☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

9月、命日と誕生日もいろいろ

2021-09-18 15:21:14 | 名越左源太と家族

5年前に作った「家族・先祖の生没年月日専用ダイアリー」↓ですが、

2016年4月のあれこれ及び、先祖の生没年月日専用カレンダー式手帳完成!』(2016.4.23)

今も役立てています。

 

で今月、9月には誕生日や命日が割に多いのです。

 

7日は、父の長姉の命日(2009年、96歳没)で、

15日は町田久成(一時期曽祖父の次姉の夫だった)の命日だったり、同日は父の伯母(明治9年生まれ、吉野・実方の川上家)の誕生日だったりします。

 

また、22日は伯母(父の義姉、旧姓津曲、1984年没)の命日

24日は曽祖父・轟の実兄・名越時成(なごや ときなり 薩摩藩英国留学時の変名:三笠政之介)の誕生日(弘化四年=1847年生まれ)

 

さらに江戸時代の旧暦ながら、

第22代・島津継豊公の命日が九月二十日

(宝暦十年=1760年、磯別邸に没、六十歳)

     

その父で第21代・島津吉貴公の誕生日が九月十七日

延宝三年(=1675年)鶴丸城に出生

 〜延享四年(=1747年)十月十日、磯別邸にて死去(享年73)

    

   

 

などなど見られるのですが、25日は五代友厚の命日です。

 天保六年(=1836)12/26〜明治18年(1885年)満49歳没

 

FBでも五代友厚に関するトピックを見かけるのですが、

郷里の誕生地跡が地域の公園として整備され、その完成前後に父と訪ねたことをに書いていたので、読み返して見たところです。

五代友厚公の命日に誕生地を訪ねる』(2019.9.25)

最後に訪ねて随分経った気がしていましたが、2019年の命日に訪ねており、2年も経っていませんでした。

工事前→   工事中 →  

完成後→      

 

 

また同じ日、25日は父方祖母の実母・寺山スキの命日だと知ったのは2年ほど前のことでした。

(慶応三年=1867年12/18生まれ〜明治32年=1899年、31歳没)

祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)』(2019.9.25)

 慶應三年(1867年)十二月十八日生まれ

「明治十九年五月十日に鹿児島郡稲荷馬場町 町田藤蔵 長女に入籍ス」

明治三十二年九月二十五日 午前十一時 臺北縣 臺北北門街二丁目三拾八番戸ニ於テ死亡

 

また、祖母・ふく(婦久の草書表記)には 兄・用麿、姉・節 の二人がいたことも知ることができた。

 

兄・用麿さんは、明治21年8月27日生まれ、残念ながら大正9年に32才になって間も無く小倉市で亡くなったようです。

姉・節さんは、明治25年5月17日生まれ、大正5年7月に清水町151番地の肥田木健介さんと結婚し、除籍。

ふくばあちゃんは、明治27年(1894年)11月27日生まれで、大正2年(1913年)4月15日 18歳の時に篤彦(31才)と結婚。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の没後100日目の墓参とワクチン接種

2021-09-16 23:52:04 | 日記

今日は2回目のワクチン接種の予約日。

午後2時半に予定していたので、それまでに父母の墓参りに行ってきました。

少し雨に降られたものの、無事済ませてワクチン接種会場へ。

9時間経って、別段変わりはなく安堵しています。

 

昨日は昨日で、父の次兄が建てた、曽祖父母以下が眠る父方の先祖の墓へ。

市営墓地ですが、がけ崩れの跡らしきものが見られました。

 

ブルーシートをかけてあったので目についたのですが、

我が家の先祖が眠る墓所からは少し遠く、どの程度か、道路を通れるのかはわかりませんでした。

 

市内の北部、遠くの方では雨の柱も見られました。

 

帰る頃にはすっかり暗くなってしまいました^^;

  

古い墓所なので、法面の蔦がひと月の間に伸び放題!

