夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「4月17日という日」

2024年04月17日 20時35分08秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
風邪ひき中。
医者に行ってきました。
今は抗生物質というのは出さないのですね。
5粒も薬を飲んでいます。
症状を一つ言うと1粒づつ増える(笑)
微熱も少し下がり楽になりました。

≪過去の記事≫

【2004年】
館林に行ってきました。館林は栃木県ではなくて群馬県でした。。。。どもども。
まさにツツジの町という感じでした。
樹齢800年のツツジって見たことがありますか?
木の幹は細くたいした大木ではないのですが、幹に生えたコケなどを見ると歴史を感じます。それにしてもツツジというのは木という感じがあまりないですね。
見上げてみるツツジの花を見たことがありますか?
青い空をバックにさまざまの色の花が・・・・きれいですよ。
今5分咲きぐらい(木によっては満開)です。しばらくは楽しめます。
ピンク色のツツジの鉢を買ってきました。

【2005年】
東京ではソメイヨシノもすっかり散ってしまいました。今年はちょうど散る時期に花散らしの雨が続ききれいな花吹雪をほとんど見ることができませんでした。さっと咲いていつの間にか散っていった桜でした。
腰の調子もよくなったので、まだ桜が咲いているところがないかと道路地図をぼけっとながながめていたら群馬県の妙義山ふもとに「桜の里」を発見しました。地図では、標高800メートルほどの高さにあるようなので出かけようかとネットで検索したら、まだ満開には早いようでしたが出かけました。
上信越道の妙義インターから妙義山を登っていきました。妙義神社あたりまで登ると桜が盛んに散っていました。そして桜の里まで登るとやはりまだ早いようで7分咲きぐらいでした。登るときには道路の横にもたくさん桜が咲いていましたが、桜の里が標高800メートルほどにあるため、道路わきの桜も、葉桜→満開→花吹雪→7分咲きと、いろいろな姿の桜を眺めることができました。
桜の里が7分咲きと少し寂しかったのですが、このようないろいろな姿の桜を眺めることができたのはうれしかったです。
桜の里は、「里」とは言え、民家があるわけではなく、山の谷間に数千本の桜が咲いているだけのところです。腰を心配して谷間には下りず、上からピンクのじゅうたんを眺めました。近くから咲く花を見るのもきれいですが、上からたくさんの花を眺めるのもまたきれいでした。山の中腹の一部がピンクに染まる。。。。このような風景は東京では見ることができませんからね。
帰りはコンニャクと葱で有名な下仁田に抜けました。
やはり下る道には桜がたくさんありました。民家の庭に他の花々と一緒に咲く桜もきれいでした。妙義インターから桜の里、そして下仁田に抜ける道だけをドライブするだけでも十分に桜を楽しめます。
機会がありましたら是非いらしてみてください。

晴れてはいましたが霞がかかったような天気でした。
群馬県の桜の里に行ってきました。標高800メートルほどの山の中にあるのですが、まだソメイヨシノも7分咲きぐらいで、他の種類はつぼみでした。来週の週末あたりが見ごろかな?
ふもとのほうは葉桜だったり、花びらを盛んに落としていました。車で登ったり下ったりするときも桜が道の横にたくさんあるのですが、標高差によっていろいろな開花時期のソメイヨシノが現れます。楽しかったです。

【2006年】
よく晴れて気持ちの良い一日でした。
洗濯物の日向の臭いはいいですなぁ。。。。我が家は無香料の洗濯粉石鹸を詰まっていますが、この日向の臭いはどんな香料もかなわないでしょうね。
一昨日行った秩父で
      くたびれたやつがさがす一里塚
という江戸時代の川柳を見つけました。
てくてくと歩き続けて一里塚を見つけたときは嬉しかったと思います。茶店もあったかな?松の下で一服。。。。気持ちがよさそうです。
この一里塚なんですが、僕たちの生活の中にも疲れたときに一服できる一里塚が必要ではないかと思います。
競争競争で、この一服できる余裕がない。
もちろん僕も皆さんも楽しんでいいると思いますが、どうもこの楽しみというもの自体が金を使うことに関連したものが多く、ほんとに一里塚になっているのか?
何もしないでぼうっとすごし、夕飯を楽しく家族で作り食べるとか言う日常。。。
心が休まる一里塚はないのではないか?あってもほんのつかの間です。
もちろん仕事をするというものが必要なのですが、本来楽しいはずの(もちろん疲労という苦はありますが、それも終わってみれば楽しいことになるような)労働が苦になってばかりいるようでは社会的な意味での一里塚もないですなぁ。。。

