皆さま、おはようございます
以前、『維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(1)』(2017-09-19 カテゴリー| 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008) で「関勇助誕生之地」の画像を貼って紹介していますが、この一帯を歩いて回った2008年当時はほとんど知らないことだらけでした。
画像を後で見直す中で「関勇助誕生之地」に関しても、説明板を読んではみたものの、当時はあまりピンときていませんでしたが、この「関 勇助」という人物は斉彬公が最も信頼を寄せていた方なのだということです。
改めて調べてみると、「かごしま市観光ナビ」に観光スポットとして紹介されているようです。
2008年に撮っていた案内板(下の画像)の説明をより詳しく紹介しています。
【関 勇助】 (せき ゆうすけ)
生没年不詳
名は広国、南塘と号した。城下高麗町(現・高麗町)に生まれた。
1851(嘉永4)年、島津斉彬が藩主となると、深く勇助の人柄と学問を愛し重く用いた。すなわち、常平法(飢饉の年のために備える法)の施行、城下士外城屯田兵の制度、藩内諸郷に郷校を設けて育英の事業を起こすなど、勇助の業績によるものが多かった。
また、蝦夷地(北海道)開拓計画のための調査立案や、大政の権限を朝廷に帰すための七ヶ条の意見書の添削など、重要な仕事のほとんどは斉彬が勇助にさせたものである。
勇助は、当時の著者たちの指導・教育に大変熱心で、西郷隆盛や大久保利通など多くの人材を世に送り出した。ひとえに勇助が日本の国の将来を考える思慮深い人物だったからであろう。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)
以上、「かごしま市観光ナビ」より
画像は2008年当時のものです。
その後ここへは行っていないので、現在の様子がわかりませんでしたが、鹿児島市とは別のサイトのページで画像が見られました。リンクサイトを読むと、この方も「お由羅騒動」で謹慎処分を命じられていたことがわかりました。
「関 広国」が本名、「関勇助は通称」とWikiにはありました。
今のところ、極一時期の動向しかわからないようです。
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追記:2022.7.21 12:45
芳 即正著『島津斉彬』のp.85~86に関勇助のことが少し載っていました