千葉県で。
英会話講師をしていたイギリス人女性が日本人男性に殺害されるという事件が起こった。
犯人はいまだ逃走中というが、残されたご家族の気持ちを思うと、胸が痛んでならない。
また、この事件でイギリス内での、日本という国に対する感情の悪化も気にかかる。
(在英の日本人の方が嫌な目に遭われたりしませんよう)
自国の、未来ある若い女性が理由もわからず他国の人間に殺されたら、誰だって相手を憎むだろう。
『個人』と、その人間が属する『国』、またはそこで普通に暮らす多くの人が違う
とはわかっていても、人間の感情とは、そう簡単には割り切れないものだ。
現に、日本国内での報道では、すでに
「日頃から日本人男性は気持ち悪いと英会話講師たちの間で悪評」
で、あるとか、
「日本は自殺や殺人が毎日報道される異様な国と英国内で報道されている」
とか、盛んに『イギリス国内での日本へのイメージ悪化』が取り上げられている。
(日本のメディアが本当のことを報道しているとするなら)
そして、ここにもまた、報道の怖さが存在している。
娘の非業の死に遠い国から駆けつけた父親を会見に引っ張り出し、心情を語らせる残酷な日本のメディア。
わざわざイギリスまで赴き
(おそらく現地記者を使っているのだろうが、それでも「わざわざ」には変わりない)
姉や妹をカメラの前に引っ張り出し、被害者について語らせる愚かな.....メディア。
彼らは、いったいなんといって被害者の家族をカメラの前に引っ張り出すのだろう。
「あなたのお嬢さんが日本人に殺されましたがどうですか?」
「あなたの姉妹が日本人男性に殺されたことをどう思いますか?」
そう聞くのだろうか?
そして、その家族の心情を聞き出すことに何の意味があるのだろう?
興味本位で傷ついた人を引きずり出し、根掘り葉掘り様々なことを聞き出したところで、どうせ真実など報道しないくせに。
『報道の自由』という言葉は、すでにこの国では凶器にしか過ぎない。
ニュースは盛んに興味本位の取材をくり返し、垂れ流し、脚色をして煽り立てる。
週刊誌はそれに増して脚色を加え、おそらく被害者の男関係やベッドでの中のことまで書きたてるのだろう。
被害者の家族は大切な家族の一員を失った上、ここからさらに、日本人に苦しめられなければならないのだ。
『日本人代表』みたいな顔を勝手にしている恥知らずなメディアに。
そして。
考えることをしない人々は、報道を目にしながら、何の疑問も持たずに
「ご家族が可哀そうねぇ.....」
「犯人が早く捕まるといいわねぇ」
と、自分の善良さだけを見つめ、どんな風にその報道がなされるに至ったかという経緯など気に留めない。
私たち一人一人の意識のあり方、考える力のなさが、今のメディアを作り上げたともいえるのだ。
娘を失った父親に心情を聞き出す意味。
愛する婚約者を失った男性をカメラの前に引っ張り出す意味。
大切な姉妹を失った若い姉と妹に、被害者がどんな人間だったかを語らせる意味とはなんだろう?
そしてもし自分がその立場に立たされたなら.....
「カメラの前で語って下さい」
と言われ、どう感じるだろう。
もう一年ほど前になるだろうか。
ゴンザの友人が海外で殺害された。
日本でも大きく報道されたその事件に対するそのメディアの姿勢はよほど酷かったのだろう。
かつて仲の良い仲間だったゴンザがお線香をあげにそのお宅に伺ったとき。
ご両親ははじめ、ゴンザたちをメディアの人間と勘違いし、とても過敏に反応されたという。
しかし、事件直後にはあれほど騒ぎ立てたメディアも。
つい最近になってその犯人が逮捕された際には、ほんの少しだけその件に触れるだけで終わってしまった。
彼らの興味は結局、
「若い女性が海外で殺された」
「もしかしてその日本女性は軽率に男性についていったのではないか」
そこにしかなかったのだ。
嘘八百書き立てられたご両親の心の痛みはいかばかりだったろう。
娘の命を奪われたあげく、終始メディアにつけまわされ、興味本位の質問ばかりを浴びせられたご両親の心の痛みは。
そこには、軽々しく
「気の毒ねぇ」
などとは口に出来ない、悲痛な重さがある。
だから.....。
私とゴンザの願いはただひとつ。
どうか、今回の事件でも犯人がきちんと捕まりますように。
そして、一刻も早くメディアがそのご家族を追い回すことをやめますように。
英会話講師をしていたイギリス人女性が日本人男性に殺害されるという事件が起こった。
犯人はいまだ逃走中というが、残されたご家族の気持ちを思うと、胸が痛んでならない。
