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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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名越左源太のお墓は?

2017-06-16 23:52:00 | 名越左源太と家族
名越左源太没後135年
今日は名越左源太(なごや さげんた)の命日。明治14年(1881年)に亡くなって135年になります。と言って、別段何もないのですけど。亡くなった時は「泰藏」でした。数え......


去年はこんな記事を書いていたのですが、
左源太の命日の今日、直系の子孫のお宅のお墓を御参りしてきました。

墓石には「先祖代々」とありましたが、
以前、時成さんの娘さんの子孫の内村氏が纏められた冊子にあったように
直系の子孫の方はあまり詳しいことはご存じないようで、
ここは時成さんの男系子孫の方のお墓であって、
おそらく左源太の墓は存在しないものと思われます。
(※あくまでも推測です。もしかしたら子孫の方のお墓に骨壺などがあるのかもしれないけど、確認取れません)


前にも書きましたが、南洲墓地でスケッチ画を描くうちに、
そこを訪れる方達に何度となく墓石のことを尋ねられたことが切っ掛けで
ご先祖の墓石を探しにくる子孫の方達の為に
西南の役で亡くなった方々について調べ聞いたことをホームページでまとめておられた湯場崎さんという方がありました。

☆以前の関連記事:
『墓標を縫って 南洲墓地にて』の作者、湯場崎末次郎様へ。('10. 10/8 記)

そのホームページの(今は無い)記事で読んだところによると、
明治24年の区画整理で、元あった長谷場墓地(福昌寺跡墓地)から、市内の別の場所に移築される際に、
どこぞの墓石屋さんが喜んで持って行ったとか。。。


左源太の墓石には息子・時成による碑文が刻まれていて大層立派だったそうなので、そんなこともあったのでしょう。

おそらくは、無縁仏のひとつとしてそのためのお堂のどこかにあるのかもしれません。

☆以前の関連記事:
これまでの経緯−2('08. 4/25記)
  ↑この記事に書いてある中から抜粋すると、以下の通りです

  ('08) 3/11(火)
   福昌寺にあった墓が移設されたという坂元墓地へ。
  * ネットで探して移設のことを知ったのは↓このHPでした。
              『名越左源太公の墓』(← ☆リンク切れです)
           ☆一応念のため、元のURLはコチラ→ http://www2.synapse.ne.jp/hanjirou/nan/yubatop.htm

   墓地の管理事務所へ行き、移設・改葬されたという無縁墓の多数の骨壺を見せてもらう。
   名越とも縁のある「町田氏」の名前を多く見かける。

  昭和24年の時点で連絡の取れないものや訪れる人の無い墓は
  全て無縁墓としてまとめられ、供養されたということだった。

   *ほとんどの骨壺の蓋に番号が書かれていたが、
   市の墓地関係部署で訊くと、移設・改葬されたものは昭和40年代に
   まとめて供養され、資料・名簿などは残っていないとのこと。
   左源太のものが果たしてそこにあるのかは不明のまま。

最初に行ったのは2008年の3月10日。結局翌11日再訪した際に上のような状況がわかったのです。
☆以前の関連記事:
坂元墓地で猫の兄弟に出会う(mixi日記より)('08. 3/10 記)

  
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