12・12判決に怒りを叫べ!
山田 肇
はじめに
12月12日、元・豊中市立小学校教員の佐藤訓子さんに対する判決が出た。「君が代」不起立を唯一の理由として再任用を拒否され、その取消を求めた裁判の判決だ。あの内藤裕之裁判長は、またしても「原告の請求を棄却する」という判決を出した。
判決文の「当裁判所の判断」を読んで驚いた。驚天動地、前代未聞、厚顔無恥!これほどの「悪質」かつ「品位」なき判決文は未だかって読んだことも見たこともない。
「君が代」不起立は「教育公務員としての品位を害し」「学校に対する信用を著しく失墜させる」「悪質性は決して軽微なもの」ではないと、私たちの「思想・良心の核心の表出」(最高裁宮川裁判官が言ったこと)に対して悪罵を投げつけ、「君が代」に対して反対するような者は、クビにして当然、再任用する必要はないと平然と断じた。
いったい、「品位」なき者はいずれか!法に基づかず、法をも飛びこえて「君が代」不起立した者を「品位を害し」たと断じる裁判官が今までいただろうか?「君が代」不起立は、教師のやむにやまれぬ良心の叫びだ!その良心の叫びこそ、教師の品位を表すものだ!
「品位」とは、「人にそなわっている人格的価値」と辞書にある。子どもたちに何が正しくて何がまちがっているか、しっかり考えるように言ってきた教師は、自らの「人格的価値」をかけて、侵略戦争を進めた天皇を讃える「君が代」を命令されても、立って歌うことはできない、教え子を再び戦場に送ることに手をかすことはできないと、「君が代」で堂々と座ってきたし、座る。これが教師の良心であり、品位だ!
そもそも、「君が代」不起立者を校長の「指導」や職務命令に従わなかったとして、「品位」なき者と断じる法などありはしない。しかし、この裁判長は、自らの「思想・良心」を投げ捨て、命令に唯々諾々と従う教師を「品位」ある者とするのだ!裁判官が「アイヒマンになれ」とは何ごとぞ!
ひるがえって、「君が代」不起立者に「品位」なきと断ずる内藤裁判長に、果たして「品位」ありや!憲法と法にのみにもとづいて裁判を行う「良心」はあるか?権力の、あるいは橋下・維新の会の番犬そのもの判決を下す裁判官に、「品位」と「良心」はあるとはいえないだろう!
番犬では、裁判の独立性は保てはしない。
そして、この「品位」なき「悪質」な判決は歴史の審判法廷に引きずり出された時、断罪されるであろう!裁かれるのは、「君が代」不起立者ではなく、歴史の真実、道理、義に反した者である!ことが明らかだ。
12・12判決批判、その1
再任用拒否の撤回を求める裁判の12・12判決批判の第一は、①2012年卒業式での「『君が代』に反対します」との発言 ②顛末書提出と事情聴取出席の職務命令違反 ③2013年卒業式でも「君が代」に反対する意見を変えなかった、また、予防拘禁的に「職員室勤務」を命じたことに対して抗議した。 ④自己申告書を提出しなかった(P39)「以上を理由」として、「①ないし④に係る原告の言動等は、教育公務員としての品位を害し、本件学校に対する信用を著しく失墜させる行為に該当するなど、その程度の悪質性は、決して軽微なものであるとは評価できないものといわざるを得ない」(P41)から、豊中市教委が「『勤務実績が良好でない』と評価して」再任用を「不合格とした」のは妥当だとした点である。
「君が代」不起立だけで「勤務実績」を判断して再雇用しなかったのは都教委の裁量権の逸脱濫用で違法だとした東京地裁・高裁の昨年の判決を知りながら、「悪質性」をいくつも並べて、しかも、法にはない「品位」まで持ち出して再任用拒否を是とした点を許すことはできない。
逐一、批判する。
1 の卒業式での「『君が代』に反対します」との発言について。
小学校では、卒業式の目的を子どもたちの6年間の成長をまとめる“最後の授業”としてきた。“最後の授業”であるのだから、「日の丸、君が代に反対します」という教師の意見表明は、授業の中での発言であり、なんら「不規則発言」ではない。
そもそも、国旗国歌法や学習指導要領を盾にまた、大阪にしか存在しない条例をも使って卒業式に「日の丸」「君が代」を持ちこみ、教師に職務命令で「君が代」の起立斉唱を強制し、子どもたちに「君が代」を歌わせ、愛国心を刷りこもうとする方が間違っているのだ。
それをこの判決は、佐藤さんの勇気ある発言を「自らの考えを誇示するような態様」と、悪意に満ちて断じ、また、「卒業式の厳粛性や秩序を乱すもの」と決めつける。「卒業式の厳粛性」など法にも学習指導要領にもないにも関わらず。さらに、これが「教育公務員としての品位を害し、本件学校や教育公務員に対する信用を著しく失墜させる行為」であったと言う。
「教育公務員としての品位」はこうあらねばならないと、いかなる法のどこにそんな規定があるか?そんなものは、内藤裁判長の考える「品位」ではないか。裁判長自ら考える「品位」で人を断じ、裁いていいものか!