【2007年】
号泣する準備はできていた
                             新潮文庫
               江國 香織  著
表題作の「号泣する準備はできていた」他12編からなる短編集です。
初版は、2004年ですが江國さん40歳のときの作品です。人は40歳の誕生日を過ぎて今日から40歳とはいっても昨日の自分と変わるところはないのですが、20歳、30歳、40歳と、やはり気持ちの中には区切りというものが生じるし、年齢を重ねるとともにその区切りの仕方での心の変化はあると思います。やはり20歳のときと40歳のときとでは大きな違いがあると思います。
女性作家の皆さんのエッセイを含めた作品を読んでいると、この区切りを意識したものを読むことができますが、ある意味、この作品も江國さんの心情が出ているのではないかと想います。もちろん小説ですから江國さんご自身のことを書いているわけではありませんが、いろいろな短編中に出てくる女性たちを通して江國さんの心の中が出ているのではないでしょうか?作品中の主人公は架空の女性ですが、もし同じ世代の女性が読めばその心情が伝わってくるし自分を見つめることにもつながると思います。
ボールを強く投げると、そのボールは放物線を描いて飛んでいく。
ボールがその放物線の一番高いところに行ったその瞬間、たぶんボールは無重力状態になるのではないかな?
人の人生にもこの放物線があるような気がする。
人生今は70年。35歳過ぎがこの放物線の一番上かな?
そのとき、心が瞬間無重力状態になるのかもしれない。空っぽというのではないけど、なんか過去と未来に向けた狭間としての心の位置。この心の中には、いろいろなものがあり、いろいろな女性のこの無重力な心を描いているよう。。。。
40歳は、この放物線の頂上を越えて少し下降するGを感じはじめます。
もう二度とその放物線という人生の頂上には帰れないというむないさ。言葉は悪いかもしれませんが「おばさん」化。過去の恋愛の思い出にそして自身の肉体の美しさの思い出に今を生きる。その思い出といっても老人が持つような遠い過去の思い出ではない。ほんの5年ほどのつい最近の自分の思い出なのです。そこにむなしさも切実さがある。
こう書くと、「私は精神的にもそんな年ではないわ。人生これからよ!」と怒られてしまうかも知れない。僕も40歳代というのはまだ若いと思うし人生これからだと思います。でも、だからこそその気持ちと現実の生活との間でもがくのかもしれません。そのもがく女性もまたこの作品中の女性なのです。男も女も同じですが、実際40歳ころになるとこれまでの人生の中で作ってきたものがある程度の線で結論が出てそのときのさまざまな生活が出来上がります。その中で100%幸せだという人間はいない。このままでよいのか、なぜ今の自分がここにいるの?と考えることもあるでしょう。
だから作品中の女性たちはもがくのです。
その中で作品中にあるようなある面から見れば「いやな女」、「疲れる女」の心が見えてくるのだと思います。
この作品中に出てくる女性たちは幸せを感じていない。あるいは自分は幸せなのだと自分に言い聞かせてもいる。
夫婦仲もよくはない。でも、決定的には離婚もしていない。
プライド?
夫や家族のために。。。。
夫の母親のために。。。
夫の実家のために。。。。
自分がいやな女にならないために。。。。
ちょっとした心の揺れが見事に描かれています。
孤高の人という言葉があるが、プライドというのは、自分自身の心の中を見つめるままに生きれば、それは本来のプライドとなる。ここに本来の孤独はないだろう。
しかし、自分の心をごまかしているならそのプライドからは孤独が生まれる。
ごまかしているにしてもうまくこの世を渡っていれば孤独ではないような気もするが、どこか心は落ち着かない。結局は孤独とは、自分を見つめる自分の心の中にあるのである。
しかし僕のような凡人は、孤高の人のようにはいかない。
この作品の中に出てくる女性たちもそうなのだろう。。。。
そこに読者は自分を見るのではないでしょうか?。
それぞれの短編に出てくる女性たちをどう見るのかとなると、いろいろな見方が出てくるのでは?
哀れのようにも見えるが、意地でも自分を捨てないとも見ることができるし、心の動きは複雑です。
それぞれの短編に登場した女性たちがどこに向かっていくのか。。。。
登場する女性たちが幸せな状態ではないとしても、最悪の状態を背負っているわけでもない。毎日の生活において、妻であり、嫁であり、もちろん一人の女性(人間)であるわけですが、この何気ない生活の中で揺れ動く心です。夫婦間や家庭内に大きな亀裂を生むような事件が起きているわけでもない中、まさに放物線の頂上においての無重力のような心がそこにあるのではないでしょうか?そこから下降していく一人の女性の心。

「ベーコンとアンチョビの完熟トマトソーススパゲッティー」
冷凍食品です。
新発売かな?
僕の好きな冷凍食品の「ソテーナポリタン」の姉妹品です。ママーのスパゲッティーなのですがおいしくてファンです。その姉妹品にアンチョビ風味が出たなんて!アンチョビの好きな僕としてはうれしい。
もう少しアンチョビの風味が強いといいのですが、まあいいでしょう。。。うんうん
値段は高めですが、食べた感じはイタリアンレストランと変わりありません。たしかに具の野菜などは冷凍という限界はありますが。。。。
冷凍食品は冷凍するのでいろいろな保存料は入れなくてもいいのか?そういう意味でも安心ですし、麺というのは冷凍になっているとそのおいしさも残せますね。
また昼飯の簡単メニューが増えた。

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】
東京に雪が降りました。午後から淡雪は解けて日がさしてきました。
寒いですが出窓の花は元気に咲いています。
胡蝶蘭、デンドロビューム。。。。
僕が植物の育て方に詳しいなら立派な花が咲いたことでしょう。
それでも花はけなげに一生懸命咲いています。
胡蝶蘭は買ってきて去年が初めての植え替えでした。一応調べて植え替えたのですが、やはり花の数が少ないし、売っている花のように花がこっちを向いては咲いてくれません。デンドロビュームは、もう4年ぐらいになるかな。植え替えもしましたがやはりいまいちぱっとしない咲き方です。
花も育てる人によってその品格が出るのでしょうか。。。それでも満開!!花たちのけなげさに感謝です。
ミニバラにつぼみが出てきました。羽衣ジャスミンがつぼみを膨らませてきました。アマリリスがたまねぎのような大きな球根から葉っぱが4枚!
夏が来るとベランダがジャングル状態に。。。。

