昨日、西村時彦(ときつね)さんのことを書きました。
『懐徳堂』について覚えがなかったのですが、三原家の女性たちの確認のため、以前黎明館調査史料室 前室長の内倉昭文 さんから頂いていた黎明館調査研究報告第24集(二○一二年三月)別刷「『鹿児島県史料 名越時敏史料』について」を読み直していたら、その中に『懐徳堂』の名前も出ていました。
西村時彦すなわち、西村天囚氏の妻・タカさんと、私の曽祖母・ツタとの年齢差や親兄弟の名前の確認のために読み返したところだったのですが、それについて少しまとめて記しておこうと思います。
まず、曽祖母・ツタの生年月日は『 曾祖母・ツタの誕生日 』にも書きましたが、
安政五年(1858年)10月23日
また、書いたつもりでその形跡が無かったのですが、我が家の除籍謄本に
「三原經賢 二女」とあります。
で、西村天囚氏の最初の妻・タカさんは、前述の黎明館調査研究報告第24集別刷 によると、
「(天囚より)二つ年下の鹿児島市生まれの三原経倫の妹」で、「慶応三年十月二十八日生まれ」(註「西村家戸籍謄本」によると同年十月十八日生まれ)」(p.55)
とのこと。戸籍謄本を重視して、
慶応三年(1865年)10月18日
ということは、ツタより7歳年下になりますね。
さらに、「西村天囚の最初の妻は「三原タカ」で、まさしくこの「都見物」の帰りの大阪見物の時期(明治二十三年五月)は、天囚自身「大阪朝日」に入社した翌年であり、また「三原タカ」との結婚(同九月)の少し前でもあり、時期的にはその準備の期間といってもよい。」(同上p.55)とあります。
残念なことに、「明治二十五年死去したため 再婚したのが幸子夫人」(同じくp.55)とあり、明治23年の『都見物日記』から2年後には亡くなっているんですね。
そして『西村天囚伝』によると、西村天囚氏と再婚したこの「幸子夫人=サチ」も、「タカの親戚にあた」り、「三原経典」(註「西村家戸籍謄本」によると「三原経倫」)の長女」ということで、ここも戸籍謄本を重視して考えればサチさんは「三原タカさんの姪」ということですね。
三原サチさんの生年月日は、
「明治七年六月五日生まれ、鹿児島住」とあります。
明治七年(1874年)6月5日生まれで、タカさんより9歳若いですね。
『都見物日記』で曽祖父・轟が4月22日に「三原御母様」と「おたか様」の所を訪ねていますが、
( 「4月22日 大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」 )
5月28日には「三原氏母様」もイサさんたち3人と一緒に鹿児島へ帰っています。
ここでも「三原氏母様」のお名前が無いし、曽祖母・ツタの母親の名前もわからないので確認はできません。
女性の戸籍を辿るのも簡単ではありません。。
また「三原經賢」と「三原経倫」の関係性もわかるといいのですが。。
☆「 黎明館調査研究報告」p.52を見ると、「トキツネ」という表記がありました。。
『西村天囚伝』、読んでみたいですね。上・下巻あるようです。
(後醍院良正編『西村天囚伝(上・下)』(一九七二年)だそうです)
私が常盤町にある「江田どんの屋敷」のことを調べている時に、あることから獅子文六の小説「南の風」の主人公の親戚の家の舞台として「江田どんの屋敷」が使われていることを知り、その小説が掲載されている朝日新聞発行の「獅子文六全集」第三巻を読みました。するとその中にあった「付録月報」NO.4の中に「南の風」と文六さんという文章があるのですが、それを書いたのが「後醍院良正」さんでした。そこからの連想でこの「西村天囚と三原家の繋がり」に来てみて更に驚いたのが「西村天囚伝」の編者が後醍院良正さんだったということです。
後醍院良正さんの系図は現状では見つけることはできていませんが、後醍院家のご先祖に「良宗」「良任」など「良」の文字が使われているところをみますと「良正」さんも一族と思いますがいかがでしょう。私の勝手な推理を書きました。
何とコメント返しをすればいいかすら咄嗟に思いつかず、例のレポートを読み返しているところです。。
こんな繋がりがあるとは、想像以上です。
1年前にたまたまFBで従兄の記事と写真を見て、馴染みのある地域だし、いつもの好奇心のみで行ってみた場所が、最近ブログで知り合ったばかりのクマタツさんのお話との共通項であったとは驚くばりです!
「西村天囚伝」とも関係あるかも!なんて‥‥、面白いですね〜♪ありがとうございます