「日の丸」「君が代」に反対と声を上げる者は「品位」がない、文部科学省・府教委・市教委・校長に従うのが、「品位」ある者だ、命令に唯々諾々と従うアイヒマンこそ「品位」があり、教師は「品位」あるアイヒマンになれ!と言っているに等しい。命令に従うアイヒマンを「品位」ある者とは言わず、歴史は、アイヒマンや命令に従う者を奴隷と称するのだ!
「日の丸」「君が代」に反対し、教え子を戦場に送らないと決意することこそ、教師の品位を示す。良心も「品位」もなき裁判官が、「『君が代』に反対します」と勇気ある発言をした教師を「品位を害し」たと宣う。これほどの天地が逆転した事態があろうか!
②顛末書提出と事情聴取出席の職務命令違反について。
そもそも、顛末書提出と事情聴取出席を求める校長の職務命令など聞いたことも見たこともない。2012年卒業式で、豊中市教委は「君が代」を立って歌えという職務命令を校長に指示しておらず、従って、佐藤さんの「君が代」不起立は職務命令違反で処分できず、その発言だけを「問題」にせざるを得ず、そのことにあせった豊中市教委が顛末書と事情聴取にまで職務命令を乱発したことが間違っている!
大阪府下のどこの学校で顛末書と事情聴取に職務命令など出したか?顛末書に対して、府教委の事情聴取に対して私も職務命令など出されてはいない。どこの校長も出していないし、誰も受け取ったことがない。そして、顛末書提出と事情聴取出席に対して、職務命令を出せるどのような法的根拠があるのか?ありはしない!何でも職務命令を出せばいいとは、なんたること!職務命令で教育が成り立つか!職務命令は教育そのものの否定だ!それゆえ、この二つに職務命令を出すことが間違っており、この二つを「勤務実績」の判断に加えることそのものが不当だ。ましてや顛末書や事情聴取を「拒否」した、さらに「同職務命令に違反した」と書くとは何ごとぞ!
③2013年卒業式でも「君が代」に反対する意見を変えなかった、また、予防拘禁的に「職員室勤務」を命じたことに対して抗議したことについて。
内藤判決は「当裁判所の判断」の「1認定事実」の中で、2013年の「卒業式に係る職員会議においても昨年同様の趣旨の発言(つまり、「日の丸」「君が代」に反対の発言)をしており、反省の様子は全くないこと」「今後の卒業式や入学式の運営が危惧される」という校長が市教委に出した佐藤さんに対する「内申書」をわざわざ書き写し、佐藤さんをクビにした林幹事の発言も是認した。
なぜ、「日の丸」「君が代」反対の発言を反省せねばならぬのか!反省すべきは卒業式に職務命令まで出して、「君が代」を立って歌えと教師に強制する教委・校長の方ではないか!そして、「反省」せよ!とは考えを変えろ!転向せよということではないか。これぞ、「思想・良心の自由」の侵害を裁判所が是認したといことだ!
③のもう一つのこと、予防拘禁的に「職員室勤務」を命じたことに対して抗議したことについては、判決批判の3でくわしく述べる。
④自己申告書を提出しなかったことについては、驚天動地、前代未聞の一つでもあるので、
判決批判の4で述べる。
12・12判決批判、その2
12・12判決批判の第二は、再任用するかどうかの「勤務実績」に、この内藤判決は、「職務の適格性」や「服務規律違反の有無」まで「判断」の材料に加えたことである。いや、むしろ、上の2つ、「職務の適格性」や「服務規律違反の有無」で、教師の「勤務実績」を「判断」せよと、12・12判決は言った。これぞ、恐るべき「判断」と言わずして何と言うべきか!
判決書の42ページは次のように書く。
「『勤務実績』について、『教諭がつかさどる児童に対する教育活動と責任を遂行した実績』
に限定されるという合理的な理由は見いだし難く、かえって、職務の適格性や服務規律違反の有無を含めて判断するのが、上記した再任用選考制度の趣旨目的等に照らして相当というべきである」と。
内藤裁判長が言う、「職務の適格性」や「服務規律違反の有無」とは何か?君が代」を立って歌えという職務命令に従うかどうかで、「職務の適格性」や「服務規律」は決まる、決めていいんだと言っている!ということだ。
そして、「君が代」を立って歌えという職務命令に従わないような教員は、「職務の適格性」はなく、「服務規律違反」であるから、再任用しなくて当然、クビを切るのは当然だと言っている!それが「再任用選考制度の趣旨目的等に照らして相当」と、ぬけぬけと書いた。どこにこんなことが「再任用制度の趣旨目的」と書いてある。こんな「趣旨目的」を見たことも聞いたこともない。
こんな不当・不合理なことがあるか!怒り心頭!怒りは天に達せんばかりである。子どもたちの教育に真摯に向き合ってきた37年間の「勤務実績」、そんなものは関係ないんだ、教員の「勤務実績」は、「君が代」の50秒ですべて決める、「君が代」を立って歌えという職務命令に唯々諾々と従うアイヒマンでない者はクビにして当然と言った!こんな不当、不合理、恐るべき判決があるか!
11月15日と24日に最大の山場といえる証人尋問が終わり、2月9日の裁判を経て来春には判決を迎えようとしている私たちの再任用合格取消の撤回を求める裁判でも、内藤裁判長は、「勤務実績」を「職務の適格性」や「服務規律違反の有無」のみで「判断」して、再任用合格取消は当然=公訴棄却の判決を下ろしてくるかもしれない。
しかし、私たちには強い味方のまっとうな判例がある!