医者などに行き待合室でよく科学雑誌を読みます。広大な宇宙や微小な素粒子の世界、さまざまな目に見える自然界の仕組み、生命の不思議。新たな発見や理論が紹介されていたりします。
科学の発達は加速度を持って進んでいるような気がしますが、その原動力は何かを考えました。今の世の中ですから金儲けもあるでしょうが、人間は名誉や純粋な好奇心などから新たな理論や発見、実験を通じた実証を進めますが、それは今現在の理論や不思議の中にある矛盾が原動力なのではないでしょうか?一つの矛盾や実験結果がある。しかしよく考え見たりするとそこには矛盾がある。おかしいなぁ。。。。と考えること、それは矛盾を見つめることではないでしょうか?常識と新たなものが矛盾をしている。だからその矛盾をどう解釈して解決していくか。この矛盾を解決していく過程が発展ではないか。
この矛盾を解決していくことが発展の原動力とするならば、それは科学の発展だけではありません。音楽や絵のようなものの発展は一見矛盾の解決からとは見えませんが、音楽や絵も人が書いているわけですし、その人はある時代の社会に生きてさまざまな矛盾の中に生きている。その精神面からの矛盾が芸術としての音楽や絵を発展させると見てもいいのではないでしょうか。詩や文学といった芸術はその典型ですね。
電化製品や車などの生活上の必需品も食料もエネルギーもさまざまな矛盾を解決しないでは発達はしません。もちろん政治もそうでしょう。
人間の営みは、その時代によって大様の欲望から発展をしたり、今の時代なら金儲けから発展をしているように見えますが、この発展する現象面の違いはその時代によりますが、これ自体が社会の発展でしょうし、今や一部の人間の欲望からの発展の矛盾から人類すべての欲望をどう捉えるかという時代に入りました。これ自体が矛盾の解決となっています。ですから現象面での発達自体がその原動力としての矛盾があるわけです。
そもそも、人間の営み事態が自然界の中にあるわけでして、この自然界自体の中にある進化や突然変異も長い時間をかけた中の進化であり、生存競争なわけです。やはり自然界自体が矛盾を解決しながらある形を作り出していると思います。もちろん生存競争などという自然淘汰から人間は解放されて共存しながらの発展をもてるようになっています。
このように矛盾が発展の原動力となるということは、その矛盾を解決していく中だけに未来の自由があるということができます。
この矛盾の解決の方法はもちろん右往左往しながら時には失敗をしたり誤っていたりもしますが、それは矛盾の拡大となりその解決を新たな方法で考え行うでしょう。この過程こそが自由なのではないでしょうか?
人は一人ひとりが自由を持ちます。自由に行動しているように見えます。しかし一人の人間が自由であるためには、他の人間の労働の成果を必要とします。交通やおいしい食事、きれいな洋服や映画。。。。すべてこの人の労働の成果の中において個人の自由は保障されます。その自由に行動する一人の人間自体がまた労働の成果を他の人の自由の保障とします。このような関係をスムーズにより労力を要しないように行う中にすべての人の自由は拡大していくでしょう。政治はもちろん、科学や文化の発展が求められるわけです。
矛盾と自由。。。なんだか相反したもののような気がしますが、たしかに相反しています。相反するものの中に自由が発達するということは、ある無限に遠くにある到達点に向かって一歩一歩矛盾を解決していくと過程そのものの中に自由があるということではないでしょうか?矛盾を感じることそれ自体が自由なわけです。。。。
自由を楽しみましょう。しかし真に自分の労働が他の人の自由に結びつき、それがまた自分の自由に結びつくという合理的なシステムを発展の中に見つめましょう。

【2011年】ツイッターつぶやき
また今日も放射能の単位や測定方法の違いや空気中の放射線量は、地上に降りている線量なのか空気中に漂う放射性微粒子による線量なのかなどなど。。。ネットで調べていたらもうこんな時間に。
わからないことばかりですなぁ。。。。
国などは安全というが、一方では危険性も指摘。。。
なおさら本当のことというものがわかりにくくなります。

【2012年】ツイッターつぶやき
こちらの記事を読むと、先日も書きましたが政府は大飯原発はその安全性と必要性(電力不足からの)で福井を説得しようとする。そこに民主党としては、仙谷由人政調会長代行が、「原発全停止なら、日本が集団自殺するようなものになる」と発言。大飯原発以外の原発の再稼働を進めるということでしょう。自民党の谷垣総裁は、再稼働について、16日、地元の理解が前提としたうえで、「私個人としては、再稼働を行わなければ、日本経済の混乱や、いろいろな不都合な問題が起こるだろうと」と。そして当初は反原発のようにも見えた大阪橋下市長も政府の決め方に異議はあるが「必要があれば、安全性が不十分であると説明したうえで、再稼働を決めることもある」と。
政府に対する民主党・自民党・そして次の総選挙で影響力があるだろうとされる橋本市長。。。。この対立軸は大飯原発に限った議論(将来的な他の原発は明らかにされないが)と、それでは足りないのですべての原発の再稼働が必要だ、あるいは不安全な面はあっても公民に示して再稼働をさせるべきという積極的な推進派の攻勢が強くなったということでしょう。
しかし確かに少数派になりつつある脱原発ですが、推進派の攻勢自体には矛盾がありますから脱原発の様々な視点を統合・結集するような論理体系(政治的な力がそれに加わればなおよいのですが)が必要になっているということです。統一戦線ですねぇ。。。脱原発を含めた国民生活重視の。