次は鎌と鍬を持って草刈りに励まなくてはならないようです‥‥。

お盆の頃には墓所の方で法面もカットされていたのですが、

どこまでが我が家の責任で管理しなくてはならないのか、

一度確認しなくてはなりません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西郷家墓地へ(2018.3.9)

2021-09-09 15:04:00 | 大河ドラマ『西郷どん』

前回記事で、石敢當(せっかんとう)の画像を探していたら、この写真を撮った2018年3月9日の出来事をブログに書いていないことに気づきました。

  

なぜかな?と考えるに、この頃はあちらこちらを探索し、画像処理や記事のアップで忙しく、

このブログでも2018年3月をチェックすると、

10年近くも前に幾島様のお墓を訪ねたことをアップしていたり→『幾島君招魂墓(鹿児島市)

FBでもその日あった出来事をアップしたりと、とにかく忙しかったようです(笑)

 

で、3年前の3月、この日は父と、市内の常盤町へ西郷家墓地やその他気になっていた石碑などを探しに出かけたのでした。

ちょうど大河ドラマ『西郷(sego)どん』が放送中でもあり、墓所があると聞く常盤町は、小さい頃に母の妹家族が住んでいたし、兄弟揃って書道教室へ歩いて通ったりして昔から馴染みのある場所なのだけど、西郷家の墓所はまだ訪ねたことがなかったので気になっていたのです。

 

ここからはFBにアップした2018年3月の記事をそのまま転載します。

 

     ☆☆☆

風はちょっと冷たいながらも今日は天気が良かったので、父と一緒に西郷隆盛ゆかりの地などをいくつか訪ねてきました♪ 
 
まずは前々から行ってみたかった、西別府にある西郷野屋敷跡と、常盤町の西郷家墓地。それに、同じく常盤町の薩英戦争本陣跡と千眼寺跡。
 
常盤町には小さい頃に親戚の家があったんだけど、昔の面影は石垣のみで元の家の場所がハッキリ分からなくて残念。
ただ、最後に訪ねた西郷家墓地では、隣家が偶然にも、60年以上前に父が大阪支店時代に同僚だった方のお宅でした!(墓地訪問は今日で2度目)
 
それより少し前に常盤町で親戚の家があった近辺を少し歩きまわって、そのあと西郷家の墓地を訪ねた時にちょうど車で帰宅された女性が家の中へ入って行かれたのでした。父が表札に書かれた名前を見て、同名の知人が確かこの辺りに居られたはず、と思い切って尋ねてみたところ、その同僚の娘さんだったのです!父より年上の同僚は随分前に亡くなられたものの、娘さんも大阪時代の事などご存知で、ひとしきり話をして帰りには美味しそうな屋久島のタンカンまでいただき、父にとって思いがけず楽しいひとときだったようです。
なんとも良い一日でした。
西郷家墓地(2018.3.9)
 
 
     ☆☆☆
 
ということで、西別府の西郷家野屋敷跡に行ったのも同日だったこと、忘れていました。
まだまだ元気にあちらこちらを散策していたようですね。
付き合わされた父も大変だっただろうなぁ‥‥(苦笑)
 
3年半越しにフォトチャンネル作りました
西郷家野屋敷跡
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石敢當(せっかんとう)から都城島津家、更には北郷氏へ

2021-09-09 14:31:18 | 歴史探索
いつもお読みいただき、ありがとうございます
(画像は以前、鹿児島市内の常盤町で写したもの)
 さて、FBの歴史を語るグループで昨日話題に上ったのが石敢當(せっかんとう)でした。
沖縄や鹿児島ではよくみられるもので、「中国から入ったのでは」とか「琉球から」と話題になったことから、私は「唐人町」のある都城あたりも関係するのでは?と、以前購入していた佐々木綱洋氏の『都城唐人町』や『都城島津家墓地』をめくってみたのです。
 
 すると、前回書いた北郷家について、
『都城島津家墓地』の冒頭、第1章 第1節に「北郷氏と都城島津家」と題して詳しく書かれていました。
ただ、以前は「和泉(今和泉)島津家」に関するところに興味があり、北郷家については気になりつつも、詳しいところまでは読んでいませんでした。
 
 北郷家は川内の平佐北郷家もありますが、都城島津家を離れ作った別家とのことで、その辺りのことや、鹿児島側からではなく都城や宮崎の歴史の動きも知らなくては始まらないな、と思っていました。
 
