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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

「君が代」不起立戒告処分取り消し共同訴訟控訴審陳述書

2018-07-30 10:08:35 | 「君が代」裁判
2018年7月25日大阪高裁控訴審第1回口頭弁論において、7名の原告全員が意見陳述をしました。当日裁判所に提出しました全員の陳述書を掲載しますので、どうかお読みください。


意 見 陳 述 書


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控訴人 梅原 聡

一審判決に関しては、陳述したいことが数多くありますが、いくつかの点についてだけ述べます。国旗国歌条例は「生徒の愛国心を高揚させる」ことを目的とし、そのための手段として教員に率先垂範して国歌斉唱時の起立斉唱するよう義務づけています。全教員が、内心に反しても起立斉唱をするようになれば、生徒たち、特に「日の丸・君が代」そのものに負の感情を持つ生徒や、儀礼的なものであれ国家のシンボルに対する敬意表明の強制を疑問に思う生徒の行動や気持ちに強力な枷をはめるものであることは間違いがありません。これが、旭川学テ判決で憲法に反し許されないとされた「一方的な観念を子供に植え付けるような内容の教育を強制的に施す」ことでなくてなんなのでしょうか。このことを考えれば、私は上司の命令であろうとも従うことができません。上司の命令に従うことがいつも正しいことかどうか、そうでない場合もあまたあることを歴史上の事実として私たちは知っているからです。このことから、この職務命令や職務命令違反に伴う処分が、私の良心を直接的に制約する重大な憲法違反であると考えます。

私たち教員は、一人一人の現実の生徒たちと向き合いながら教育活動を行います。決して、抽象的な「生徒」一般に対して教育を行うわけではありません。私たちの不起立が「式典の秩序や雰囲気を一定程度損なうものであって、それにより式典に参列する生徒への影響を伴うことは否定しがたい」とされています。実際に式に参加した生徒への影響はどうだったのでしょうか。私の行動を批判的に捉えた者が皆無であるとは言いませんが、直接反応があったものに関していえば、私の行動を支持ないし許容するものが圧倒的多数であることは事実です。また、卒業式の場で私を批判した西田大阪府議は、保護者から批判されて、自らの発言を謝罪せざるを得なくなりました。間接的に聞いている部分でもはっきりとわたしの行動を批判したものは、保護者からの1本の電話以外にはありません。一審では生徒の証人申請も却下しましたが、どのように秩序や雰囲気を損ない、どんな影響を生徒に与えたというのでしょうか。一審判決では「自己の教育上の信念を優先させて、あえて式典の秩序に反する特異な行動に及んだもので、厳しい非難に値する」と結論づけていますが、それは、裁判官の頭に浮かんだ抽象的なイメージに対するの個人的感想に過ぎません。それが、私たちに下された判決の根拠であるならば、日本の司法も地に落ちたと言うべきでしょう。控訴審では判例にみられるような文言を適当に配列して判決を書くのではなく、事実としてあったことを法理に照らして判決を書かれるように強く求めます。
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控訴人 奥野 泰孝  