【2013年】ツイッターつぶやき
こちらに「生活保護費でパチンコ・・・・・論外。条例より弱者にNOを」という記事があった。
「そもそも生活保護は、高齢や病気、ケガなどで自活できない場合を除き、仕事が見つかるまでの緊急避難のセーフティーネットのはずである。健常者なら、一刻も早く脱すべき状態という意識を持つべきものなのだ。そこで「ささやかな楽しみ」を追求するなど、言語道断の話である。」
「経済拡大期には、ある程度の怠慢やルーズさも大目に見られたが、そんな時代は遠い昔のものだ。誰もがまず、真剣に自助努力しなければ、社会システム全体がガタつく時代に入っている。その認識をしっかり持ちたい。」
       (上記リンクページより引用)
生活保護法の趣旨とはなんだろうか?
「生活保護制度は、生活に困窮する方に対し、その困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、自立を助長することを目的としています。」
       (厚労省「生活保護制度」より引用)
生活保護制度は、「生活に困窮する方に対し」て必要な保護を行うことです。ですから、高齢や病気などの理由と健常者とを区別しないで平等に保護を行う制度です。そしてこの生活保護からは一刻も早く抜け出して(少し表現が変かな)自立できる生活を行うこともやはり平等に求められます。
しかしこの生活保護を受けている間は「「ささやかな楽しみ」を追求するなど、言語道断の話」だろうか?このささやかな楽しみに憲法でも保障された「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」は含まれないだろうか?たしかにパチンコなどのギャンブルはよくない部分があるでしょう。しかしささやかな楽しみとしてのパチンコというものを否定してそれを住民が監視するように義務化するなどといったことが許されるだろうか?犯罪ではない限り個人監視は憲法などで許されるだろうか?
この記事では、なぜ生活保護者がパチンコをしてはならないかを「ギャンブルなどに使われてはたまったものではない。それが納税者=保護者のごく当たり前の感情」(同ページより引用)たしかに市民感情はるでしょうが、その感情以上のはっきりしたものがこの記事にはあるのでしょうか?生活保護の在り方を考えることは人の命にも関連するものです。ある芸能人の関連報道から生活保護受給が厳しくなったという意見も出ています。この中で真に生活保護を必要とする方が受給できなかったらどうでしょうか?生活保護の在り方を考える場合は「感情」にうったえた中で意見の多数派を形成することは間違いです(最近はこのような感情にうったえたもので国民を動かそうとする政治や言論が出ているような気がする)。
生活保護というものはないほうがいいのです。しかし社会は生活保護を必要とする人々を増やし続けている。生活保護受給は個人的なものではないのです。社会の豊かさが国民末端にまで及べば生活保護は縮小するでしょう。という事は今の社会は豊かさが国民の末端にまで及ばない格差社会あるいは弱者切り捨て者気にシステム上移行しているという事です。このように見ると、「経済拡大期には、ある程度の怠慢やルーズさも大目に見られたが」ではなくて経済がある程度発展してそのパイの分配が公正に行われれば生活保護自体が縮小するのです。そして生活保護の増減が社会のシステム上の問題とするなら生活保護から抜け出すには「真剣に自助努力」だけでできることでしょうか?たしかに不正受給の問題もありそのような人もいるわけですが、それを正すことも大切ですが、一部の人のことで全体を見てはならないでしょう。社会の中での問題は「真剣に自助努力」すれば解決するといった言葉はまやかしなのです。国民はサボっていたりわがままだから貧困になるといった自助努力論理はそうと国民をばかにした言動と言えるでしょう。国民は「ささやかな楽しみ」など言語道断だといった国民への見方が出てくるでしょう。
この記事では
「年金でギャンブルか、などとやぼなことは言うまい。年金は現役時代に納めた保険料の対価でもある。経済的に余裕がある高齢者ほど、現役時代に懸命に働いた人でもあるのだ。余生を、自分の懐の範囲内で楽しんだところで罰は当たるまい。」
とエラそうな言い方でお許しを国民に与えてはいるが。
生活保護者の中にも生活ができるだけの賃金で働きたいと願っている人も多数でしょう。それにどのように社会が対応するか、政策や公助で

八百屋さんに皮をむいた小さな新じゃが売られていましたので買ってきました。一山300円。
一山300円。。。。。なんとなく懐かしい響きがありますね。今は商店街もさびれて一山いくらで売られているものもあまり見ることがなくなりました。
さて、新じゃがですが今夜は豚肉と炒めることにしました。
洗った新じゃがをよく水をふき取って素揚げにしておきます。ほんのり小麦色になるぐらいに香ばしく。
油をしかないフライパンで豚のバラ肉を炒めます。ある程度炒めたらスライスしたニンニクを入れて少しカリカリになるぐらい炒めます。やはりここでも香ばしく。
炒めたら素揚げした新じゃがを入れてに肉の油とニンニクの香りを新じゃがに吸い込ませます。
余分な脂を吸い取ってから、水・酒・砂糖・みりん・醤油のタレを入れて水分がなくなるまで炒めたら出来上がり。
キーワードは。。。。。。香ばしくです。

【2014年】ツイッターつぶやき
ジムまでのいつもの散歩道。
いろいろな花が咲いています。若葉もきれいです。
前から2人ばあ様が歩いてきて交差点で立ち止まった。一人のばあ様が「あたしんち、どっちかしら?」と。もう一人のばあ様が「あんたんちこっちでしょう。。。。いつも歩いているのに。」と
春も真っ盛りですなぁ。。。。。
ウォーキングマシンに乗ったら、珍しく隣に若い背のすらっとした女性が歩いていた。
歩き始めてその女性がどのくらいの速度で歩いているのか覗いてみた。
僕よりも0.2キロ早い。。。。。。
しかし100メートルを歩く歩数はどう見ても僕のほうが多い。。。。