また、この事件でイギリス内での、日本という国に対する感情の悪化も気にかかる。
(在英の日本人の方が嫌な目に遭われたりしませんよう)
自国の、未来ある若い女性が理由もわからず他国の人間に殺されたら、誰だって相手を憎むだろう。
『個人』と、その人間が属する『国』、またはそこで普通に暮らす多くの人が違う
とはわかっていても、人間の感情とは、そう簡単には割り切れないものだ。
現に、日本国内での報道では、すでに
「日頃から日本人男性は気持ち悪いと英会話講師たちの間で悪評」
で、あるとか、
「日本は自殺や殺人が毎日報道される異様な国と英国内で報道されている」
とか、盛んに『イギリス国内での日本へのイメージ悪化』が取り上げられている。
(日本のメディアが本当のことを報道しているとするなら)
そして、ここにもまた、報道の怖さが存在している。
娘の非業の死に遠い国から駆けつけた父親を会見に引っ張り出し、心情を語らせる残酷な日本のメディア。
わざわざイギリスまで赴き
(おそらく現地記者を使っているのだろうが、それでも「わざわざ」には変わりない)
姉や妹をカメラの前に引っ張り出し、被害者について語らせる愚かな.....メディア。
彼らは、いったいなんといって被害者の家族をカメラの前に引っ張り出すのだろう。
「あなたのお嬢さんが日本人に殺されましたがどうですか?」
「あなたの姉妹が日本人男性に殺されたことをどう思いますか?」
そう聞くのだろうか?
そして、その家族の心情を聞き出すことに何の意味があるのだろう?
興味本位で傷ついた人を引きずり出し、根掘り葉掘り様々なことを聞き出したところで、どうせ真実など報道しないくせに。
『報道の自由』という言葉は、すでにこの国では凶器にしか過ぎない。
ニュースは盛んに興味本位の取材をくり返し、垂れ流し、脚色をして煽り立てる。
週刊誌はそれに増して脚色を加え、おそらく被害者の男関係やベッドでの中のことまで書きたてるのだろう。
被害者の家族は大切な家族の一員を失った上、ここからさらに、日本人に苦しめられなければならないのだ。
『日本人代表』みたいな顔を勝手にしている恥知らずなメディアに。
そして。
考えることをしない人々は、報道を目にしながら、何の疑問も持たずに
「ご家族が可哀そうねぇ.....」
「犯人が早く捕まるといいわねぇ」
と、自分の善良さだけを見つめ、どんな風にその報道がなされるに至ったかという経緯など気に留めない。
私たち一人一人の意識のあり方、考える力のなさが、今のメディアを作り上げたともいえるのだ。
娘を失った父親に心情を聞き出す意味。
愛する婚約者を失った男性をカメラの前に引っ張り出す意味。
大切な姉妹を失った若い姉と妹に、被害者がどんな人間だったかを語らせる意味とはなんだろう?
そしてもし自分がその立場に立たされたなら.....
「カメラの前で語って下さい」
と言われ、どう感じるだろう。
もう一年ほど前になるだろうか。
ゴンザの友人が海外で殺害された。
日本でも大きく報道されたその事件に対するそのメディアの姿勢はよほど酷かったのだろう。
かつて仲の良い仲間だったゴンザがお線香をあげにそのお宅に伺ったとき。
ご両親ははじめ、ゴンザたちをメディアの人間と勘違いし、とても過敏に反応されたという。
しかし、事件直後にはあれほど騒ぎ立てたメディアも。
つい最近になってその犯人が逮捕された際には、ほんの少しだけその件に触れるだけで終わってしまった。
彼らの興味は結局、
「若い女性が海外で殺された」
「もしかしてその日本女性は軽率に男性についていったのではないか」
そこにしかなかったのだ。
嘘八百書き立てられたご両親の心の痛みはいかばかりだったろう。
娘の命を奪われたあげく、終始メディアにつけまわされ、興味本位の質問ばかりを浴びせられたご両親の心の痛みは。
そこには、軽々しく
「気の毒ねぇ」
などとは口に出来ない、悲痛な重さがある。
だから.....。
私とゴンザの願いはただひとつ。
どうか、今回の事件でも犯人がきちんと捕まりますように。
そして、一刻も早くメディアがそのご家族を追い回すことをやめますように。
我が家は駅前商店街のはずれにあるが。
今では日本中の『商店街』の多くがそうであるように、この商店街もまた鄙びている。
車で出かけるような大型店に飲み込まれたのか。
はたまた後継者がいないためか。
活気というものとは無縁の、けれど、営業は辛うじて続けている小売店たち。
隣の駅前に高層ビルが乱立し、開発が続いても、同じ路線上の駅前がどんどんにぎやかになっていっても。
なぜか、ここはそのまんま。