私は2012年3月、茨木支援学校高等部の卒業式の「国歌斉唱」時の不起立で戒告処分を受け、この取消しを求めてこの裁判に訴えています。2011年6月に出来た大阪府のいわゆる「国旗国歌法」、それに基づく、職務命令によって処分の意味付けがされています。この処分の根拠が間違っていると私は主張しているのです。その後、私は、2013年3月に減給処分、2015年5月に戒告処分を受け、取消しを求めて裁判等を起していますが、これらはこの最初の処分取消訴えの変奏曲です。主題はすべてこの2012年3月の処分の件に詰まっています。卒業式で国歌斉唱が行われ、その時私は座っていた。それだけです。しかし、その意味を理解してもらう闘いが続いています。卒業式も勤務時間内であり私は公務員であり支援学校教員としての仕事をしていました。「不起立」も教職公務員としての仕事の一部です。
 憲法の文言の理解から意見を述べます。まず前文・・・
「わが国全土 にわたって 自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為 によって 再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」・・・明治政府以来、「君が代」という歌は天皇中心の富国強兵、帝国主義推進の臣民づくりのために用いられてきたのです。この歌の強制は戦争を起こす前兆と考えます
「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及および詔勅を排除する。」・・・人類普遍の原理なのであって、「国歌」の問題が人類普遍の原理に反しないかチェックできる規範になると信じます。
以下は憲法本文・・・
「第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力 によって、これを 保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。」・・・私は自由及び権利を不断の努力によって保持しようとしているのです。そして少数者の権利が不当に侵害されないように公共の福祉のために使おうとしているのです。
「第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」・・・教職公務員として「人権尊重」という基本が守られるよう発言し、行動することは全体に対する奉仕と考えます。少数者の権利が守られているかという行動基準は「一部の奉仕」ではありません。
「第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」・・・「君が代」の起立斉唱の強制は天皇制に則る強制であり、再び「朕」と「臣民」の関係へ繋がる奴隷的拘束に繋がるのです。
「第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」・・・まさに大阪府の条例とそれに基づく特殊な職務命令は、憲法第19条に反しているのです。
「第二十条 信教の自由は、何人 に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人 も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」・・・「君が代」の内容は明らかに「宗教歌」であります。これを信仰の問題として歌えないとする者を処罰することは国家による宗教上の行為への強制であり憲法20条違反です。
「第九十八条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」・・・国際条約である「障害者権利条約」は「確立された国際法規」と言えます。そこにある思想「障害のある人に必要な配慮を、出来るのにやらないことは差別だ」ということに基づき、特別支援学校の教職員は行動すべきです。学校の卒入学式は生徒が主役で国家が主役ではありません。社会の中で「障害者」として少数者として不利益をこうむりやすい児童生徒への配慮が必要であります。また一人一人の教育を受ける権利が守られるよう実践すること自体が、教育活動と信じます。支援学校ですから、身体的に立てない児童生徒が多くいます。しかし、保護者や職員、立てる生徒全員が立つと、立てない児童生徒は少数者です。立つ人間が壁となり周りも見えなくなります。立つ必要が無いことを示し、車いすの児童生徒と同じ視線の高さで寄り添い、介助など必要な教育活動に備え、またそれを行うことは、教員として当然のことです。あえて「合理的配慮」ということもないのかもしれません。
「第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」・・・自己の信仰によって立てない者がいる。思想・良心の問題として立てない者がいる(その思想は学習によって得たのかもしれないし、体験かもしれないし、家庭教育からかもしれない。しかしどれも自立した個人の判断です)。障害によって立てない者がいる。これらの立場、権利を守るため声を出すことは「この憲法を尊重し擁護する義務」を果たしていることになります。たとえ人間の作った憲法に書いてなくても、自然法として人権というものを捉えることができるなら、少数者の権利が不当に侵害されていれば、立ちあがるのが当然と考えます。私はそこのところをキリスト信仰から導かれています。
「不起立」は教職公務員としての行為です。人間として良心に従った行為です。信仰者として真摯な行為です。それを処分する職務命令、条例を違法とし処分が取り消されることを望みます。
(以上)
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控訴人山口 広  