 飫肥城、伊東氏、はたまた豊州家との関係なども気になるところ。
 
 忠平(のちの義弘)の妻が北郷忠孝の娘であり、二人の間にできた「お屋地」は北郷時久嫡子・相久(すけひさ)に嫁いだが、謀反の疑いによって自害すると、お屋地は義弘のもとに返され、豊州家朝久の室となり‥‥等々、詳しく書かれているのです。
 
 また沼にはまってしまいますが、
これを機に今回はじっくり読んでみることに島津。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島津氏と北郷氏と禰寝氏の沼へ

2021-09-07 13:34:09 | 島津重年公の母・嶺松院殿
昨日はちょっと歴史沼にまたハマってしまってアップアップしていました。
Wiki情報ですが、
「広大院(茂姫)」の母親で、島津重豪の側室
「慈光院(市田氏お登勢の方)」の弟、「市田盛常」から始まって、
 
重豪から「近思録崩れ」
「樺山久言」→「島津忠貫」→「島津忠紀(重富家)」→「島津貴儔」
 
☆貴儔の娘・都美は島津久門(のちの重年)の正室。
第8代藩主・島津重豪と「佐土原藩主・島津忠持」の外祖父、及び
第11代将軍徳川家斉の御台所・茂姫の曽祖父にあたる。 (Wikiより)
 
で、「島津忠持」… 日向国佐土原藩9代藩主。島津宗家の島津重豪の従弟であり、義理の甥である。→その父「島津久柄(ひさもと)」
 
また、島津重年は島津継豊の次男として鹿児島城で生まれ、加治木島津家当主・島津久季の養子となる。なお、継豊と母・登免(○松院殿)との子は重年(幼名・善次郎、久門)一人であった、と。
  (※○は山冠に松←Wiki情報による) 
   『島津歴代略記』では「嶺松院殿」
   カテゴリーに「島津重年公の母・嶺松院殿」を作っていたけど、
  何を書きたかったのか失念。なのでこれをカテゴライズしておく(同日14:15追記)
 
その重年の母が島津久房の娘・登免であることから久房を調べると、
「島津久房(求馬)」‥‥と、求馬家の人でした!
島津光久の十八男で、岩崎に宅地を与えられたことから「岩崎島津家」「岩崎家」と云うらしい。
なるほど岩崎谷の屋敷跡、合点がいきました。こんな古くからあそこが求馬家屋敷だったんですね!
 で、久房は組頭番頭と務め、小林郷地頭を兼任。
        あとで『島津歴代略記』をみたら前にも目を通した事柄だったけど、
   「岩崎島津家」と云うのは知らなかった。(同日14:15に追記)
 
 
「島津久明」‥‥ 島津光久の十男で、(中略)‥‥大抵の史料では
「島津大蔵久明」で知られる。薩摩藩家老などを勤める。
禰寝清雄の長女を妻とした関係で、小松家に養子を出すことが多く
(中略)‥‥小松清香から小松清楢(きよもと/きよみち)までの小松家投手は久明の子孫である。‥‥云々、とありました。(Wiki情報より)
 
「小松清香(きよたか)」島津久春(島津久明の長男、のちに久純に改名)の次男として誕生。
 
等々ありまして、
 
元和3年(1617年)、島津家久の四男として鹿児島で生まれる。
寛永元年(1624年)、兄・光久らと共に江戸に移り人質となる。
   父:島津家久 養父:島津久敏、北郷忠亮
   兄弟:島津光久、島津忠朗、島津忠広、町田忠尚、島津忠紀、他
 トップ画像は川口素生氏の『島津一族』より(ここには家久三男とある)
 
ここで「北郷氏」が出てきたので、
北郷氏から家祖「北郷資忠(すけただ)」を見て、
そこから一気に島津家初代まで遡る事になりました(笑)
 
北郷資忠は南北朝時代の薩摩及び日向武将。
薩摩守護島津氏の有力支族である北郷氏初代当主。
島津宗家4代当主である「島津忠宗」の六男。
 
 付け焼き刃的だけど、また今後、これが生きることがあると思いたい
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする