんなときには、痛いところがあるのは、有利である。

面倒がらずに、続けようという、原動力が常にあるからである。
まさに、これも一病息災なのであろう。


残日録

2007年06月02日 06時49分38秒 | Weblog

今回の題は、藤沢周平氏の「三屋清左衛門 残日録」から頂戴した。

この小説は、15の短編から出来ており、その最初の短編「醜女」から一部引用する。

残日録というのは、「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」の意味で、
”残る日を数えようというわけではない”と清左衛門に言わせている。

五十二歳で清左衛門は、隠居している。

(人生五十年の時代であろうから、早くもない隠居なのであろう、また、長男夫婦に扶養されている、しかし、妻はその三年前に他界している。)

仕事上の心残りも余分な感傷の類も一切なかったつもりの、悠々自適の暮らしを期待して、心ときめいての隠居であった。

恵まれたことに、隠居前の大きい屋敷に住め、隠居部屋をその屋敷内に藩主の好意の賜り物として建ててもらっている。

 しかし、隠居の開放感とは全く逆に、世間から隔絶された自閉的な感情となり、更には、気持ちの萎縮となったのである。 

そして、寂寥感・逼塞感が、この隠居部屋にまでも訪れてきた。

 隠居とは、世の中から一歩しりぞくことと軽く考えた節がある、
ところが実際には、それまでの生き方、
平たく言えば暮らしと習慣のすべてを変えることだったのである。

世間とはこれまでにくらべてややひかえめながらまだまだ対等につき合うつもりでいたのに、
世間のほうが突然に清左衛門を隔ててしまったようだ。

多忙で気骨の折れる勤めの日々、ついこの間まで身をおいていたその場所が、いまはまるで別世界のように遠く思われた。

その異様なほどの空白感が、奇妙な気分の原因にちがいないと清左衛門は納得したのである。

その空白感は何かべつのもので、それと言えば新しい暮らしと習慣で埋めて行くしかないことも理解できた。

うかうかと散歩に日を過ごすわけにもいかぬらしいと、清左衛門は思ったのである。

「ただ、隠居というのは、考えていたようなものじゃない」

「・・・確かにのんびり出来るが、やることが何もないというのも奇妙なものでな、しばらくとまどう」と言わせている。

 「過ぎたるはおよばざるが如しだ。

やることがないと、不思議なほどに気持ちが萎縮して来る。・・・ともかく平常心にもどるまでしばらくかかった」とも言わせている。

実にうまく定年後の気持ちを代弁している。

文武両道、剣にもそれなりの技量を備え、竹馬の友に恵まれ、「よく出来た嫁だ」わしの目に狂いはなかったと清左衛門が思う嫁にも恵まれ、

こんななかで、しっかり・しゃっきり者の隠居が、次々と事件を解決していくのである。

これこそ隠居の鏡、我々の願望を時代を変えて具現化しており、真に痛快である。

更に、隠居特有の欲・得を超越した誠意と人情をたっぷり添えて楽しませてくれるのである。

小生もかくありたいと思うのであるが、文武両道全く駄目・竹馬の友なし・・・、到底実現の見込みは無い、欲・得・見栄を超越した誠意と人情にも程遠い。

小生が、清左衛門に勝るのは、「小遣いを嫁から貰う扶養家族」ではなく、
「年金を自由裁量で消費できる独立隠居」唯一この一点のみである。

年金隠居万歳である。


ケチ

2007年06月01日 05時59分15秒 | Weblog

写経を始めた友人の「筆と紙の用意」についての一文より

新しい筆を買いに行った。
本格的な毛筆を買いたいって気もしたが、ここは一歩控えて「筆ペン」にした。
素人はこれで始めるべきやろ。

近くのコンビニには気に入ったのがなかったので、ちょっと離れた大型スーパーまで行ったがそこにも適当なのがなかった。

結局、昨日の本屋の片隅の文具コーナーで「筆ペン 極細用」というのを1本買った。

ずいぶんガソリンと時間を使ってしまったけれど、弘法大師様だって筆を選ぶんだからこれくらいの努力を怠ってはいけない。

次は用紙だ。
妻が10年も前から書道塾に通っている。だから、家に半紙が在庫されているのは知っていた。

ところが、適当に引っ張り出そうとしたら待ったが掛かってしまった。

「おとうさんっ!何してんの。その上等の和紙は私の清書用やんか。1枚20円もすろのに~、もったいない」

「えーっ、20円ってお前、半紙は普通50銭か1円とちゃうんかいな」

「あほやな、今どきそんなもんがあるかいな。

こっちの練習用だったら5円やから使うてもええわ」

 私からの反論はなーんにもなし。

ハイっ、わっかりました~~。

でも、それでももったいない私は一計を案じた。

「そうや、去年張り替えた障子紙が残ってたはずや。
お習字の練習には障子紙が一番やって聞いことがある。
あれを切って使おう。

ケチとちゃう。自然にやさしいんや」

 障子紙を広げて、「さあ、どう取ったら一番歩留まりがええんやろ」。

こういう事を考えるのは嬉しくてちょっとハイになる。

どう転んでもたいした事じゃないのに、用意したカッターナイフさえ張り切ってるように見える。

結局今日は一字も書かなかった。・・・1月8日

 

そうであろう、始めの一歩を踏み出すのにしなければならないことが、山ほどある。

小生の場合には、
「途中止めは、仏に対して不敬に当たる」という観念に縛られており、
なかなか、始めの一歩が踏み出せないのである。

そろそろ、途中止めでも構わぬ、「始めれば」ともう一人の自分が囁きかけ始めた。