私は「君が代」を歌うことができない。というよりも歌うことを拒否する。
なぜなら「君が代」は現人神とされた天皇の治める世の中が末永く続くことを願う歌(その意味で宗教歌)であり、その下で多くの若者が戦場に駆り出され、命を失い、また夥しい数のアジアの民衆の命を奪ったからだ。これは紛れも無い歴史的事実だ(個人的な歴史観・世界観ではない)。
私は、教え子を再び戦場に行かせないという、戦後民主主義教育の中で確立された原則を学び、戦争につながる一切のものに手を貸さない、拒否する、と心に誓った者として、天皇をたたえ、戦争を美化する「君が代」を学校教育で児童生徒に歌わせることに反対する。だから、私は一貫して「君が代」の強制に反対し、立って歌わなかった。これは私の思想良心の自由に関わる問題だ。それを守るのが憲法19条だ。
今、「君が代」を学校で歌ったからといって、それがすぐ戦争につながるなんて考えられない。スポーツ大会なんかではみんな立って歌ってるじゃないか。国歌なんだから日本の学校で歌うのは当然じゃないか。など、肯定する人の意見が多くあることは知っている。しかしそれはあくまで立つ立たない、歌う歌わないという選択の自由がある限りにおいて、そういう意見を私は容認することができる。しかし立たない自由、歌わない自由が完全否定される職務命令の下では、なぜそこまでして強制しないといけないのか、その先に何がやってくるのか、考えると従うことはできない。
今、日本の政官界全般に腐敗堕落が進行している。
モリカケ問題に見られる安倍政権の対応。誰が見ても安倍の存在自体が根源であることが明確だ。にもかかわらず、決裁文書改ざんの責任をすべて部下に押し付け、本来同志であった仲間を詐欺師だといって裏切り、また一方で友達に金を儲けさせるために便宜を図らせる。そして息を吐くようにうそをつく。そんな批判もお構い無しに、自らは首相という地位に恋々としがみつこうとしている。まさに腐敗堕落の極みと言える。
そんな安倍の権力を恐れてか、忖度してか、取り入りたいからか、裁判所の裁判官自体の劣化も見るに耐えない状況である。つまり原発問題、基地問題など憲法上の国民の権利を踏みにじってでも行政の裁量を優先させ、電力資本や土建資本などのより大きく強い側の見方をする判決を連発している。この「君が代」処分問題もしかりである。
このまま行くと日本は戦争に明け暮れ、国民の自由や人権は大きく制限された、戦前のような暗黒の軍国主義社会に舞い戻ってしまう。そんな危機感が現実化しかねない。
安倍はそんな戦前社会を「美しい国」といって取り戻そうというのである。
裁判官諸氏に問う。あなたはそんな社会に、あなた自身のみならず、あなたの子や孫、若者たちを引きずり込みたいか?権力者が威張り散らし横暴を振るい、弱い者を虐げる、それがあたりまえという社会を法の番人として容認するのか?日本国憲法の三原則、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重、これらは取るに足らないつまらないものか?あなたたちはどう考えるのか?ぜひその答えを聞きたい。                                 以上。
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控訴人 志 水 博 子  

私は、「君が代」起立斉唱の職務命令にはどうしても従うことができませんでした。命令を出す根拠となった、国旗国歌条例は、教職員から教育の自由を奪い、ひいては子どもの教育権を侵害すると考えます。
かつて軍国少女であった母から「教育は恐ろしい」と何度も聞かされました。在日の生徒に対し、戦前と同じような、「同化」すなわち日本人化教育に手を貸すことはできません。条例下、校長は、「処分」者を出さないことだけを考え、生徒の中には「先生、口パクしたらええやん」という者さえいました。誰もが条例ができた以上は命令に従わざるを得ないと考えるようになったわけです。しかし、それこそがおかしなことではないでしょうか。命令であれば従うことは絶対なのでしょうか。

原判決では、教育基本法の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という表現と、条例の「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する意識の高揚に資する」という表現は同じ内容と判断されています。しかし、両者は明らかに違います。

条例が教育の目的としてあげているのは「意識の高揚」なのです。意識の高揚とは、「気分が高まる、精神が興奮状態となり昂ぶった状態」を指します。

「意識の高揚」―まさに戦時、教員は子どもを愛国の意識の高揚に導き戦争に加担したのではありませんか。私の母が見事な軍国少女であったのは「国を愛した」からではありません。教育によって「国を愛する意識の高揚」が図られらたからです。

条例は、教職員の国歌斉唱により子どもの「意識の高揚」を目的としたものであり、憲法が禁じている領域に踏みこんでいます。

また、不起立2回目で出される「警告書」は、3回目の「君が代」不起立は免職があり得ることを示しています。「君が代」不起立3回でクビもあり得ると否が応でも認識させられることになったわけです。

原判決は、本件戒告処分は懲戒処分であり、職員基本条例27条2項の分限処分とは無関係であり憲法19条違反には当たらないと判断されています。しかし、職員基本条例29条1項に基づく「警告書」の、1、2は懲戒処分、3は分限処分、よって1、2と3は無関係であるなどという詭弁が通用するでしょうか。そもそも職員基本条例第八章第2節として、地方公務員法にはない〈職務命令に対する違反〉の項目を設け、その第27条において、1項の懲戒処分から2項の分限処分に転換されていることこそが、「君が代」不起立者の排除を企図していることを立証しています。まさに西原意見書にあるように、職員基本条例は国歌国旗条例と一体となり、特定の思想の教職員を排除するものとして機能しており憲法19条に反します。控訴審では西原意見書について真正面から判断されんことを望みます。
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控訴人 増 田 俊 道 
 