2015年12月10日の東京高裁・柴田寛之裁判長の判決をしかと見よ!
この東京高裁判決は何と判示したか。「君が代」を立って歌えという「本件職務命令違反だけで従前の勤務成績の良否という判断を可能とする位置付けが与えられているものと評価することはできない」と書いた。つまり、「君が代」の50秒だけで「勤務成績」を決めてはいけないと判示したのだ!
さらには、これ以前の同年5月25日、東京地裁・吉田徹裁判長の判決も眼を見開いてご覧あれ!この東京地裁判決は「勤務実績」の判断について、次のように判示した。
「本件職務命令に違反する行為の非違性を不当に重く扱う一方で、原告らの従前の勤務成績を判定する際に考慮されるべき多種多様な要素、原告らが教職員として長年培った知識や技能、経験、学校教育に対する意欲等を全く考慮しないものであるから、定年退職者の生活保障並びに教職を長く経験してきた者の知識及び経験等の活用という再雇用制度、非常勤教員制度等の趣旨にも反し、また、本件通達発出以前の再雇用制度等の運用実態とも大きく異なるものであり、・・・原告らの合理的な期待を、大きく侵害するものと評価するのが相当である」
と。
この東京地裁判決でも、「勤務実績」を「君が代」不起立の職務命令違反だけで決めて再雇用拒否はダメだと判示した。そして、東京地裁も高裁も「勤務実績」の判断に、「職務の適格性」や「服務規律」等をふくめていいなんて、一言半句も書いていない。いや、むしろ逆だ!「勤務実績」を「君が代」の50秒だけで決めてはいかん!「多種多様な要素」で「勤務実績」を考慮せよと言っているのだ。
そして、再任用制度の「趣旨目的」をねじ曲げた内藤裁判長とは違い、この東京地裁・高裁判決は「再雇用制度の趣旨」も正しく書き、教職員の「期待権」をも認めている。これがまっとうな判決だ!まともな司法判断というものだ!内藤裁判長は、この東京地裁・高裁の判決が判示した判断枠組み、法理、判決にもとづいて、また、裁判官の良心と「品位」をもって、私たちの再任用合格取消を撤回する、まっとうな判決を下すべきだ!
12・12判決批判、その3
12・12判決批判の第三は、豊中市教委と校長が、佐藤さんに対して予防拘禁的に「職員室勤務」を命じたことを是とした点である。それが何の法的根拠がないにも関わらず、予断と偏見、「懸念」と「推認」で、内藤裁判長は是とした。これほどの法を無視した「悪質」な「品位」なき判決があろうか!
12・12判決は41ページで次のように書く。
「原告の平成24年度卒業式準備過程における行為自体は、職務命令に違反する行為とはいえないものの、原告の職員会議での発言や宮崎校長に対する言動を鑑みれば、平成24年度卒業式においても、本件所為と同様の行為をすることを懸念させるものであることは否定できない。そうすると、少なくとも上記①の事実に関連し、原告が今後も本件所為の行為を行うであろうことを推認させるものであろうことを推認させる事情であると評価することができる」と。だから、卒業式に出席させず、そこから隔離して、予防拘禁的な「職員室勤務」は当然だったと「評価」したのである。
「平成24年度卒業式準備過程」において、佐藤さんは何をしたか?何もしていない。職員会議で卒業式に「日の丸」「君が代」反対の発言はした。「卒業式に関して個別に話をしたいので校長室に来るよう」にという校長の「依頼」を断った。これだけである。
要するに、「日の丸」「君が代」反対の考えを変えず、校長の「依頼」を断ったから、また、「不規則発言等をする可能性が高いと判断し」、卒業式の式場から隔離し、「卒業式に出席しない職員室管理係とするよう指示した」
いったい、いつからこの国では、人の行動を「可能性」だけで「判断」していいとなったのだ!これほどの裁判所の「悪質」な「品位」なき「判断」をいまだ知らない。これは戦前の予防拘禁を今もやっていいんだと裁判所が言ったということではないか!何と恐るべき「判断」であることか!