我が家のベランダは今、蕾ラッシュ
こちらはもっこうばら
その理由が何であるのかはわからないけれど。
私はそれが大層気に入っており、ここが、ず~っとこのまんまであればいいなと思っている。
そして。
きっと土地購入の申し出も引く手数多であろう駅前の土地で、細々とながら、商売を続けている老店主たちに、いつまでも頑張って欲しいと心の声援を送っている。

昨年買ったクレマチス
客もまばらな、昭和の匂いがそのまま残る店内で、レジの前に座り、ひがな一日外を眺めている総合食品店のおじいちゃん。
このおじいちゃんはいつも可愛らしい、おしゃれな帽子をかぶっている。
その向かいには、かっこいいつなぎをさっそうと着こなし、現役で客の持ち込む自転車を修理するおじいちゃん。
ここには、ひんぱんに立ち話をしに訪れる近所のおじいちゃんの姿も見受けられる。
また、和菓子屋さんには話の好きな老夫婦。
すぐ横にあるお肉屋さんでは、いかにもお肉屋さんの店主さん、といった可愛らしいおじいちゃんがニコニコと手作りのお惣菜を売っていたりする。
彼らは.....
例えば客が何かを買い求めるとき。
「いいお天気だね」
とか、
「今帰り?」
とか、なんらかのひとことを忘れない。
私など今日に至っては、お肉屋さんのおじいちゃんに
「商店街のスタンプ、集めてみたら?塵も積もれば山となるからね~」
などと、アドバイスまで受けてしまった(笑)
そして、
「また来て下さいね~」
のひとことも。
思えば。
私が子供の頃は誰もがこんな商店街で買い物をし、互いに声を掛け合い、子供は地域の子供として、みんなに見守られていたものだった。
私がかつて幼い頃に住んでいた近くの商店街でも。
.....あれからはるかな時が流れても、私の顔を覚えてくれている人がいる。
だから.....
きっとこの商店街にも。
そんな『地域の子供たち』がいたことだろう。
あのおじいちゃん達は、いったい何人の子供達を見守ってきたのだろうか?
あの自転車屋さんで、壊れた自転車を直してもらった子供はどれだけの数にのぼるだろう。

がっつり剪定したアンブリッジローズも。
でもちと早すぎやしませんか?
量販店があちこちに出来、なんでも直すより買うほうが早いと考える社会の中で。
あのおじいちゃん達が頑張り続けるのは、いったいなぜなのか。
そこには、私たちには決してわからない、時間の積み重ねと地域への愛情と、自分がずっと続けてきた商売へのプライド、愛着があるのだろう。
私には、店先に座るおジイの、またはお惣菜を売るおジイの背後に、かつての、昭和の賑わいと人々のさざめきが見えるようだ。

