何やらネット上では、
某外国人芸人の、
『寿司職人に徒弟制度は必要ない』
『魚の善し悪しについての知識はネットで調べればよい』
といった趣旨の発言について、喧しい様子。
賛成する人、否定する人、
一部理解する人、なんともいえないという人...。
私自身は、何かを真剣に『修業』したことはないし、
かつて『職人』になれた経験があるわけでもないので、
偉そうに言えることもないのだが、
ただ、日々料理を業としているパートナーを見ている者として、
または、見よう見まね、
それこそ、『ネットの知識』をもとに、
畑など、やってみた者として、
『ネットで得られる知識には、やはり限りがある』
と。
例えば畑で、
それらの情報を駆使して作業をしても、
『なんでうまくいかないんだろう?』ということがたくさん出てきたものであるが、
それらは大抵、
周囲の農家の方の、
『ああ、それはこうすれば』
という、軽い一言、一作業のおかげで解決したし、
つまり、その道を進もうと思えば思うほど、
または、やってみればやってみるほど、
先人が蓄えた感覚と知識の偉大さに、
ただただ平伏するしかない、と。
それこそ、一バーテンダーから、ほぼ独学で、『料理をする人』
に転身したゴンザにしても、
先輩たちのアドバイスで、解決して貰ったことは枚挙に暇がないはずで、
やはりそれらは大抵、修業をした、
『見て触って』という経験から成り立つ知識の上にあったもののはずだ。
「市場へ通っている」といえば、
長らく寿司職人をしていたというお客様が教えてくれたことが、
目から鱗の素晴らしい結果を仕入れにもたらしてくれたり、
何より、それ以前の、料理に至るまで。
道具や食材、衛生、あらゆる点で、
『その道のプロ』の凄さというのは半端ではないのだと、
やればやるほど、思い知るしかない。
司馬遼太郎は、
『日本は職人の国』であるといった風の発言をしたというが、
そういえば私が読んだ、違う作家の本でも、
幕末日本の、様々な職人たちの、誇りをかけた競い合いと、
結果である『ものの充溢』について、
言及してあったのを思い出す。
『彼らの確かな技術力は、西洋風の家具などを、瞬く間に、
本家を凌ぐ出来栄えに作り上げた』と。
確かに、ネットの情報は無限で、有意義であることは間違いないが、
反じて、正しくないものも多く、
何より、
『聞くのとやるのじゃ大違い』なんてことは、
それこそ大小の違いはあれ、
生きる上で、誰もが持つ経験でもあるはずだ。
そういえば、先日ある人から聞いた話では、
『友人であるフレンチのシェフが丁寧に出汁をひいていたら、
「修業したい」といって入ってきて、働いていた若者に、
「なんでそんな面倒なことをするんですか?
そんなの、出来合いで美味しいのがあるのだから、
買ってくればいいじゃないですか」と言われた』とか...。
果たして修業の是非は、
または徒弟制度の是非は、
その先にあるもの、ともいえるのだろうか?
私には、どうしても『それ以前の話』にしか、思えないのだが。
見るのとやるのじゃ大違い。
聞くのとやるのじゃ大違い。
だからこそ、職人は職人たり得、
誇りを持って仕事に臨み、
さらにその技を磨くのではないだろうか。
何より歩みを止めないこと、
何でもやって、失敗もしてみること、
...諦めないこと。
徒弟制度の賛否には、様々な考えも思いもあろうが。
道を極めた人の技には凄みがあり、
それは、ネット上では、
決して体感出来ないものであることだけは、間違いない。