みなさん、予防拘禁を知っていますか?天皇制国家は、1925年、治安維持法を作り「国体を変革し私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し・・・之に加入したる者は10年以下の懲役又は禁錮に処す」とした。そして、1928年にはそれを「死刑又は無期」とした。さらに、1941年には上に掲げる「罪を犯すの虞れある」者は「予防拘禁に付する」として、東京予防拘禁所を作った。
治安維持法で捕まえられた共産党員らが出獄する時期が迫ると、「再犯の虞れ顕著なる者」の「社会的隔離が急務」だと、非転向の共産党員らを予防拘禁所に閉じこめ自由を奪った。あらかじめ法律によって刑罰を定め、それによって人を裁くというのが、どの国家もとる原則。つまり、罪刑法定主義ということ。ところが、この「予防拘禁」というのは、何ら罪を犯していないのに、「虞れ」があると思想検事が思っただけで、人を閉じこめ、社会から「隔離」し、自由を奪う。
実際、1945年5月末までに非転向の共産党員らが65人も「虞れ」があるとされ予防拘禁所に入れられた。小菅刑務所に在監中の徳田球一も、「現在に於ても尚共産主義を正当なりと確信し、毫も反省の色なく・・・同種の罪を犯すの虞」ありと予防拘禁所に入れられた。朝鮮では日本国内より1ヶ月も早く、「予防拘禁」制が実施され、1944年9月までに89人も予防拘禁所に入れられた。(『思想検事』荻野富士夫著、岩波新書から)
「本件所為と同様の行為」つまり、「君が代」に反対しますと、また、発言するかもしれないと、「懸念させる」「推認させる」と「評価」して、卒業式から排除したのは、予防拘禁と全く同じではないか!この予防拘禁を内藤裁判長は是としたのだ!佐藤さんは何もしていない。考えを変えなかっただけだ。ただ「日の丸」「君が代」反対と発言しただけの佐藤さんに対して、内藤裁判長は、「懸念」と「推認」にもとづいて「判断」を下し、罪刑法定主義すら踏みにじった。この12・12判決ほど「悪質」で「品位」なき判決は未だかつてない。
12・12判決批判、その4
12・12判決批判の第四は、自己申告書を提出しなかったことを再任用拒否の理由に上げていることである。自己申告票の未提出ゆえに、今まで再任用を拒否された人がいるか?そんな人はいまだかつていない。自己申告票を未提出の人も再任用されているのが厳然たる事実だ。
それを12・12判決は、「自己申告票に係る提出義務に違反した点は、決して軽微なものであるとはいえない」と書いて、「品位を害し」「信用を著しく失墜させる」「悪質性」の一つに上げる。いったい、いつから自己申告票の提出は「義務」となったのか?
判決は自己申告票の提出の「義務」の法的根拠に、地方公務員法32条のみを上げる。「職員は・・・地方公共団体の定める規定に従い」を引用し、自己申告票の提出は、この「規定」に「当た」るから、「自己申告票を提出する法的義務を負っていると解される」と、強引に「法的義務」にしてしまう。
私は校長から、あるいは教育委員会から自己申告票の提出が「義務」だなどと一度として聞いたことはない。校長は「出して下さい」とは言ったが、「義務」だ、「出せ」などと言ったことはない。そして、未提出で処分された人もいないし、未提出で再任用を拒否された人もいない。それを強引に「義務」にして、未提出を再任用拒否の理由に上げる。なんという「悪質」な判決か!なんでもかんでも「理由」をあげて、佐藤さんを再任用させないというのは当然だと認めたこの判決は、いかに「品位」なき判決か!
12・12判決批判、その5
12・12判決批判の第五は、2011年5月30日判決を始めとして、最高裁判決をコピーして「君が代」の起立斉唱は「慣例上の儀礼的な所作」「間接な制約となる面がある」が、「許容される」とした点である。
しかし、この判決を長く引用して、「原告が国歌斉唱時に不起立不斉唱であった点を本件不合格事由の一つとすることは、憲法19条に違反するとはいえず、この点に関する原告の主張は理由がない」とするのは、最高裁の判決をも大きく逸脱し、乱暴な「判決」である。
なぜなら、最高裁判決は確かに、「慣例上の儀礼的な所作」「間接な制約」論で「君が代」を立って歌えという職務命令は「合憲」とした。(この最高裁判決をもちろん是認するわけではない)しかし、2012年度卒業式において、佐藤さんには「君が代」を立って歌えという職務命令は出されていない。
それゆえ、12・12判決は、「君が代」不起立に対して、佐藤さんの職務命令違反を一言半句も書くことはできない。当然だ!しかし、それにもかかわらず、この判決は、「君が代」で座っただけで、再任用不合格=拒否の「事由」とすることを是としている!何という恐るべき判決か!いまだかつてない、何という乱暴な判決か!
2011年「国旗国歌条例」以前に、「君が代」不起立を理由にして再任用拒否された人がいたか?そんな人はいない!当たり前だ、職務命令が出されていなかったからだ。
東京地裁・高裁判決では、2003年10.23通達以前と以後で、すなわち、職務命令が出されたか、出されないかで、再雇用に違いが出るのは、平等性を損なう、「君が代」を立って歌えという職務命令違反だけで「勤務実績の良否」を決めるのは違法という判決が出ているのだ。
しかし、この12・12判決は、「君が代」不起立の職務命令違反でもないのに、「君が代」不起立だけで再任用不合格=拒否は当然としたのだ!内藤裁判長よ、あなたは、東京高裁の判決を飛びこえ、さらには最高裁判決すら無視し、飛びこして、「君が代」不起立だけで再任用拒否、クビにせよと言うのか!なんという「悪質」かつ「品位」なき独裁的な判決か!
まだ、ある!
