☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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倉山久籌は島津登久包の義理の弟だった!

2019-10-27 22:19:33 | 爲恵祥院殿菩提石塔

前回、倉山作太夫家の家系図を追って、倉山作太夫久籌の室は「島津登久備 孫女(永吉家二男家)」であるという記述を紹介しました。

 

そこで前回のように、『島津家家臣団系図集 下巻』で「210  島津登家[永吉家二男家](登家)」を確認すると、

「島津登久備」とは、「島津登久包」の祖父であり、久包の妹が「倉山作太夫久籌 室」と確認出来ました!

 

ということは倉山作太夫久籌夫婦は、久包の長女・タネ(名越右源太盛貞時行=左源太時敏 室)の叔母夫婦であると判明しました

  

 

さらに良く見ると、久包の父・「島津久命」は実は先代「久備」の従弟「掛橋輝次 兼治」が養子に入っており、

またその「久命」の妹(久備 女子)は「島津求馬久馮 室」とありました

なので、「島津求馬久馮夫婦」は島津登久包の叔母夫婦!という事になります 

 ←右端に「島津求馬久馮 夫婦」の刻銘あり!

 

と、ここで「島津登久包」を再確認してみました。

「八郎権五郎登 若年寄(斉彬公) 家老(忠義公) 戊辰戦争出役」

 

「久包」には弟もあり、「輝次 門十郎矢九郎 平山七郎右衛門 嗣」とありました。

   (‥‥ん?「平山」 

 

ところで、久包の長男で、タネの弟も「久籌」なのでややこしいです。

 

 写真の中央にある「島津矢柄久計」は島津矢柄家「薩州家准二男家」(矢柄家)にその名があります。

前述の系図集では

「134  島津矢柄家 [薩州家准二男家](矢柄家)一所持格 庶子号岩越」とあり、

「本宗家八代久豊公二男 用久」に始まります。

「久計 弥一郎矢柄」とだけ。

その長男に、「久敬」とあるのですが、続けて「弥一郎矢柄 室 菱刈杢之氶隆徴 妹」とのこと。

「島津矢市郎久敬」とは文字が違っているのですが‥‥。別人でしょうか??

 

「菱刈杢之氶隆徴」について、同様に「146  菱刈氏本家 [藤原北家庶流](藤馬家)一所持 本領菱刈院」にて確認。

「隆(実)徴」の妹「島津矢柄室」とあり、その父「隆珍」の弟に「久籌」とあり、

「孫五郎倉山作太夫久喜養子」とありました!

正に!島津登久包の妹の夫でありました〜  グルグル回って一周した感じ

 

「倉山久籌」について前回省いた箇所があるので再度、

「久籌 孫五郎作太夫 琉球在番奉行  実 菱刈安房隆観三男 室 島津登久備 孫女(永吉家二男家)」

 

  ☆10.30 追記:昨年6月13日に福昌寺で撮った写真に「菱刈安房隆観」「島津登久備」の名がありました

   関連記事 → 『調所笑左衛門などの刻銘を確かめに


ふと、(倉山作太夫)久籌の子供たちに目をやると、

長男・久昌の長男「藤五郎」という人がいて、(どこかで見たような‥‥)と思ったら、

永吉島津家「貴久公四男家」(中務家)を継いだ、タネの実弟「久籌 権五郎主殿又七」の長女・フユさんのところに「倉山藤五郎妻」と書いてあるのを以前見ていたので見覚えあるはずですね

 

「藤五郎 西南役薩軍狙撃一番左小隊長 於佐土原戦死 ‥‥ 

       室 島津又七久籌長女冬(永吉家)」

また、藤五郎の父・久昌の妹・ヌイさんは、「島津求馬久邦室」であり、

ヌイさんの息子「久能」さんも「応 吉織衛 西南役戦死 ‥‥ でした。。

       室 比志島静馬範雅女」

 

西南の役戦没者名簿で 確認しなくては‥‥‥。

 

それでは、今夜はこの辺で

 

 

☆☆☆☆☆☆

追記(11/4)

南洲墓地墓石配置図により確認! 栗川久澄の一つ置いた右隣にありました!!

たまたまですが、戦没者のネームプレートでも一つ置いた隣同士!

 

 

 

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倉山作太夫久籌?

2019-10-27 08:28:46 | 爲恵祥院殿菩提石塔

ここ数日調べ物をしていました。

以前2016年12月に書いた『名越右源太篤烈とは?』で上げた画像、石塔に刻まれた数組の夫婦の名前です。

(☆画像は全て、2012年11月16日撮影です。もう一度しっかり確認しなくては!)

  

左:「島津矢市郎久敬夫婦 名越右源太篤烈夫婦 倉山作太夫久籌夫婦」

右:「島津求馬久馮夫婦 島津矢柄久計夫婦 島津直??夫婦」

 

 この中で「倉山」という姓が気になっていたので、『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄著 高城書房出版)で見てみると、

[ 倉山 ] ‥‥ 豊州家島津丹波 正徳年間 二男以下の苗字は倉山氏。諱字は長男「久」、二男以下は「季」と命名するよう命ぜられた。

  倉山久武 ‥‥ 豊後久起 子 倉山作太夫家(寄合並)祖。

と、もう一件「倉山藤八」の2件のみ載っていました。

 

そこで「豊後久起」を[島津]に探してみると、[ 豊州島津 ](p.151)にありました。

  島津将監久起 ‥‥ (島津内膳)久兵 孫 宝暦六年(1756) 千五百六十九石 一所持 若年寄。1757没。

  ※ 将監(しょうげん)‥‥ 近衛府の判官。左右がある。

 

この「久兵」は「久邦養子」で

 宝永二年(1705) 大目付。正徳二年(1712) 一所持 若年寄。 正徳五年(1715)〜享保十六年(1731) 家老。

とあります。

 

また、『島津家家臣団系図集 下巻』でも「倉山」をチェック!

下巻 p.356  倉山氏 「豊州家二男家」(作太夫家)寄合並

 282  豊州家十二代 島津内膳久起二男 文化九年五月樹家 屋敷 西田

 

久武 ー 久喜 = 久籌 ‥‥ 実 菱刈安房隆観三男 室 島津登久備孫女(永吉家二男家)

とありました!

今度は「島津登久備」を調べてみなくては〜、、、と一先ずここまで。

う〜〜〜ん、、この辺りも繋がりありそう〜

 

 「島津矢市郎久敬」「 島津求馬家」「島津矢柄(やつか)家」も調べましたが、次回以降に回します。

(何で「やつか」と確認したか忘れましたが、「矢柄」は「やがら」かもしれません。'21.1.16 追記)

「やがら」【 矢柄・矢幹・簳 】 ・・・ 矢の幹。篦(の)。矢篦(やの)。(「広辞苑」より '21.1.18 追記)

 

この石塔に刻まれた各家の繋がり、何かお気付きの方がおられましたら、コメントなど頂けると嬉しいです

 

 この石塔、引きで見ると、こういう形↓の石塔です。これにぐるりと名前が刻まれています。

  

上の画像を大きく写したのが↓こちら

 「爲 恵祥院殿菩提」と読めますが、

恵祥院とはまだ誰だか分かりません。ネット検索では出て来ませんでした。

 

 

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