最近ジーパンのウエストが少しゆるくなったような感じがする?気のせいかな。。。。

旧ブログの「開閉に回転」のまとめです。

2013年 4月 5日(金)「貨幣の回転と貨幣の資本への転嫁」

日銀が金融政策会合で大胆な金融政策を行うとして貨幣量の増加を言った。
これはもちろんアベノミクスでの2%のインフレでありデフレ脱却を目標とする。しかしデフレとは商品価格が下落し続けることという現象面だけなのだろうか?この現象面を見てインフレ目標も生まれたのだろうし、そのインフレを起こすためにインフレだから貨幣量を増やすと。
このような単純な問題なのだろうか?
どうも貨幣の回転という面が忘れ去られているのではないか?今の金融政策といった場合量的緩和だけでこの貨幣の回転が見えない。
貨幣量が少なくても貨幣の回転が良ければ景気は良いと判断できるでしょう。いくら貨幣量を増やしてもその貨幣が回転しなければ景気はよくならない。こう見るとむしろ景気回復には貨幣の回転率をどう高めるかの政策が必要なのではないか。
デフレについては、生産性の向上により商品価値は低下するわけですから物価が低下すること自体は経済の法則として受け止めるべきで、むしろ経済の発展なわけです。そして国民がより安く商品を手に入れられるならそれは社会自体の発展でしょう。しかしなぜこの商品価値の低下からの商品価格の下落がデフレとして問題視をされるのか?それは企業の利潤率の低下を起こすからです。この利潤率を維持しようとする中にあほらしいインフレ目標という悪性インフレが起きるわけです。
ですから今はデフレ克服と経済の再生を別に考えるべきで、経済の再生によりインフレ傾向が起きれば自動的にデフレも克服されるのです。
貨幣の回転は消費量を増大させますからこの回転率を上げる政策が経済の再生につながるわけです。
この貨幣の回転率は消費市場における現象ですが、同時に資本主義はこの貨幣が資本へ転嫁しなければ成り立たない社会なのです。貨幣が所費消費を高めるために回転するばかりではなくて貨幣が資本へ転嫁することによる貨幣の回転でなければならないわけです。消費としての貨幣の回転と生産という面での貨幣の回転が必要です。
今現在のアベノミクスあるいは日銀の量的緩和がこの両面で見た貨幣の回転を促しているかといえばそうではないでしょう。たしかに株式の上昇とともに高級な商品の売り上げが伸びているという現象は出ているようですが、このようなバブル的な貨幣の回転では経済全体の下肺貨幣の回転率を高めることはできない。貨幣の資本への転嫁例えば設備投資ですがこの面の貨幣の回転率が高まり、同時に消費面での貨幣の回転が高まるというには大衆消費財の商品が動かなければならないのです。
日銀の資金は株価を上昇させるためでは、それが消費における貨幣の回転率を自動的に上げるとは限らないのが資本主義です。
金融商品や国債あるいは海外に貨幣が流れていくだけでは経済の再生はないでしょうし、そこから経済発展の副産物としてのインフレもなく、もちろんデフレからの脱却もなくなる。日銀資金という新たな資金としての貨幣の回転が国内市場においてゼロ状態になってしまいます。
国民に残るのは円安からの悪性インフレ(経済発展なきただの物価上昇)と国債の更なる発行という借金の増大です。そして経済の再生がない中にあらゆる矛盾のしわ寄せ(たとえば消費増税や雇用のさらなる不安定化)が襲ってくるだけです。もちろんこれはさらなる拡大されるデフレとして現れて銀行や大企業の存続に大きな障害となっていくことでしょう。

2013年 5月11日(土)2「やはり貨幣の回転なのだ」

すみません。またツイッターの転載から。
駅からの帰り道、商店街を歩きコンビニの前に来た。学生風の若い男がコンビニの前を通り過ぎる。雨である。その若い男はコンビニでビニール傘も買わずに濡れながら駅に向かった。濡れながら歩くのがファッション?それとも500円の傘を買うのがもったいない?駅に行けば電車に乗って出かける?
でも、500円というビニール傘は、学生にとっては買うにはもったいない額かもしれない。歩きながら勝手にこう想像したとき。。。。「これがデフレってやつかな?」と思った。500円という額が使うにしてはもったいない額になっていく。バイトなら1時間弱の時間給。
雨の日は2000円の合成皮革の靴にかぎる。。。。雨が染み込みにくくていい。僕は自分の雨にぬれる靴を見つめた。そういえば高い靴といえば7000円ぐらいだなぁ。僕にとっては。。。。。「これがデフレってやつかな?」とまた靴を見つめた。
物の値段が下がり続ける。ほんとは僕たちはそれで豊かになれるはず。しかし現実は500円のビニール傘や7000円の靴を買い惜しむようになっていく社会。物は売れなくなるし安いものしか買わない。株価が上がっているとさ♪・・・・高級品が急に売れるそうだ。素晴らしいリフレ経済だ。

ある商品販売の企業が売り上げを上げたいときには何をすればいいか?こう問われたとき政治やある種の経済学者は従業員の賃金を下げたり一人あたりの労働をきつくして余った従業員を解雇すればいい。商品の販売競争には有利だし、利益は上がると。。。。しかし商品が売れない。そうだ市場に貨幣量が足りないから売ろうにも売れないのだ。貨幣量を増やせばいい!!と。。。。デフレ脱却!!
これがアベノミクスの金融政策と労働の規制緩和である。
しかし結局は増やされた貨幣は円安での輸出産業の利益と株高による利益。そして株高の中の配当の上昇による不労所得へ。貨幣量は確かに足りない。それは勤労国民の懐にあるべき貨幣量が足りないのである。この中で格差の拡大も起きるわけで長く続いた賃下げによりデフレは起きた。
一方には貨幣が蓄積されていき、一方には貨幣の不足が生じる。
この中で貨幣量を多くしてもまた蓄積される貨幣量が増えるだけだろう。
こう見るとデフレとは貨幣量の不足ではなくて市場に出回る貨幣の回転が鈍くなっているという事なのである。
上に書いた商品販売の企業が利益を増やす方策は、たとえなその企業の1年の投下資本(製造企業からの仕入れ)が1億円だったとする。そしてそこから得る利益を2千万円とする。1億2千万円を得てまた次の年に1億円を投下する。ここでの利益は2千万円だけである。1億円は年に1回転するだけである。しかしここで1億円の貨幣が2回転したらどうだろうか?1億円が年に2回転するのだから年の利益は4千万円となる。もちろん製造業も回転が上がる。ここでの数字はすべて極端な数字ですが、日本全体でこの貨幣の回転が上がる傾向を示したときに経済は好転をして好景気となる。
しかしこの貨幣の回転には労働者が労働力(従業員)であると同時に消費者であることを忘れてはならないだろう。消費者としての労働者の懐に入る貨幣量は賃金高である。ですからこの賃金高が適正でなければ貨幣の回転はよくならないのである。日本はこの賃金高を減らし続けたわけですから好景気には戻れなかったのは当たり前なのです。もちろん国の税収と社会保障がここに加わるわけで、ここで赤字続きで社会保障を切り下げればやはりデフレは必然なのです。
今、早急に行われなければならないのは、この消費者としての労働者の懐に貨幣を増やすという貨幣の回転が問題となります。しかし企業はここをやらない。開き直って日本の市場から逃げて海外に販路を求める。こういった社会では日本の未来はないでしょう。経済はもちろん政治の状態も国民生活を統治の問題として貧困化を進める。
これを辞めさせるために様々な国民運動が必要になるでしょう。それは政策的な議論です。もちろんそこにはストライキなどの穏健な活動やそこに結び付いた市民運動が必要なのです。なかなか難しいのですが、今の実態や今後への不安から国民生活向上の方向が政治でも広まっていくでしょう。

