みなさま、しばらくぶりで御座います。
又つらつらと綴ってみようと思います
今日、5月20日、例の「家族・親族のメモリアルカレンダー」を見てみると、
祖父・篤彦のすぐ下の弟・敏雄が「皷川の藤田善次郎の養子」となった日でした。
除籍謄本によるのですが、祖父・篤彦の二歳違いの弟は明治16年4月生まれで
その敏雄さんが明治22年に養子に行った時には満で6歳。
この皷川の藤田善次郎という人物がどういう方かは全く分かりません。
また、その翌年の4月には、『都見物日記』に残っている通り、父親である曽祖父・轟は、
姉・川上イサさんとその姑さんと一緒に東京市へ1ヶ月余り出かけています。
この敏雄さん、私の亡き父からすれば叔父の一人ですが、末っ子で大正15年生まれだったので
敏雄叔父にあったことはなかったと思います。
その父が祖父・篤彦から聞いた話では、敏雄さんは篤彦じいさんよりも体格が良く身体が大きかったけど、
篤彦じいさんはある時相撲で投げ飛ばした、と自慢げに(?)父に語っていたようです。
でも、養子に行った時には、篤彦じいさんは8歳、6歳の弟が体格が良いと言ってもそんな子供の頃のことだったのかは疑問が残りました。
もしかしたら、養子に入った後も兄弟で過ごす時間があったのかも、と思うのでした。
今となっては確認のしようがありませんが、もう少し成長した頃の話かな、とずっとイメージしていました。
そんな祖父も、明治28〜9年には親(曽祖父・轟)に従い台湾へ移り住むので、ほんの数年の間の思い出なのかもしれません。
追記:敏雄さんメモには「北海道へ」とあるのですが、詳しいことは分かりません。
父によると、祖父・篤彦は弟・敏雄のことを「トシ」と呼んでいたようです。
では、次は次弟のお話をします。
お休みなさい