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←「中西長門守秀長」の墓石(クリックすると拡大表示されます)
さて、7月末に『岷山? 』というタイトルの記事で福昌寺の墓石の主について調べていましたが、
「中西長門守秀長」の名前を調べる前に、数日後、別件で『かんまち本 その2』を読んでいたら
「虎屋馬場(とらやんばぁ)」の説明文にその名前が出ていました
『虎屋馬場(とらやんばぁ)』の項に、「虎屋と称する呉服商の中西秀長の屋敷がありました。秀長は猿楽の名人であり、島津忠恒に伝授しました。」とあります。
「呉服商」で「猿楽の名人」、、、?
島津忠恒、のちの島津家久の頃の人、ということはわかりますが、、、ん〜〜、もう少し詳しく知りたいですね。
改めて「中西秀長」でネット検索してみました。
元々は近江の出の家系のようですね。
「尚古集成館」のHPにも関連記事がありました。
「能楽(のうがく)」
以下、Weblio辞書より → 「中西秀長」とは?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/04 19:54 UTC 版)
中西 秀長(なかにし ひでなが、生年不詳 - 慶安3年8月11日(1650年9月6日))は、江戸時代初期の薩摩藩の武士。諱は秀長。通称は弥兵衛、長門守。猿楽の名人。近江国小幡村の領主の子孫である小幡弥兵衛宗以の子。諱は秀長。12歳の時に豊臣秀次に奉仕し、浪人して上京して呉服商となり、家号を虎屋と称す。慶長年中は虎屋または小幡氏を称す。薩摩藩に移って後も、しばらく「虎屋」を称していたため、かつて中西秀長の屋敷のあった通りに「虎屋の馬場」という名がついた。
「中西秀長」の続きの解説一覧
のちに猿楽の名人であるが故に、島津忠恒に300石で仕官す。のちに1000石となる。征夷大将軍徳川家光の薩摩藩桜田藩邸御成の際は猿楽を披露する。また、薩摩藩に金春八郎大夫厳達、大坂本願寺坊官下間少進法印に伝わる謡曲や舞踊を伝え、島津忠恒に猿楽を伝授した。
また禁裏より参内を命じられ、正六位、長門守を叙される。寛永年間に中西に改姓する。
墓は浄土宗知恩院の末寺、不断光院。法号は久遠院円日大居士。墓所から宗旨は浄土宗と思われる。また、息子は中西分右衛門(初め、弥左衛門。墓は父に同じ)、中西長門右衛門秀乗(墓は福昌寺)。子孫は代々、猿楽を世襲する。
年譜
- 慶長7年;島津忠恒に仕官。
- 慶長9年;禁裏より正六位、長門守を叙される。
- 元和6年;加増されて1000石となる。
- 寛永7年4月8日;徳川家光が薩摩藩桜田藩邸に御成となり、猿楽を披露す。
- 寛永13年;この年作成の「薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳」によると、『新堀の上』に『中屋敷 3反6畝20分 中西長門守殿』とある。鎌田出雲守政統の屋敷が近くにあった。
参考文献
- 上野尭史「鹿児島士人名抄録」高城書房
- 「鹿児島県史料 旧記雑録後編4」