2013年 7月30日(火)「量的緩和よりも貨幣の回転」

日銀総裁の「三つの好転」の話もあるが、株価や高額商品の消費の伸び、円安による物価高などに依拠しても経済は好転しないでしょう。経済の好転には賃上げが必要というのは政府も日銀も認めているところだが、この賃上げについては具体的な政策や金融政策にはなくて将来には賃上げもあり得るだろうという期待としての先延ばしになっている。
このような中で日銀はさらに長期にわたるかもしれない量的緩和を行うでしょう。
しかし消費増税の条件でもある経済の回復もままならないところで政府は消費増税の時期・方法に惑いが出ている。
結局は量的緩和ではなくて求められているのは貨幣の回転なのである。
貨幣の回転にはどうしても消費の伸びや設備投資などが必要だろう。そこに貨幣が回れば貨幣の回転が早まり景気回復もあり得るのである。この景気の回復字に貨幣量が足りなくなってはじめてかへ量の増加が求められてそれはインフレ傾向となる。
消費税率はそのまにしてこの間のアベノミクスでの企業の暴利を賃金にも消費税を導入し一部を労働者の益税にする(零細企業などには還元)ことを導入し還元させるべき

2013年 9月 6日(金)「貨幣の回転とその方向」

商品の価値はその時代の生産性によって決まる。機械化やロボットというもので商品がより多く生産されるならその商品の価値は下がる。この商品価値が基準となり経済は動く。
生産性は日々向上して商品の価値を下げ続けるわけですが、それは市場での価格も規定するわけです。商品価格も下がっていく。
企業利益は一つの商品価値、市場においては価格が下がれば同じ商品量を生産しているなら利潤は低下するでしょう。おなじ利潤を維持するには、たとえば商品価値が10%下がったなら10%多くの商品を市場で売らねばならない。しかし企業にしてみれば10%多く商品を売っているのになぜもうけは同じなんだとなる。ましてや市場でその商品量が過剰なとき10%の商品が過剰となればもうけが少なくなると感じる。
この商品の過剰は市場から見た見た目の過剰であり、その商品を消費する側に貨幣量が足りなくてそのためにその消費を購入できないならばその商品は本来過剰ではないということになる。
このギャップを大きくするのが賃金をコストとみなして賃下げを行うという経済法則に反した企業自ら作り出すものである。商品が売れないなら企業間競争は値下げ競争となりさらに儲けの幅を狭くしていくだろう。このことによる商品の市場における価格の下落傾向がデフレ圧力となる。生産性が極度に発達した社会においてのデフレとはこのような傾向を示すのではないか?
これは貨幣量総体が不足しているように市場では見えてくる。
中央銀行は貨幣量を増やせばこのデフレを克服できると勘違いをする。社会の金融市場は高度化していて増やされた貨幣はその金融市場に流れる。それが例えば株価に出たときには企業は利益が上がりデフレがなくなったと勘違いをする。しかし現実の商品量の流れに何の変化もないし思ったように商品価格は上がらない。貨幣価値の低下による輸入材の値上がりによる商品価格の値上がりに物価上昇という幻想を見る。ここから企業は抜け出すことができなくなるのである。量的緩和という金融政策の出口は見えなくなる。更なる貨幣量の増加。
この矛盾はデフレからの脱却を表面的な商品価格の変化として見たり、貨幣量の増加という中での貨幣価値を忘れた物価としてしか見ないところにある。
今必要なのは貨幣量ではなくて貨幣の回転なのである。もちろん貨幣の回転も金融市場で流れていれば回転数が高まっていると見えるだろうが、あるいは富裕層での消費の拡大に貨幣の回転を見ることもできるだろうが、それは本来の貨幣の回転ではない。貨幣の回転にはその方向が重要なわけです。特に労働賃金や社会的弱者の方向に貨幣が回転しなくては本来の回転の意義がなくなってしまう。労働賃金などに貨幣が回転するならば商店やスーパーなど大衆消費財を販売する商業などに貨幣は回転する。それらは商品を製造する製造業へ回転する。この中で税として特に消費税が必要というならばその消費税として国に貨幣は回転する。このの税収は社会資本の整備となりあるいは社会保障の拡充により企業にまた回転するだろう。
結論は、貨幣量の問題だけではなくて貨幣の回転とその方向なのである。