学習指導要領を根拠に出しながら、しかし、「要領」を「要綱」と、つまり、「学習指導要綱」などと書いている。あるいは、「教育指導要領」などと書いている。
学習指導要領を、裁判官はどこまで認識しているのか?教育のことを何もご存じないのではないか。何もご存じない裁判官が、職務命令を出されても、「君が代」で立って歌うことは、教師の良心に反するから絶対できませんと座った私たち教員を裁くことができるのだろうかと疑念をいだかずにはいられない。
いや、そもそも、奴隷の思想とアイヒマンの道は拒否し、歴史の真実にしっかり根ざして「教えるとは、希望を語ること。学ぶとは、誠実を胸にきざむこと」を胸に教師の譲れぬ良心にもとづいて、「君が代」で座った私たちを、憲法や法律をねじ曲げる裁判官に裁けるわけがない。
歴史の審判という法廷に引き出された時、どちらに義があり、道理があるか明らかである。
山田 肇
はじめに
12月12日、元・豊中市立小学校教員の佐藤訓子さんに対する判決が出た。「君が代」不起立を唯一の理由として再任用を拒否され、その取消を求めた裁判の判決だ。あの内藤裕之裁判長は、またしても「原告の請求を棄却する」という判決を出した。
判決文の「当裁判所の判断」を読んで驚いた。驚天動地、前代未聞、厚顔無恥!これほどの「悪質」かつ「品位」なき判決文は未だかって読んだことも見たこともない。
「君が代」不起立は「教育公務員としての品位を害し」「学校に対する信用を著しく失墜させる」「悪質性は決して軽微なもの」ではないと、私たちの「思想・良心の核心の表出」(最高裁宮川裁判官が言ったこと)に対して悪罵を投げつけ、「君が代」に対して反対するような者は、クビにして当然、再任用する必要はないと平然と断じた。
いったい、「品位」なき者はいずれか!法に基づかず、法をも飛びこえて「君が代」不起立した者を「品位を害し」たと断じる裁判官が今までいただろうか?「君が代」不起立は、教師のやむにやまれぬ良心の叫びだ!その良心の叫びこそ、教師の品位を表すものだ!
「品位」とは、「人にそなわっている人格的価値」と辞書にある。子どもたちに何が正しくて何がまちがっているか、しっかり考えるように言ってきた教師は、自らの「人格的価値」をかけて、侵略戦争を進めた天皇を讃える「君が代」を命令されても、立って歌うことはできない、教え子を再び戦場に送ることに手をかすことはできないと、「君が代」で堂々と座ってきたし、座る。これが教師の良心であり、品位だ!
そもそも、「君が代」不起立者を校長の「指導」や職務命令に従わなかったとして、「品位」なき者と断じる法などありはしない。しかし、この裁判長は、自らの「思想・良心」を投げ捨て、命令に唯々諾々と従う教師を「品位」ある者とするのだ!裁判官が「アイヒマンになれ」とは何ごとぞ!
ひるがえって、「君が代」不起立者に「品位」なきと断ずる内藤裁判長に、果たして「品位」ありや!憲法と法にのみにもとづいて裁判を行う「良心」はあるか?権力の、あるいは橋下・維新の会の番犬そのもの判決を下す裁判官に、「品位」と「良心」はあるとはいえないだろう!
番犬では、裁判の独立性は保てはしない。
そして、この「品位」なき「悪質」な判決は歴史の審判法廷に引きずり出された時、断罪されるであろう!裁かれるのは、「君が代」不起立者ではなく、歴史の真実、道理、義に反した者である!ことが明らかだ。
12・12判決批判、その1
再任用拒否の撤回を求める裁判の12・12判決批判の第一は、①2012年卒業式での「『君が代』に反対します」との発言 ②顛末書提出と事情聴取出席の職務命令違反 ③2013年卒業式でも「君が代」に反対する意見を変えなかった、また、予防拘禁的に「職員室勤務」を命じたことに対して抗議した。 ④自己申告書を提出しなかった(P39)「以上を理由」として、「①ないし④に係る原告の言動等は、教育公務員としての品位を害し、本件学校に対する信用を著しく失墜させる行為に該当するなど、その程度の悪質性は、決して軽微なものであるとは評価できないものといわざるを得ない」(P41)から、豊中市教委が「『勤務実績が良好でない』と評価して」再任用を「不合格とした」のは妥当だとした点である。
「君が代」不起立だけで「勤務実績」を判断して再雇用しなかったのは都教委の裁量権の逸脱濫用で違法だとした東京地裁・高裁の昨年の判決を知りながら、「悪質性」をいくつも並べて、しかも、法にはない「品位」まで持ち出して再任用拒否を是とした点を許すことはできない。
逐一、批判する。
1 の卒業式での「『君が代』に反対します」との発言について。
小学校では、卒業式の目的を子どもたちの6年間の成長をまとめる“最後の授業”としてきた。“最後の授業”であるのだから、「日の丸、君が代に反対します」という教師の意見表明は、授業の中での発言であり、なんら「不規則発言」ではない。
そもそも、国旗国歌法や学習指導要領を盾にまた、大阪にしか存在しない条例をも使って卒業式に「日の丸」「君が代」を持ちこみ、教師に職務命令で「君が代」の起立斉唱を強制し、子どもたちに「君が代」を歌わせ、愛国心を刷りこもうとする方が間違っているのだ。
それをこの判決は、佐藤さんの勇気ある発言を「自らの考えを誇示するような態様」と、悪意に満ちて断じ、また、「卒業式の厳粛性や秩序を乱すもの」と決めつける。「卒業式の厳粛性」など法にも学習指導要領にもないにも関わらず。さらに、これが「教育公務員としての品位を害し、本件学校や教育公務員に対する信用を著しく失墜させる行為」であったと言う。
「教育公務員としての品位」はこうあらねばならないと、いかなる法のどこにそんな規定があるか?そんなものは、内藤裁判長の考える「品位」ではないか。裁判長自ら考える「品位」で人を断じ、裁いていいものか!
「日の丸」「君が代」に反対と声を上げる者は「品位」がない、文部科学省・府教委・市教委・校長に従うのが、「品位」ある者だ、命令に唯々諾々と従うアイヒマンこそ「品位」があり、教師は「品位」あるアイヒマンになれ!と言っているに等しい。命令に従うアイヒマンを「品位」ある者とは言わず、歴史は、アイヒマンや命令に従う者を奴隷と称するのだ!