1 はじめに
 私は、現在57歳です。60歳の定年まで働くとすれば、あと4回の卒業式と3回の入学式を迎えます。貴裁判所の判決が、今後どのような教員生活を送るかについての重要な判断材料になるため、判決内容に大きな不安と期待を抱いています。

2 地裁判決で判断していただいていない点
(1)大阪の全府立高校では、合格者説明会または入学式に「互いに違いを認めあい、共に生きる社会を築いていくために~生徒と保護者のみなさんへ~」という文章を配布しています。その中には、「大阪府内の学校には、日本と韓国・朝鮮との歴史的経緯によって日本で生まれ育った韓国・朝鮮人の生徒や、中国、ブラジル、ベトナム、フィリピンなど様々な国にルーツをもつ生徒がたくさん学んで」いること、「日本に固有の文化があるように、それぞれの国や民族には、それぞれの異なる文化や習慣、言葉、名前などが」あること。「そのような中で、これからの社会を担う皆さん一人ひとりが、互いの違いを認めあい、共に生きていこうとする態度を身につけていくことが大切」であることを訴えています。しかし、府国旗国歌条例は,第1条において,「府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱について定めることにより,府民,とりわけ次代を担う子どもが伝統と文化を尊重し,それらを育んできた我が国と郷土を愛する意識の高揚に資するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと並びに府立学校及び府内の市町村立学校における服務規律の厳格化を図ることを目的とする」としていて、大阪府民である様々な国にルーツをもつ生徒の存在を完全に無視しているか、日本人への同化を迫るものに他なりません。そのような条例に基づく通達や職務命令に従うことは単なる服務規律の問題ではなく、排外主義、同化主義に加担することを強要されているということです。だから従うことができないのです。それでも従わなければ戒告処分に相当するのでしょうか。

(2)地裁判決は,「3アウト制」の問題は「抽象的違憲審査を求めるものである」と言っています。しかし私は、今年の5月18日に「君が代」不起立による2回目の戒告処分を受けました。なぜ前回の処分から5年の間があったかといえば、その間は卒業式、入学式においては式場外勤務の職務命令を受け、教員を続けるためには甘んじてその職務命令を受けざるを得なかったからです。そして、5年ぶりに3年生の担任として卒業式に参列できたのです。それにもかかわらず、今回は戒告の懲戒処分を受けるとともに、「職員基本条例29条2項に基づき、今後、同一の職務命令違反を行った場合に免職処分を受けることがある」旨の「警告書」の交付を受けました。「3アウト制」による威嚇が現実的に発揮され、私の教師生命は首の皮一枚で繋がっている状態です。これからの教員生活は、思想・信条や自分の信念を投げ捨てて、おとなしく「死に体」で過ごせということなのでしょうか。

3 さいごに
 地裁の内藤裁判長は、「原告らによる本件職務命令違反行為は」、「自己の教育上の信念等を優先させて、あえて式典の秩序に反する特異な行動に及んだもので、厳しい非難に値するものであるいうべきである」と断じました。私たちの真摯な教育活動がこのような偏見に満ちた判断をされたことを許すことはできません。貴裁判所が冷静に判断していただけますよう切に希望します。
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控訴人 松 村 宜 彦  
 
