☆第十一代守護職・島津忠昌 … 立久長男。母は梶原三郎太郎弘純の女子。茂山夫人。
寛政3年(1463年)五月三日、出生。
永正五年(1508年)二月十五日、鹿児島清水城に突然自刃した。歳46。
※ 死に臨み、忠昌が吟じた西行法師の歌。
願はくは花のもとにて春死なむ 其きさらぎの望月のころ
「11代・忠昌」夫妻の墓は画像右手、台座の上の2基です。
奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓が並びます。
☆ 忠昌公は領国統治も意のままにならず、失意のうちに永正五年(1508年)、鹿児島清水城に突然自刃。46歳で没しました。
忠昌公へ献花。
このとき、奈良原助八満が忠昌に殉じて自刃。25歳だったそう。
福昌寺近くに碑が建っています。
これが、2008年5月に初めて「かごしま探検の会」の町歩きに参加した時に、当時は島津氏や郷土の歴史について何の知識もなかったのですが、それでも「助八の死は島津家における初めての殉死」という東川さんの説明が強烈に印象に残りました。
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そのころはピンと来ていませんでしたが、『島津歴代略記』を読んで、少しずつ理解出来るようになりました。
2019年にも説明板を撮っていました。新しいものになったようですが、内容は変わっていません。
それでは、また。