「日の丸」「君が代」に反対し、教え子を戦場に送らないと決意することこそ、教師の品位を示す。良心も「品位」もなき裁判官が、「『君が代』に反対します」と勇気ある発言をした教師を「品位を害し」たと宣う。これほどの天地が逆転した事態があろうか!
②顛末書提出と事情聴取出席の職務命令違反について。
そもそも、顛末書提出と事情聴取出席を求める校長の職務命令など聞いたことも見たこともない。2012年卒業式で、豊中市教委は「君が代」を立って歌えという職務命令を校長に指示しておらず、従って、佐藤さんの「君が代」不起立は職務命令違反で処分できず、その発言だけを「問題」にせざるを得ず、そのことにあせった豊中市教委が顛末書と事情聴取にまで職務命令を乱発したことが間違っている!
大阪府下のどこの学校で顛末書と事情聴取に職務命令など出したか?顛末書に対して、府教委の事情聴取に対して私も職務命令など出されてはいない。どこの校長も出していないし、誰も受け取ったことがない。そして、顛末書提出と事情聴取出席に対して、職務命令を出せるどのような法的根拠があるのか?ありはしない!何でも職務命令を出せばいいとは、なんたること!職務命令で教育が成り立つか!職務命令は教育そのものの否定だ!それゆえ、この二つに職務命令を出すことが間違っており、この二つを「勤務実績」の判断に加えることそのものが不当だ。ましてや顛末書や事情聴取を「拒否」した、さらに「同職務命令に違反した」と書くとは何ごとぞ!
③2013年卒業式でも「君が代」に反対する意見を変えなかった、また、予防拘禁的に「職員室勤務」を命じたことに対して抗議したことについて。
内藤判決は「当裁判所の判断」の「1認定事実」の中で、2013年の「卒業式に係る職員会議においても昨年同様の趣旨の発言(つまり、「日の丸」「君が代」に反対の発言)をしており、反省の様子は全くないこと」「今後の卒業式や入学式の運営が危惧される」という校長が市教委に出した佐藤さんに対する「内申書」をわざわざ書き写し、佐藤さんをクビにした林幹事の発言も是認した。
なぜ、「日の丸」「君が代」反対の発言を反省せねばならぬのか!反省すべきは卒業式に職務命令まで出して、「君が代」を立って歌えと教師に強制する教委・校長の方ではないか!そして、「反省」せよ!とは考えを変えろ!転向せよということではないか。これぞ、「思想・良心の自由」の侵害を裁判所が是認したといことだ!
③のもう一つのこと、予防拘禁的に「職員室勤務」を命じたことに対して抗議したことについては、判決批判の3でくわしく述べる。
④自己申告書を提出しなかったことについては、驚天動地、前代未聞の一つでもあるので、
判決批判の4で述べる。
12・12判決批判、その2
12・12判決批判の第二は、再任用するかどうかの「勤務実績」に、この内藤判決は、「職務の適格性」や「服務規律違反の有無」まで「判断」の材料に加えたことである。いや、むしろ、上の2つ、「職務の適格性」や「服務規律違反の有無」で、教師の「勤務実績」を「判断」せよと、12・12判決は言った。これぞ、恐るべき「判断」と言わずして何と言うべきか!
判決書の42ページは次のように書く。
「『勤務実績』について、『教諭がつかさどる児童に対する教育活動と責任を遂行した実績』
に限定されるという合理的な理由は見いだし難く、かえって、職務の適格性や服務規律違反の有無を含めて判断するのが、上記した再任用選考制度の趣旨目的等に照らして相当というべきである」と。
内藤裁判長が言う、「職務の適格性」や「服務規律違反の有無」とは何か?君が代」を立って歌えという職務命令に従うかどうかで、「職務の適格性」や「服務規律」は決まる、決めていいんだと言っている!ということだ。
そして、「君が代」を立って歌えという職務命令に従わないような教員は、「職務の適格性」はなく、「服務規律違反」であるから、再任用しなくて当然、クビを切るのは当然だと言っている!それが「再任用選考制度の趣旨目的等に照らして相当」と、ぬけぬけと書いた。どこにこんなことが「再任用制度の趣旨目的」と書いてある。こんな「趣旨目的」を見たことも聞いたこともない。
こんな不当・不合理なことがあるか!怒り心頭!怒りは天に達せんばかりである。子どもたちの教育に真摯に向き合ってきた37年間の「勤務実績」、そんなものは関係ないんだ、教員の「勤務実績」は、「君が代」の50秒ですべて決める、「君が代」を立って歌えという職務命令に唯々諾々と従うアイヒマンでない者はクビにして当然と言った!こんな不当、不合理、恐るべき判決があるか!
11月15日と24日に最大の山場といえる証人尋問が終わり、2月9日の裁判を経て来春には判決を迎えようとしている私たちの再任用合格取消の撤回を求める裁判でも、内藤裁判長は、「勤務実績」を「職務の適格性」や「服務規律違反の有無」のみで「判断」して、再任用合格取消は当然=公訴棄却の判決を下ろしてくるかもしれない。
しかし、私たちには強い味方のまっとうな判例がある!