こでまり
しかし.....
これは永遠ではない。
それは事実だ。
私たち自身が永遠の存在ではない以上。
この商店街もいつかは姿を消し、どこにでもある大型店、チェーン店に飲み込まれていくのだろう。
そのほうが便利で、綺麗だから。
そして。
かくして『地域の子供』はいなくなり、誰かがその地域から姿を消しても、誰もそんなことに気もとめない社会の出来上がり。
そういえば交差点前にあるたばこ屋さんのおじいちゃん。
ここしばらく姿が見えないけれど、どうしているのだろう。
頑張れ.....
頑張れ、おジイたち!

ゴンザ作・ビビンそうめん
から~い!けど美味い!

ワタクシにはトッピングのおすそ分け
鶏肉って美味しいにゃあ♪
今では日本中の『商店街』の多くがそうであるように、この商店街もまた鄙びている。
車で出かけるような大型店に飲み込まれたのか。
はたまた後継者がいないためか。
活気というものとは無縁の、けれど、営業は辛うじて続けている小売店たち。
隣の駅前に高層ビルが乱立し、開発が続いても、同じ路線上の駅前がどんどんにぎやかになっていっても。
なぜか、ここはそのまんま。

我が家のベランダは今、蕾ラッシュ
こちらはもっこうばら
その理由が何であるのかはわからないけれど。
私はそれが大層気に入っており、ここが、ず~っとこのまんまであればいいなと思っている。
そして。
きっと土地購入の申し出も引く手数多であろう駅前の土地で、細々とながら、商売を続けている老店主たちに、いつまでも頑張って欲しいと心の声援を送っている。

昨年買ったクレマチス
客もまばらな、昭和の匂いがそのまま残る店内で、レジの前に座り、ひがな一日外を眺めている総合食品店のおじいちゃん。
このおじいちゃんはいつも可愛らしい、おしゃれな帽子をかぶっている。
その向かいには、かっこいいつなぎをさっそうと着こなし、現役で客の持ち込む自転車を修理するおじいちゃん。
ここには、ひんぱんに立ち話をしに訪れる近所のおじいちゃんの姿も見受けられる。
また、和菓子屋さんには話の好きな老夫婦。
すぐ横にあるお肉屋さんでは、いかにもお肉屋さんの店主さん、といった可愛らしいおじいちゃんがニコニコと手作りのお惣菜を売っていたりする。
彼らは.....
例えば客が何かを買い求めるとき。
「いいお天気だね」
とか、
「今帰り?」
とか、なんらかのひとことを忘れない。
私など今日に至っては、お肉屋さんのおじいちゃんに
「商店街のスタンプ、集めてみたら?塵も積もれば山となるからね~」
などと、アドバイスまで受けてしまった(笑)
そして、
「また来て下さいね~」
のひとことも。
思えば。
私が子供の頃は誰もがこんな商店街で買い物をし、互いに声を掛け合い、子供は地域の子供として、みんなに見守られていたものだった。
私がかつて幼い頃に住んでいた近くの商店街でも。
.....あれからはるかな時が流れても、私の顔を覚えてくれている人がいる。
だから.....
きっとこの商店街にも。
そんな『地域の子供たち』がいたことだろう。
あのおじいちゃん達は、いったい何人の子供達を見守ってきたのだろうか?
あの自転車屋さんで、壊れた自転車を直してもらった子供はどれだけの数にのぼるだろう。

がっつり剪定したアンブリッジローズも。
でもちと早すぎやしませんか?
量販店があちこちに出来、なんでも直すより買うほうが早いと考える社会の中で。
あのおじいちゃん達が頑張り続けるのは、いったいなぜなのか。
そこには、私たちには決してわからない、時間の積み重ねと地域への愛情と、自分がずっと続けてきた商売へのプライド、愛着があるのだろう。
私には、店先に座るおジイの、またはお惣菜を売るおジイの背後に、かつての、昭和の賑わいと人々のさざめきが見えるようだ。

