前回に続き、2008年1月23日に散策した鹿児島城下の上町の画像です。
(当然ながら、画像は全て13年前に撮ったものですので御了承下さい)
まずは、当時大河ドラマ『篤姫』の放送でにわかに注目を浴びることとなった、
篤姫の実家、今和泉島津家本邸跡 を訪ねることからスタートしました。
付近の様子。「上之馬場(うえんばあ)」と表示がありました。
この↓右手が屋敷跡。この屋敷跡の向こうにバス停があり、先ずは地図をたっぷりと写真に収めました(堪能♪)
バス停に到着。大きな古地図をじっくり見てみます。
「今和泉島津家本邸跡」の説明書き
バス停前には古地図のパネルが二つもあったので、ここで色々と確認します。
「名越家」は、篤姫のご実家のご近所でした。お向かいは重富島津家のお屋敷。
ただ、名越家のはっきりした場所は、この時点ではわかっていませんでしたので、
大龍寺跡(現・大龍小学校)の前を通り、この「名越家」角のあたりから付近をぐるっと廻ってみることにしました。
「大龍小学校校庭遺跡」として説明書きがありました。
「三千年くらい前の縄文時代後期を中心とした祭祀遺跡である」そうで、また
「五世紀頃に南方の島々との交流があったと思われ」るとあります。
「内城(1550~1602年)」「大龍寺(1611~1869年)」もあった場所には大昔からの人々の痕跡がありました。
大龍小学校の前の通りの奥は南洲神社・南洲墓地方面。
ここで方向転換し、名越家の屋敷跡があったあたりに向かいます。(小学校の門)
もう少し引きで見ると、
さらに鹿児島湾(錦江湾)側には「今和泉島津家濱(浜)屋敷」もありました。
実はのちに気づくことになるのですが、
『鹿児島城下絵図散歩』で、安政6年(1859年)に「島津峯之助殿中屋敷」であったものが、
それ以前の天保13年(1842年)には「名越右膳中屋敷」と表記があり、祇園之洲に掛かる
永安橋南側の「抱真院」に繋がる「境橋」の手前(画面の境橋の左手屋敷、上町から見ると境橋の手前右手)に
340坪の屋敷があったようです。(☆画像右手が北、左手が南)
嘉永三年(1850年)の左源太の遠島処分に伴い、父・右膳の中屋敷も
今和泉島津家に召し上げられたということなのでしょうか?
では、また続きます。