2013年10月31日(木)「貨幣の回転」
日銀は現在の金融緩和を維持すると今日発表しましたが、引き続き「マネタリーベース(資金供給量)を年60兆~70兆円に相当するペースで増やす方針を維持」(左記リンクページより引用)することになる。
量的緩和での経済の立て直しが現実に経済を活性化させているのか?
アメリカも経済の好調さを強調しますが、いざ量的感をの縮小から出口論になるとその誇張と言われる経済も傾きかねない状況でしょう。日本も同じ状況にあると思います。経済の好調さというものが国民生活にも表れて消費の拡大とならなければならないのですが、アメリカも日本も好調さは株をはじめ金融市場でのものであり、消費が進んだとしてもその株や金融からの利益を受けた人々の高級品の消費に終わっているのではないでしょうか。このような好調さというのは実体経済からの経済の立て直しにはなっていないということを示し、そこから出口論もとん挫しているものと思います。
量的緩和政策は、市場における貨幣量を増加させることにより消費や設備投資を促すものと思いますが、しかしその資金は株や金融そして富裕層に回るだけです。ここで問われるのがこの資金が同市場でどのように回転をしてどのようにその回転の速度を上げるかすなわち回転数を上げるかにかかっているわけです。ですからアメリカでは雇用統計に敏感になり、日本は賃上げに敏感にならざるを得ないわけです。
こう考えると今必要なのはある程度の貨幣量の増加が必要だとしても(今は貨幣量は余っていると思うのですが)その貨幣が市場の中で同回転するかが重要なわけです。
少し極端ですが、例えばある家電量販店が1年に10億円仕入れて12億円売上を上げて2億円の利益を得たとします。これが貨幣・資本の回転となり1年間に1回転となります。それが2回転したらどうでしょう。10億円の貨幣・資本が2回転したなら20億円の貨幣・資本が動いたと同じ効果となります。企業利益も4億円に。同じ貨幣量であってもその回転が上がれば貨幣量の増加と同じ効果をもたらすということです。二倍の2回転というのは極端かもしれませんが、例えば1年で1回転したものを10ヶ月で1回転できればこれも回転数の増加でしょう。
このような貨幣・資本の回転数の増加は消費の増加を意味しています。我慢をして家電を買わなかった人々が買うようになるような消費の拡大です。国民の多くが賃金で生活をして消費をしているのですからどうしても賃上げが必要になるでしょう。日本は他の先進国と比べてこれまでの失われた20年の間に賃下げを行ってしまった。これを元に戻していくような賃上げが必要なのです。同時に消費が進まなければ企業の設備投資も進みません。これらの減少は国の税収をも減らすでしょう。
国・労働者そして消費にかかわりを持つサービス業や交通・運輸などなども含めた企業・労働者の賃金(ここでは農林業は考えないようにしていますが当然消費の拡大はこのようなところにも貨幣は回転は増えます)このような社会が構成するところに貨幣が回転しなくてはならないということです。この回転数を増加させることが必要です。
しかし政府も日銀も量的緩和の中でこの貨幣と資本の回転が「上がるはずだ」「上げることが大切だ」で終わっています。そしてまた量的緩和の継続です。
これでは出口は見えないで日銀が抱える国債もいつかは限界に来るでしょう。限界に至って初めて量的感をの出口とするならばそれは株や金融のバブルの崩壊となるでしょう。バブルやインフレというのもデフレと同じく一つの経済の混乱なのです。
中国は成長を維持しながら内需拡大を行おうとしています。バブルがはじけてしまう前に内需に向かう。アメリカも日本も内需拡大に向かうべきなのです。その中で穏やかなバブルではないデフレからの脱却となるでしょうし景気の拡大にもつながります。穏やかな成長戦略です。これが貨幣・資本の回転数を増加させるでしょう。

生産性が向上すると労働時間の短縮の条件となります。
より多くの商品がより少ない労働で生産をされるのですから。
一方で民芸というものもあり生活に密着した文化がありますが、その文化というのは人の労働そのものから生まれます。文化は生きるために必要な労働から解放された人の営みが条件でしょう。
今の社会は一方における過度の労働と失業がセットとなって現れる社会です。この矛盾を解決することにより人は労働時間の短縮と生活の時間の増大を得ることができます。これが経済における法則性なのです。
これからも生産性は科学の発達の中で進むでしょう。そうならば人はより豊かな生活時間を得ることができます。
その生活時間に料理やガーデニングなどなどの時間を持つことができ、芸術を生み出したりもできます。今はその技術が耐えようとしている職人技も伝承される余裕が生まれるでしょうし、人の手で作ったものの価値が見直されるでしょう。機械化されて生産された物と手作りの文化的な物の融合が生活を豊かにします。
経済法則はこのような金銭面だけでない心の豊かさも生み出そうとしているのです。これを阻止するような経済政策は矛盾を広げる結果となるのです。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
gooお題「いい笑顔の芸能人といえば?」
笑顔のすてきな芸能人というのはたくさんいらっしゃると思いますが、僕たちはその笑顔はテレビなどを通してみていますね。「営業中の笑顔」です。
ドラマなどでの笑顔はそれはまったくの演技ですし、対談番組にしてもテレビを意識した笑顔。
こういっては野暮な意見でしょうが、素敵な笑顔の芸能人はわからないということですね。
しかし、そうはいってもテレビ画面に映る女優さんの笑顔にはいやされますなぁ。。。。。
今、一番癒されているのが。。。。毎朝見る岸恵子さんの笑顔です。
美人の笑顔には少しツンとしたものを感じますが、岸恵子さんの笑顔はもちろん美人の笑顔なのですが、どこかかわいらしさのある笑顔ですからつんとしたものを感じない。昔から好きでした。。。。
毎朝岸恵子さんを見つめています♪(笑)
営業の笑顔といっても、その笑顔にはその人が出ると思います。
笑顔だけではありませんが、顔にはその人が現れ、嘘を言っていればそれらしき顔つきになる。
案外政治家を見ていると強く感じるんです。
いい顔をした政治家はやはり良い政治家の要素を持つかも?