こでまり
しかし.....
これは永遠ではない。
それは事実だ。
私たち自身が永遠の存在ではない以上。
この商店街もいつかは姿を消し、どこにでもある大型店、チェーン店に飲み込まれていくのだろう。
そのほうが便利で、綺麗だから。
そして。
かくして『地域の子供』はいなくなり、誰かがその地域から姿を消しても、誰もそんなことに気もとめない社会の出来上がり。
そういえば交差点前にあるたばこ屋さんのおじいちゃん。
ここしばらく姿が見えないけれど、どうしているのだろう。
頑張れ.....
頑張れ、おジイたち!

ゴンザ作・ビビンそうめん
から~い!けど美味い!

ワタクシにはトッピングのおすそ分け
鶏肉って美味しいにゃあ♪
世の中には。
「ああ、この味を知っているだけで幸せ.....」
と、思えるほど美味しいものがある。
「ああ、この味を知らずに死ぬようなことがなくってよかった.....」
と、思わせるほどに美味しいものが。

値段が高い、安い、に関わらず、また、ある人には幸福の味、しかしある人には見るのも嫌、というものであっても。
食べることが人間にとって不可欠な行為である限り。
私たちは美味しいものを求め、愛し、そのこと自体に強い興味を持ち続ける。
そして、私たちは本当に美味しいものに出会ったとき、先に述べた
「ああ、この味を知らずに死ぬようなことがなくってよかった.....」
という気持ちさえ抱くのである。
そう。
私とゴンザはまたしてもそんなものと出逢ってしまった。
それがこれ。
『ピエールエルメ』のマカロンである。

左より、パッション、白桃サフラン風味、ローズ、ピスターシュ
いや。
ピエールエルメのものは、ケーキであれば食べたことがあった。
しかし、買い物に行けばいつも華やかな存在感のケーキに先に目を奪われ、少し地味な存在であるマカロンまでは手が回らず、そのままにしていたのだ。
が、私のブックマークにも入れさせて頂いているblog『さかなのはなぢ』のツマ様が、その美味しさについて触れていらしたのを見て、
「こりゃ絶対次回はマカロンを!」
と思い、ようやく買い求めてきたのだ。
そして、そのあまりの美味しさに酔い、倒れそうになってしまった。
美しい、繊細な色と形。
口に運んだ瞬間にほろっとほどける軽い食感。
淡くて、しかし淡すぎないクリームと、喉を通過する刹那に鼻をぬけてゆく、驚くほど豊かなそれぞれの香り。
ああうっとり♪
私ったら。
かつては『マカロンってそれほど美味しいものじゃないよね』などと言ってたけど、すみません。
私が間違っておりました。
マカロンって、幸せの一粒だったのね。

こちらは我が家の一粒
しかし、一粒4センチほどのマカロンに、こんな楽園がひそんでいたなんて、想像もしなかった。
こりゃ一粒200円でも納得どころか、安すぎるくらいだ。
きっちり半分こに分けたマカロンをかじりながら、私とゴンザは
「なんだこれ!?」
「驚きだね!」
「美っ味~い♪」
をくり返し、次にピエールエルメを訪れた際は、全種類を購入してくることを決めたのだった。

ワタクシのおやつもお忘れなく!
幸せにはいろんな形があるけれど.....
ピエールエルメのマカロンはまさしく幸せそのものの形。
ツマ様~。
素晴らしいものを教えて下さってありがとうございました~!

こちらは我が家下に、マザーによって新たに送り込まれてきた地上最強生物
この生物は一粒だけでも恐ろしい破壊力を持つというのに.....

今回は五粒!
ああおそろしい.....♪

この寝顔の攻撃力の高さには、
挑戦者であるパグには決して負けないという
マザーの本気度が伺える

見よ!あの破壊力の塊の中心に身を投じる勇気あるコイツを!
また、飛び込まれようが踏みつけられようがビクともしない
ブラザーたちの大物ぶりを。
地上最強生物の座を巡る闘いは激しい.....

