当団の設立に携わり、その後12年にわたって指導・指揮をしていただいた成島 弘先生が、去る10月末にお亡くなりになりました。
9月初めの練習日に胃腸の不調を訴えられ、その後まもなく市内の病院に入院されてからひと月余りの、まさに急逝でありました。療養を終えて元気に復帰されると期待していましたので、本当に驚くばかりです。
練習に当たっての先生は、時に厳しい言葉で叱咤し、また合間にユーモアを交えながら、未熟な私たちを粘り強く指導してくださいました。特に専門の管楽器については、息の入れ方・舌の使い方など懇切に教えていただき、演奏レベルの向上はひとえに先生のおかげと感謝しております。これからも長く先生に指導していただきたいと思っていましたので真に残念でなりません。
以下に、当団の設立以前から先生とお付き合いされていた当団の前代表からの一文を掲載します。
成島先生を偲んで
佐々木信一
とにかく多才な方でした。音楽は当然、プロであったことはもとより、その知識と演奏技術には絶えず敬服していました。
また、プロを退かれてからは地元の音楽界の発展に尽くされました。市内の小中学校の校歌を作曲されたり、市消防音楽隊の指導をされたり、枚挙にいとまがありません。
昭和50年代に創立された市音楽協会の初代会長として、市内の音楽団体を牽引されました。そしてその頃、資金や楽器を提供されて設立されたのが「四街道交響楽団」でした。現在、同楽団はメンバー不足のため休眠状態ですが、地元にオーケストラを作るといったことは真に偉業だったといえます。その時のノウハウを現在まで当シニア・ポップスオーケストラ (旧、シニアアンサンブル)に生かされ、引き継がれているといってもいいでしょう。
一方では、トヨタ自動車のテストドライバーに始まって、日本自動車連盟の役員を勤められるという異色の分野でも知られているところです。
高校時代は四街道の自宅から船橋高校までバイクで通学していたというエピソードがあります。昭和20年代のことで学校側もおおらかだったことと思います。それは四街道のモダンボーイだったと読み取れます、が、何よりもご本人の自動車に対する情熱の萌芽だったのかもしれません。
また、実家の事業の関係で市内のロータリークラブのメンバーとしても活躍され、クラブの集会には何度か当団が演奏にうかがいました。そのたびにクラブから寄付をいただいたことはいうまでもありません。
意外な面では、リモコンの模型飛行機を飛ばせるという趣味もありました。本当に多才な方でした。
私は長らく市内の混声合唱団で歌っていましたが、成島先生が音楽協会の会長をしておられた縁で、器楽の世界を知りました。四街道にいたからこそ本当に得難い経験となり、改めて感謝の念をささげたいと思います。このような経験は他にも多くの人たちが受けていると思います。
先生との出会いや音楽のお付き合いを列挙すればきりがありません。そんな先生の急逝は、当団のみならず、地元はもとより市内外にとっても本当に残念なことです。
数多くのシーンでの面影を偲びつつ、心からご冥福をお祈りいたします。
合 掌