下記のとおり陳述します。


1. 私は、とりわけ「府国旗国歌条例4条が憲法94条に反すること(争点5)」について陳述します。
ここに、私が枚方市内の府立高校に勤めていた時の、2001年と書かれた卒業アルバムがあります。そこに、当学年の入学式の写真があります。それは、全員着席したままの新入生、着席した8人の担任、約4分の3の保護者が着席、起立した来賓の教育委員会関係者ら4名が写っている写真です。これはまぎれもない、入学式での君が代斉唱時の写真です。この年、式会場に始めてテープによる君が代演奏が持ち込まれました。起立する者がわずかでも、何の混乱も起こりませんでした。
これまで、ほとんどの府立高校の入学式・卒業式では、君が代斉唱や起立が慣習などにはなっていないこと、日の丸の掲揚・君が代斉唱が式で教育上必要だと考え提案する教員などいなかったこと、日の丸・君が代は府教委によって強制を伴って持ち込まれたものであること、これらは大阪の府立学校に勤めた者ならばだれもが知っていることです。
しかし、2012年卒業式からはそれが一変しました。それは2011年6月に、大阪府国旗国歌条例が制定されたからです。2012年の卒業式を前にした多くの府立学校の教職員会議では、校長がそれまでとは違って「君が代起立の職務命令」を出してきました。いえ、それまでの様に校長が職務命令を判断するのではなく、校長の頭越しに教育長が直接教員に対して学校行事での職務命令を行うというものでした。学習指導要領には日の丸・君が代は学校行事の項で扱われているだけであり、学校行事のあり方は所属長である校長が判断するものとなっています。
私が戒告処分を受けた交野高校の当時の中田校長は、前年の2011年の組合交渉の場で「教育の場で職務命令はなじまない、職務命令は100年に1度出すか出さないかのものだ。」と言っていました。私たちはその年の入学式で君が代斉唱時、起立しませんでしたが、当然処分もされませんでした。そう言っていた校長は、なんと2012年卒業式からは毎年、職務命令を出しているではありませんか。何が、校長の行動を変えさせたのでしょうか。

2. 1999年8月に国会で「国旗国歌法」が制定されました。これは、国旗が日の丸で、国歌が君が代であるという慣習を明文化したものと言われました。国会における議論では、当然、日清戦争から第2次大戦までの52年間にわたる日本の戦争の歴史の中で日の丸・君が代がどう使われたかが問われ、天皇をアマテラスオオミカミ=太陽神としてシンボル化した日の丸や、「君が代は千代に八千代に」=天皇の支配する時代は千年も万年も続け、としていた歌詞が取り上げられ、これが現憲法の国民主権、思想信条の自由、信仰の自由と相いれないのではないかと指摘されました。なによりも教育の場で、かっての様に国家の進める軍国教育の道具として、日の丸・君が代を使ってはならないとの危惧から、当時の小渕首相が、法案成立時の談話で「今回の法制化は、国民に新たな義務を課すものではありません」と述べ、国会において「現行の運用に変更が生ずることにはならない」、「子どもの良心の自由を制約しようというものではない」と答弁しました。

3. しかし、大阪では明らかに運用が変わったのです。「大阪の教育委員会をぶっ潰せ」と主張し、大衆の教育不信をあおって登場した橋下徹前府知事は、その支持団体である大阪維新の会をして作らせたのが、2011年6月の「府国旗国歌条例」です。
彼は「大阪府は倒産しかけの会社で、教員を含む全ての府職員は私の部下である。」と言い張り、行政から独立しているはずの教育にも乱暴に介入してきました。「府国旗国歌条例」では、それまでなかった「教職員による国歌の斉唱」義務を負わせ、府立学校での運用を変更してきたのです。
更には、この条例の目的として「子どもが伝統を尊重し、愛国心を養う」ことを定め、日の丸や君が代の歴史に疑問をもつ子どもの良心の自由を、特定の方向に制約しようとしています。この合同裁判の梅原事案に登場する教え子の思想信条の自由は、大きく制約されてしまったのです。
以上から、府国旗国歌条例4条は、憲法94条に反することは明らかです。

4. ナチスドイツが戦争に向かう時、最初に収容し虐殺したのがエホバの証人信徒1万人でした。信仰の自由から、ナチスドイツが強制する「ハイル・ヒットラー」の敬礼を拒否したからです。この様に、愛国的儀礼的所作を強制し、それに従わない者を処分で脅すことは戦争への一里塚になることを忘れてはいけません。

「日の丸」「君が代」を学校行事でどう扱うかは、学校ごとに主体的に判断されるべきものであり、配慮されるべきは生徒たちの思想・信条の自由です。それゆえ、生徒自身が、日の丸・君が代の歴史的意味や戦後の扱われ方を学んで自分の判断を持てるようにすることこそ、主権者を育てる上で欠かすことのできないことなのです。
そして、その生徒の人権を守るためにも、「式の中での、処分をちらつかせた強制」に従わないことが教員の良心なのです。
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控訴人 井 前 弘 幸
  
