いつもお読み頂き、ありがとうございます
この数日は暖かく過ごしやすい日が続いていますが、来週からまた本来の寒さがやってくると思うと‥‥
さて、この2〜3日はツイッターやFacebookで『西郷どん』絡みの記事を目にすることが多くなりました。
※トップ画像は鹿児島市天保山(てんぽざん)にある調所様像です♪(2019.3.1 撮影)
以前の南洲墓地の南洲翁暮石から変えてみました(^-^)
※「調所笑左衛門広郷邸跡」は市内平之町の平田靫負像のある平田公園と道路を挟んだ向かいにあります。
(平田靫負像の背中側です)
※↑説明書画像はクリックすると拡大表示されます(同じく 2019.3.1 撮影)
私も過去の記事を読み返したり、10年前には知識もなかったために気付かず今になって新たに気付いたことなどもあったり
また、過去の写真の元の画像を探すのに時間がかかったりと手間取っていましたが、それがかえって良い切っ掛けになりつつあります。
『5月の歴史探訪フォトアルバム-1』にアップしている写真、拡大表示が出来なくなっているので新たに貼り直してみようと思っています。例えば福昌寺跡で見つけた「調所笑左衛門 広郷」の名前が入った石塔とか。
ところで、「調所広郷」の肖像画というと思い浮かぶあの画像ですが(Wikiにある「調所広郷」の肖像画をご覧下さい)、名越左源太が描いたものを基にして、明治時代に日本画家・野田九浦(のだ きゅうほ)によって描かれたということをご存知の方は少ないのではないかと思われます。(※この件については後日また補足して書いてみたいと思います)
確かに、Wikiにある調所広郷の肖像画を見ると「九浦 復模」と書かれていますね。
年末の記事『その後どうなっているのか、知りたいものですが…』でも少し触れましたが、改めて紹介します。
5年前の「黎明館開館30周年記念企画特別展『島津重豪 薩摩を変えた博物大名』」の図録のp.90にある
「調所広郷」を描いた名越左源太時敏(時行)の直筆画
小紙片は、本人が最初に描いた物にイマイチ満足できずに後で描き直したもので
「此方似寄也(こちらの方が似ている)」と書かれています。
前述の図録のp.114にある記述によると「167. 続常不止集(ぞくとことわしゅう)巻十四 ・・・名越左源太時敏の日記・記録。弘化四年(1847)に時敏は初めて藩の会合で調所を見た。藩政を動かす実力者の姿に感動した時敏は その場で畳に図書の姿を指で描き覚え、帰宅後描いたものの納得しなかった。そのためもう一度別紙に描き「此方似寄也」と記した。図書が亡くなる前年の姿である」そうです。
後述の通り調所の死は1848年なので、これを描いたのは1847年、ということになりますね。
もしご興味のある方は、『鹿児島県史料 名越時敏史料 六』のp.194, p.195をご覧下さい。主要な公立の図書館で見られると思います。
また、「調所広郷木像」も 既出の図録に載っていますが、こちらは「調所の元家来であった 海江田綱賀が 調所の菩提を弔うために、出目祐徳に依頼して作った木像。調所の死(1848年)の翌年に作られた銘が厨子の背面にある。」と解説されています。
チェブちゃんのチケットはご愛嬌ってことで、ウフフ♡(~.~)