2015年12月10日の東京高裁・柴田寛之裁判長の判決をしかと見よ!
この東京高裁判決は何と判示したか。「君が代」を立って歌えという「本件職務命令違反だけで従前の勤務成績の良否という判断を可能とする位置付けが与えられているものと評価することはできない」と書いた。つまり、「君が代」の50秒だけで「勤務成績」を決めてはいけないと判示したのだ!
さらには、これ以前の同年5月25日、東京地裁・吉田徹裁判長の判決も眼を見開いてご覧あれ!この東京地裁判決は「勤務実績」の判断について、次のように判示した。
「本件職務命令に違反する行為の非違性を不当に重く扱う一方で、原告らの従前の勤務成績を判定する際に考慮されるべき多種多様な要素、原告らが教職員として長年培った知識や技能、経験、学校教育に対する意欲等を全く考慮しないものであるから、定年退職者の生活保障並びに教職を長く経験してきた者の知識及び経験等の活用という再雇用制度、非常勤教員制度等の趣旨にも反し、また、本件通達発出以前の再雇用制度等の運用実態とも大きく異なるものであり、・・・原告らの合理的な期待を、大きく侵害するものと評価するのが相当である」
と。
この東京地裁判決でも、「勤務実績」を「君が代」不起立の職務命令違反だけで決めて再雇用拒否はダメだと判示した。そして、東京地裁も高裁も「勤務実績」の判断に、「職務の適格性」や「服務規律」等をふくめていいなんて、一言半句も書いていない。いや、むしろ逆だ!「勤務実績」を「君が代」の50秒だけで決めてはいかん!「多種多様な要素」で「勤務実績」を考慮せよと言っているのだ。
そして、再任用制度の「趣旨目的」をねじ曲げた内藤裁判長とは違い、この東京地裁・高裁判決は「再雇用制度の趣旨」も正しく書き、教職員の「期待権」をも認めている。これがまっとうな判決だ!まともな司法判断というものだ!内藤裁判長は、この東京地裁・高裁の判決が判示した判断枠組み、法理、判決にもとづいて、また、裁判官の良心と「品位」をもって、私たちの再任用合格取消を撤回する、まっとうな判決を下すべきだ!
12・12判決批判、その3
12・12判決批判の第三は、豊中市教委と校長が、佐藤さんに対して予防拘禁的に「職員室勤務」を命じたことを是とした点である。それが何の法的根拠がないにも関わらず、予断と偏見、「懸念」と「推認」で、内藤裁判長は是とした。これほどの法を無視した「悪質」な「品位」なき判決があろうか!
12・12判決は41ページで次のように書く。
「原告の平成24年度卒業式準備過程における行為自体は、職務命令に違反する行為とはいえないものの、原告の職員会議での発言や宮崎校長に対する言動を鑑みれば、平成24年度卒業式においても、本件所為と同様の行為をすることを懸念させるものであることは否定できない。そうすると、少なくとも上記①の事実に関連し、原告が今後も本件所為の行為を行うであろうことを推認させるものであろうことを推認させる事情であると評価することができる」と。だから、卒業式に出席させず、そこから隔離して、予防拘禁的な「職員室勤務」は当然だったと「評価」したのである。
「平成24年度卒業式準備過程」において、佐藤さんは何をしたか?何もしていない。職員会議で卒業式に「日の丸」「君が代」反対の発言はした。「卒業式に関して個別に話をしたいので校長室に来るよう」にという校長の「依頼」を断った。これだけである。
要するに、「日の丸」「君が代」反対の考えを変えず、校長の「依頼」を断ったから、また、「不規則発言等をする可能性が高いと判断し」、卒業式の式場から隔離し、「卒業式に出席しない職員室管理係とするよう指示した」
いったい、いつからこの国では、人の行動を「可能性」だけで「判断」していいとなったのだ!これほどの裁判所の「悪質」な「品位」なき「判断」をいまだ知らない。これは戦前の予防拘禁を今もやっていいんだと裁判所が言ったということではないか!何と恐るべき「判断」であることか!
