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さて、前稿で「惠祥院殿菩提」の石塔について書きましたが、「名越右源太篤烈夫婦」ということはいったいいつ頃のことなのかを、はっきり認識しておいた方が良いだろうと思いつき、長女・イサさんの誕生日の1年前くらいを計算すれば、1839年(=天保10年)初めには夫婦だったのだろうと思うわけです。
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実は最近、島津登久包について新しい情報が届いたのです。
それで思ったのですが、島津登久包は、高祖父・名越時敏の妻・タネの実父であり、高祖父の舅となったのが天保10年頃として、その頃以降に建立された石塔であろうと思われるわけです。
また、高祖父は奄美・小宿に遠島時代(1850~1855年)の「南島雑話」の下書きにある署名の「名越時行」→ 小林居地頭の頃には「名越時敏」、明治に入って「名越泰藏」と順に改称します。
なので、「名越右源太篤烈(夫婦)」だったのは1839年〜1849年の間の何年間かだと思われます。
その頃に亡くなった「惠祥院殿」とはどなただったのか、今後も少しでも情報を掴めればと思います。
画像は季節外れに咲いたナスタチウム