【2018年】ツイッターつぶやき
人参とごぼうを千切りにして塩コショウでシリシリ。
中華鍋に胡麻油をしいて一度茹でこぼした糸こんにゃく、桜エビをさっと炒めてそこに豚のひき肉を入れてさらに炒めます。ここに先ほどのニンジンとごぼうのシリシリを入れ、鶏ガラスープ、塩コショウ、砂糖みりん、酒、しょうゆで味付けをします。そこに2時間ほど水抜きをした木綿豆腐をちぎって入れ、2センチほどに切ったニラと薄切りにした長ネギを入れます。
さっと火が通ったら出来上がり。
美味しかったです。
ところで、シリシリとチャンプルの違いは。。。。。アハハハ

【2019年】ツイッターつぶやき
ジャンル「運転・道路」初めてかも。。。。。
旅行やドライブで安心して遠出ができるのもカーナビのおかげです。行動範囲が広がりますね。
しかしカーナビの進化には驚いています。
初めてのカーナビは、旅行で関西に行こうと思うと関西の地図ソフトを買わなければならなかった。そして車から速度検知もできなかったので、タイヤの4分の1ほどを磁化してそれを拾って距離計さんでした。山道を登るととんでもないところを通ったりしていました。
あれから何年だろう。。。。今のカーナビは運転をするには十分な制度と情報量があります。
とは言ってもやはりとんでもない細い道を案内したり、渋滞情報もあまりあてになりませんね。人工知能や5Gというものがはじまるとまたとんでもないカーナビが現れるかもしれませんね。地図ソフトがまだ不便で地図を更新しないと新しい道路が使えない。これも完ぺきに改善されるかもしれない。人工知能は僕が好きなところの情報を集めて「近くに有名なお寺があるよ」と教えてくれたり、店も教えてくれるかも。宿も僕の財布の中身を熟知していて安いところを教えてくれるかも。こんなことより想像もつかないものになるでしょう。昔のカーナビでイライラしていた僕が想像もできない機能が今あるように。

14日から三泊で旅行に行ってきました。
倉敷から姫路、明石、神戸へと。。。。。
日本のマチュピチュといわれる竹田城にも。
姫路城のスケールに圧倒されて、明石のタコ焼きに感動して。。。。
桜は散りはじめてましたが、どこへ行っても桜が見えました。もうつつじの季節ですね。
山笑う。。。。。

【2020年】ツイッターつぶやき
今日は公園を散歩しました。
行ってみるとお子さん連れの家族がたくさんいました。
公園ならば人と人との濃密な接触がなさそうなので出かけますが、でも、実際は案外濃密な接触をしているのかもしれません。男の僕はご近所の人と出会ってもそうは話し込むこともなく黙々と散歩をしていますが、お子さん連れのママさんは5人ほど近寄って集まりずっとしゃべっている。子供たちは鬼ごっこなどをして捕まえると抱き合ってふざけている。普段はこのような風景はのんびりしていて好きなんですが、コロナ騒ぎの中ですからなぁ。。。。
散歩が終わってスーパーに買い物。明日は土曜日でまた混雑しそうなので3日分の食糧を買い出しに行きました。平日はすいているし、レジも最近は離れて並ぶ工夫をしてレジには透明なビニールカーテンが。だんだんとスーパーも感染予防の取組を始めたようです。
そういえば今日からアベノマスクの配布が始まりますね。マスクは評判が悪いですが、政府もやっと一人一人に10万円を認め、自治体によってはドライブスルーなどを導入してコロナウィルスの検査も増やすようです。世界からはもう手遅れだと指摘もされる中、政府も重い腰を上げそうです。

手作りマスクをいただきました。
可愛すぎて僕には、どうも・・・・・アベノマスクでも使います。

【2021年】ツイッターつぶやき
菅首相とバイデン大統領との首脳会談が行われました。
互いにファーストネームで呼び合うというのも「ロン・ヤス」からの日米の信頼関係の象徴としてありましたが今回もファーストネームで呼び合うことを海外に示しました。トランプ政権では日米同盟をさらに深める軍事同盟化に向かいましたが、どちらかといえば対中国に対しては経済的対立として現れました。しかし今回は台湾に対する発言を日本側から行い対中国への軍事的発言ともとらえられるものが出てきました。アメリカは対中国の包囲網強化を言ってきましたから日本も底に組と困れたのでしょう。
とはいえ対中国に対しては平和的な方法によることが強調されましたし、日本の中国との経済的互恵関係を崩すわけにはいかないでしょうから、急速に緊張が高まることはないと思います。
しかし日本の経済競争力は落ちてきていますから互恵関係も依存に向かわざるを得ないかもしれません。
アメリカとの経済関係は強固なのですが、アメリカの保護主義には日本も損失を受けていますから経済関係としての対アメリカと対中国の関係も微妙に変化していくでしょう。
ただし日本の内政は改憲に向かっていますから日本側からアメリカの銀磁力軍事力に頼りながら日本の軍事力の強化体制は進みますね。この日本の内政の方が危険なのかもしれません。

【2022年】ツイッターつぶやき
1月の初めに感染拡大傾向が出てから3カ月が過ぎもうすぐ4カ月です。
今後どのくらい減少していくのかわかりませんが、すでに地方のほうでは感染の再拡大傾向が出ているとも言われています。
なぜ新規感染者数が下げ止まっているのか、それもなんで高い数字で下げ止まっているのか。
新たな変異株が出てきたとか、ワクチンの接種率が低いからなどいろいろ言われていますが、緊急事態宣言はすでに死語になり、マンボウも解除されて感染拡大防止を国民の自己管理に移してしまっていますし、検査自体も濃厚接触の定義も変化しています。5月の連休は出かける人が多くなるようですし、変異株の感染拡大も急激になるかもしれません。

【2023年】ツイッターつぶやき
この間強引ともいえる原発の再稼働の動きがある。廃炉40年を60年にして老朽化した原発も再稼働をしようとしている。これには現思慮規制委員化の厳しい審査があり再稼働を中止することもあった。
政府はこの規制の中で再稼働を進めるために法改正を進めているようです。
原則40年最長60年という規制をなくし、原子力規制委員会から電力会社に運転期間の規定を移す。
これでは電力会社の暴走を許すことになるでしょう。
これに対して福島原発事故の教訓を生かしていないと学者や専門家が反対の動きを示している。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「4月16日という日」 | トップ | 池に浮かぶ月2220【4月... »

コメントを投稿

「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)」カテゴリの最新記事