1 はじめに
大阪府「国旗・国歌条例」の目的は、すべての教職員が「日の丸・君が代」に敬意を表明している姿を子どもたちに見せることにより、子どもたちの心の内に「我が国と郷土を愛する意識」を浸透させることです。今の情勢の下で、教職員が上意下達の「行政命令」に服従せざるを得ない姿勢を示すことは、それ自体が、間接的に子どもたちにも同様の服従を迫ることです。やがて、抵抗そのものがなくなる過程で、間接的であった子どもたちへの同調圧力が、直接的な強制へとつながって行くことは明らかです。
原審判決は、「原告らによる本件職務命令違反行為は、・・・自己の教育上の信念等を優先させて、あえて式典の秩序に反する特異な行動に及んだもので、厳しい非難に値するものであるいうべきである」と断じました。判決理由の文脈から、「職務命令違反」かどうかの問題の前に、「国歌」斉唱時の「不起立」自体が厳しく非難すべき行為だと考える裁判官の一面的な価値観に基づいた判断です。
政治・行政組織による強制に、政治から独立していなければならない教育も司法も、このような同調の連鎖に絡め取られてはいけない最前線の現場だと思います。

2 原審判決に事実に基づかない判断あり
原審判決は、「国歌斉唱時の不起立」を「特異な行動」「厳しく非難すべき」と批判します。しかし、本年7月19日の「君が代不起立による再雇用拒否」裁判の最高裁判決を翌日の朝日新聞社説は強く批判しました。そして、「個人の尊厳を重んじ、多様な価値観を持つことを認め合う。そういう人間を育て、民主的な社会を築くのが教育の使命だ。そして、行政や立法にそれを脅かす動きがあれば、権限を発動してストップをかけることが、司法には期待されている。」と締めくくっています。このような議論があること自体、「不起立」が「特異な行動」として議論の余地なく一蹴されるものではありません。
原審において、尾之上校長に対する証人尋問が行われました。私は、この証人尋問で、O校長もまた教育に介入する政治に対する抵抗を試みていたことを確信しました。以下は、原告側代理人と校長とのやり取りの一部です。
原告代理人「7日の職員会議では、内と外を明示した役割分担書を配布しないんだということも、井前さんにおっしゃいましたね。」
O校長「配布しないでおこうかなということを井前先生に伝えました。」
原告代理人質問「あなたは井前さんに、職員会議で国旗掲揚・国歌斉唱の入った提案がされるが、これについて自由に意見をいってもらってよいと言ったんじゃないですか。」
O校長「はい。若い先生も多いので、そういう考え方もあるということについては、是非とも井前先生のご自由な発言をしていただければ・・。」
原告代理人「起立斉唱について、職務命令であるという言葉は使わないつもりだということを井前さんにおっしゃいましたね。」
O校長「文言として職務命令という言葉は使わずにという話はしました。」
原告代理人「違反した場合には、職務上の責任を問われるという言葉も職員会議では使わないということも、井前さんにおっしゃいましたね。」
O校長「はい。」
 
原審判決は、上記内容を事実認定してもなお、O校長の「お願い」は「職務命令」だと断じました。職員基本条例が、「職務命令違反」の懲戒対象を文書によると限定していることからも大きく逸脱しています。O校長が、文書による「命令」も、「職務命令」という言葉も使わない決断をした背景に、職員基本条例があることは明らかです。

被控訴人は、あえて「起立するかしないかは井前さんにお任せします」と話したことを、「O校長が控訴人井前に対する起立斉唱の指導・説得をしないと決意した発言」とこじつけています。ならばなぜ、尾之上校長は、「府教委マニュアル」に従って、井前への文書による個別の「職務命令」を発出しなかったのでしょうか。

3 終わりに
 私は、前任校で、上記条例下で3年生担任として卒業式に参加し、「国歌斉唱時」着席しました。翌年は、新入学生の学年主任でしたが、式途中に入場し、「国歌斉唱」時に不在でした。人権教育推進委員会として、起立斉唱を行うかどうかを自分の判断で選択できる憲法に基づく権利があることを、卒業式前の卒業生と在校生に話しました。

 当時の校長は、これらすべてに暗黙の了承を与えていました。校長の判断として、「不起立の現認」を行わず、府教委に「不起立者」報告をしていません。さらに、退職後、本裁判に取り組む私の行動を励まし、カンパを寄せてくださっています。

 原審判決のいう「特異な行動」「厳しく非難すべき」という一面的な批判は、この事実からだけでも不当な言いがかりという他ありません。公正な判断をお願いいたします。
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