「君が代」条例を制定し、すべての教職員に「君が代」起立斉唱させるため職務命令を出す、、、このことについて、私は、これまでに何度も、「これは異常なことだ。教職員が命令で国歌を歌わせられるようなことになれば、次は、間違いなく、生徒への強制が起こる」と言ってきた。橋下徹をはじめ大阪維新の政治家や、教育行政である教育委員会は子どもには強制しないと決まり文句のように反論していたが、彼ら自身も知っているはずだ。学校がどういうところか。
残念ながら、命令されて、ことを行うようになれば、命令された教員は今度は同じことを生徒に「指導」と称して強制する。これは如何ともしがたい現実である。だからこそ、私たちは抵抗してきたのだ。ねらいは子どもたちに歌わせることだ。子どもたちを束ね、ナショナリズム(国家意識)を注入するのに、「日の丸」「君が代」ほど便利な道具はない。シンボルとは、論理ではなく、直接身心に刻み込んでいく。
そして、強制されたナショナリズムの攻撃は、ニッポンジンの束ねからはみ出すものぬ向けられる。集団同調圧力の強いこの国では、それがどんな恐ろしことか、中には、その恐ろしさから、自ら強制に従おうとするものも出てくるだろう。また、束ねの中で奇妙な安心感のもとにそこに何かしらの居場所を作ろうとする者も出てくるだろう。これだけ不安な社会で身を守るために。
教員が命令で歌わせられる現実の次に起こるのは子どもへの強制だ。そう言ってはきたが、その現実を見せられると言葉を失う。以下は、フェイスブックに投稿されていた記事。ご本人の了承を得てテキストのみ掲載する。
すっごーくショック。卒業式練習で三年が高らかに君が代歌った!もう、ひっくり返りそうになった!音楽教師は直立して歌え~!なんて戦時中かと思わせるような指示を!今日の職員会議で追求します!
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今日の職員会議で以下のプリントを全教職員に配って、校長に質問した。校長は「指導要領にある通りしたまで、市教委からの指示も議員からの圧力もない」と。「生徒にうたう義務はあるか?」と聞くと、「先生方には歌わせる義務がある」と教頭。「歌わせるんですか?生徒に歌う義務はあるのかと聞いてるんです。」「生徒はありません」と教頭。「そうですよね。この歌は卒業式で歌うどの歌とも違うんです。歌わせなければならない強制の歌です」「どの歌もそうでしょう」と教頭。「違います。他の歌は子どもたちが喜んで歌える歌です。君が代の歴史を考えたらわかります。私は今日の練習で子どもたちが歌わされてるのを聞いて、戦前の学校かとおもいました。残念です」。「先生方には式が滞りなく行われるようよろしくお願いいたします」と校長。私ともうひとりの社会科教師がこの問題を取り上げた。若い先生方は何か感じてくれただろうか?同じ思いを持っている仲間たちがいる。でも、声に出してほしい。
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国旗国歌法が制定されたとき、衆議院本会議で内閣総理大臣 小渕恵三は以下のように言っている。 (1999(平成11)年6月29日)
「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。
国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」
しかし、学習指導要領には「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」と書かれ、今に至っている。
今回、校長は音楽科に「君が代」を練習するようにと伝えた。校長はどうしてそんな指示を出したのか?昨年までは卒業式で起立はしても、斉唱することを音楽科は教えていないし、生徒たちに指示もしていなかった。これまでは、ずっと斉唱の指導はしてこなかったのだ。
今回、校長が新たな指示を出す上での根拠は何か?どんな情勢の変化があったのか?市教委からの指示か?市議会議員から何かの圧力があったのか?
こんな言葉を思いだした。
ハンナ・アーレントは「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。」と言う。
ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担い、ユダヤ人大虐殺という未曾有の殺人を行った首謀者アイヒマンは、「上から言われたことをしただけ」と裁判で話した。このことから、考えることを放棄することで誰もがアイヒマンになりうるのだ。世界最大の悪を行ったのは上からの命令にただ従った平凡な人間だった。だからこそ、上からの命令に従うだけの人間ではなく、自分で思考しなければならない。
残念ながら、命令されて、ことを行うようになれば、命令された教員は今度は同じことを生徒に「指導」と称して強制する。これは如何ともしがたい現実である。だからこそ、私たちは抵抗してきたのだ。ねらいは子どもたちに歌わせることだ。子どもたちを束ね、ナショナリズム(国家意識)を注入するのに、「日の丸」「君が代」ほど便利な道具はない。シンボルとは、論理ではなく、直接身心に刻み込んでいく。
そして、強制されたナショナリズムの攻撃は、ニッポンジンの束ねからはみ出すものぬ向けられる。集団同調圧力の強いこの国では、それがどんな恐ろしことか、中には、その恐ろしさから、自ら強制に従おうとするものも出てくるだろう。また、束ねの中で奇妙な安心感のもとにそこに何かしらの居場所を作ろうとする者も出てくるだろう。これだけ不安な社会で身を守るために。
教員が命令で歌わせられる現実の次に起こるのは子どもへの強制だ。そう言ってはきたが、その現実を見せられると言葉を失う。以下は、フェイスブックに投稿されていた記事。ご本人の了承を得てテキストのみ掲載する。
すっごーくショック。卒業式練習で三年が高らかに君が代歌った!もう、ひっくり返りそうになった!音楽教師は直立して歌え~!なんて戦時中かと思わせるような指示を!今日の職員会議で追求します!
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今日の職員会議で以下のプリントを全教職員に配って、校長に質問した。校長は「指導要領にある通りしたまで、市教委からの指示も議員からの圧力もない」と。「生徒にうたう義務はあるか?」と聞くと、「先生方には歌わせる義務がある」と教頭。「歌わせるんですか?生徒に歌う義務はあるのかと聞いてるんです。」「生徒はありません」と教頭。「そうですよね。この歌は卒業式で歌うどの歌とも違うんです。歌わせなければならない強制の歌です」「どの歌もそうでしょう」と教頭。「違います。他の歌は子どもたちが喜んで歌える歌です。君が代の歴史を考えたらわかります。私は今日の練習で子どもたちが歌わされてるのを聞いて、戦前の学校かとおもいました。残念です」。「先生方には式が滞りなく行われるようよろしくお願いいたします」と校長。私ともうひとりの社会科教師がこの問題を取り上げた。若い先生方は何か感じてくれただろうか?同じ思いを持っている仲間たちがいる。でも、声に出してほしい。
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国旗国歌法が制定されたとき、衆議院本会議で内閣総理大臣 小渕恵三は以下のように言っている。 (1999(平成11)年6月29日)
「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。
国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」
しかし、学習指導要領には「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」と書かれ、今に至っている。
今回、校長は音楽科に「君が代」を練習するようにと伝えた。校長はどうしてそんな指示を出したのか?昨年までは卒業式で起立はしても、斉唱することを音楽科は教えていないし、生徒たちに指示もしていなかった。これまでは、ずっと斉唱の指導はしてこなかったのだ。
今回、校長が新たな指示を出す上での根拠は何か?どんな情勢の変化があったのか?市教委からの指示か?市議会議員から何かの圧力があったのか?
こんな言葉を思いだした。
ハンナ・アーレントは「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。」と言う。
ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担い、ユダヤ人大虐殺という未曾有の殺人を行った首謀者アイヒマンは、「上から言われたことをしただけ」と裁判で話した。このことから、考えることを放棄することで誰もがアイヒマンになりうるのだ。世界最大の悪を行ったのは上からの命令にただ従った平凡な人間だった。だからこそ、上からの命令に従うだけの人間ではなく、自分で思考しなければならない。