みなさん、予防拘禁を知っていますか?天皇制国家は、1925年、治安維持法を作り「国体を変革し私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し・・・之に加入したる者は10年以下の懲役又は禁錮に処す」とした。そして、1928年にはそれを「死刑又は無期」とした。さらに、1941年には上に掲げる「罪を犯すの虞れある」者は「予防拘禁に付する」として、東京予防拘禁所を作った。
治安維持法で捕まえられた共産党員らが出獄する時期が迫ると、「再犯の虞れ顕著なる者」の「社会的隔離が急務」だと、非転向の共産党員らを予防拘禁所に閉じこめ自由を奪った。あらかじめ法律によって刑罰を定め、それによって人を裁くというのが、どの国家もとる原則。つまり、罪刑法定主義ということ。ところが、この「予防拘禁」というのは、何ら罪を犯していないのに、「虞れ」があると思想検事が思っただけで、人を閉じこめ、社会から「隔離」し、自由を奪う。
実際、1945年5月末までに非転向の共産党員らが65人も「虞れ」があるとされ予防拘禁所に入れられた。小菅刑務所に在監中の徳田球一も、「現在に於ても尚共産主義を正当なりと確信し、毫も反省の色なく・・・同種の罪を犯すの虞」ありと予防拘禁所に入れられた。朝鮮では日本国内より1ヶ月も早く、「予防拘禁」制が実施され、1944年9月までに89人も予防拘禁所に入れられた。(『思想検事』荻野富士夫著、岩波新書から)
「本件所為と同様の行為」つまり、「君が代」に反対しますと、また、発言するかもしれないと、「懸念させる」「推認させる」と「評価」して、卒業式から排除したのは、予防拘禁と全く同じではないか!この予防拘禁を内藤裁判長は是としたのだ!佐藤さんは何もしていない。考えを変えなかっただけだ。ただ「日の丸」「君が代」反対と発言しただけの佐藤さんに対して、内藤裁判長は、「懸念」と「推認」にもとづいて「判断」を下し、罪刑法定主義すら踏みにじった。この12・12判決ほど「悪質」で「品位」なき判決は未だかつてない。
12・12判決批判、その4
12・12判決批判の第四は、自己申告書を提出しなかったことを再任用拒否の理由に上げていることである。自己申告票の未提出ゆえに、今まで再任用を拒否された人がいるか?そんな人はいまだかつていない。自己申告票を未提出の人も再任用されているのが厳然たる事実だ。
それを12・12判決は、「自己申告票に係る提出義務に違反した点は、決して軽微なものであるとはいえない」と書いて、「品位を害し」「信用を著しく失墜させる」「悪質性」の一つに上げる。いったい、いつから自己申告票の提出は「義務」となったのか?
判決は自己申告票の提出の「義務」の法的根拠に、地方公務員法32条のみを上げる。「職員は・・・地方公共団体の定める規定に従い」を引用し、自己申告票の提出は、この「規定」に「当た」るから、「自己申告票を提出する法的義務を負っていると解される」と、強引に「法的義務」にしてしまう。
私は校長から、あるいは教育委員会から自己申告票の提出が「義務」だなどと一度として聞いたことはない。校長は「出して下さい」とは言ったが、「義務」だ、「出せ」などと言ったことはない。そして、未提出で処分された人もいないし、未提出で再任用を拒否された人もいない。それを強引に「義務」にして、未提出を再任用拒否の理由に上げる。なんという「悪質」な判決か!なんでもかんでも「理由」をあげて、佐藤さんを再任用させないというのは当然だと認めたこの判決は、いかに「品位」なき判決か!
12・12判決批判、その5
12・12判決批判の第五は、2011年5月30日判決を始めとして、最高裁判決をコピーして「君が代」の起立斉唱は「慣例上の儀礼的な所作」「間接な制約となる面がある」が、「許容される」とした点である。
しかし、この判決を長く引用して、「原告が国歌斉唱時に不起立不斉唱であった点を本件不合格事由の一つとすることは、憲法19条に違反するとはいえず、この点に関する原告の主張は理由がない」とするのは、最高裁の判決をも大きく逸脱し、乱暴な「判決」である。
なぜなら、最高裁判決は確かに、「慣例上の儀礼的な所作」「間接な制約」論で「君が代」を立って歌えという職務命令は「合憲」とした。(この最高裁判決をもちろん是認するわけではない)しかし、2012年度卒業式において、佐藤さんには「君が代」を立って歌えという職務命令は出されていない。
それゆえ、12・12判決は、「君が代」不起立に対して、佐藤さんの職務命令違反を一言半句も書くことはできない。当然だ!しかし、それにもかかわらず、この判決は、「君が代」で座っただけで、再任用不合格=拒否の「事由」とすることを是としている!何という恐るべき判決か!いまだかつてない、何という乱暴な判決か!
2011年「国旗国歌条例」以前に、「君が代」不起立を理由にして再任用拒否された人がいたか?そんな人はいない!当たり前だ、職務命令が出されていなかったからだ。
東京地裁・高裁判決では、2003年10.23通達以前と以後で、すなわち、職務命令が出されたか、出されないかで、再雇用に違いが出るのは、平等性を損なう、「君が代」を立って歌えという職務命令違反だけで「勤務実績の良否」を決めるのは違法という判決が出ているのだ。
しかし、この12・12判決は、「君が代」不起立の職務命令違反でもないのに、「君が代」不起立だけで再任用不合格=拒否は当然としたのだ!内藤裁判長よ、あなたは、東京高裁の判決を飛びこえ、さらには最高裁判決すら無視し、飛びこして、「君が代」不起立だけで再任用拒否、クビにせよと言うのか!なんという「悪質」かつ「品位」なき独裁的な判決か!
まだ、ある!
学習指導要領を根拠に出しながら、しかし、「要領」を「要綱」と、つまり、「学習指導要綱」などと書いている。あるいは、「教育指導要領」などと書いている。
学習指導要領を、裁判官はどこまで認識しているのか?教育のことを何もご存じないのではないか。何もご存じない裁判官が、職務命令を出されても、「君が代」で立って歌うことは、教師の良心に反するから絶対できませんと座った私たち教員を裁くことができるのだろうかと疑念をいだかずにはいられない。
いや、そもそも、奴隷の思想とアイヒマンの道は拒否し、歴史の真実にしっかり根ざして「教えるとは、希望を語ること。学ぶとは、誠実を胸にきざむこと」を胸に教師の譲れぬ良心にもとづいて、「君が代」で座った私たちを、憲法や法律をねじ曲げる裁判官に裁けるわけがない。
歴史の審判という法廷に引き出された時、どちらに義があり、道理があるか明らかである。