こちらは花ざかりのルッコラ
実を結んだら新たな芽のための一粒に
「ああ、この味を知っているだけで幸せ.....」
と、思えるほど美味しいものがある。
「ああ、この味を知らずに死ぬようなことがなくってよかった.....」
と、思わせるほどに美味しいものが。

値段が高い、安い、に関わらず、また、ある人には幸福の味、しかしある人には見るのも嫌、というものであっても。
食べることが人間にとって不可欠な行為である限り。
私たちは美味しいものを求め、愛し、そのこと自体に強い興味を持ち続ける。
そして、私たちは本当に美味しいものに出会ったとき、先に述べた
「ああ、この味を知らずに死ぬようなことがなくってよかった.....」
という気持ちさえ抱くのである。
そう。
私とゴンザはまたしてもそんなものと出逢ってしまった。
それがこれ。
『ピエールエルメ』のマカロンである。

左より、パッション、白桃サフラン風味、ローズ、ピスターシュ
いや。
ピエールエルメのものは、ケーキであれば食べたことがあった。
しかし、買い物に行けばいつも華やかな存在感のケーキに先に目を奪われ、少し地味な存在であるマカロンまでは手が回らず、そのままにしていたのだ。
が、私のブックマークにも入れさせて頂いているblog『さかなのはなぢ』のツマ様が、その美味しさについて触れていらしたのを見て、
「こりゃ絶対次回はマカロンを!」
と思い、ようやく買い求めてきたのだ。
そして、そのあまりの美味しさに酔い、倒れそうになってしまった。
美しい、繊細な色と形。
口に運んだ瞬間にほろっとほどける軽い食感。
淡くて、しかし淡すぎないクリームと、喉を通過する刹那に鼻をぬけてゆく、驚くほど豊かなそれぞれの香り。
ああうっとり♪
私ったら。
かつては『マカロンってそれほど美味しいものじゃないよね』などと言ってたけど、すみません。
私が間違っておりました。
マカロンって、幸せの一粒だったのね。

こちらは我が家の一粒
しかし、一粒4センチほどのマカロンに、こんな楽園がひそんでいたなんて、想像もしなかった。
こりゃ一粒200円でも納得どころか、安すぎるくらいだ。
きっちり半分こに分けたマカロンをかじりながら、私とゴンザは
「なんだこれ!?」
「驚きだね!」
「美っ味~い♪」
をくり返し、次にピエールエルメを訪れた際は、全種類を購入してくることを決めたのだった。

ワタクシのおやつもお忘れなく!
幸せにはいろんな形があるけれど.....
ピエールエルメのマカロンはまさしく幸せそのものの形。
ツマ様~。
素晴らしいものを教えて下さってありがとうございました~!

こちらは我が家下に、マザーによって新たに送り込まれてきた地上最強生物
この生物は一粒だけでも恐ろしい破壊力を持つというのに.....

今回は五粒!
ああおそろしい.....♪

この寝顔の攻撃力の高さには、
挑戦者であるパグには決して負けないという
マザーの本気度が伺える

見よ!あの破壊力の塊の中心に身を投じる勇気あるコイツを!
また、飛び込まれようが踏みつけられようがビクともしない
ブラザーたちの大物ぶりを。
地上最強生物の座を巡る闘いは激しい.....

こちらは花ざかりのルッコラ
実を結んだら新たな芽のための一粒に
畑へ向かう川沿いには。
今年もきれいな自生の菜の花。
ここは昨年の春、ゴンザが
「きれいな場所を見つけたから」
と言って連れてきてくれた場所。
そのときはまさかその後、ここを通って畑に通うとは思わなかったけど。
菜の花は今週あたりが見頃。
次の畑訪問はチャリンコで、に決定!
今年もきれいな自生の菜の花。
ここは昨年の春、ゴンザが
「きれいな場所を見つけたから」
と言って連れてきてくれた場所。
そのときはまさかその後、ここを通って畑に通うとは思わなかったけど。
菜の花は今週あたりが見頃。
次の畑訪問はチャリンコで、に決定!