『絶望の裁判所』でいいのか!
「正義」を実現するのが、「裁判所」ではないのか!
裁判官のみなさん、裁判所にお勤めの皆さん、裁判所に来られた皆さん!
元裁判官・瀬木比呂志氏の『絶望の裁判所』(2014年、講談社現代新書)を読まれた方も多いと思います。瀬木氏は同書で「裁判の目的とは」「『大きな正義』と『ささやかな正義』の双方を実現すること」と書かれています。私たちも、そう思っていました。私たち自身が裁判に訴えるまでは・・・。
教科書通りに、子どもたちにも「憲法の番人」が「裁判所」であり、日本の国は「三権分立」だと教えてきました。しかし、裁判所は「憲法の番人」ではなく、「権力の番人」であることを私たちは思い知らされました。これからは子どもたちに裁判所の真の姿を教えていきます。
2011年6月、維新の会と当時の橋下府知事が大阪だけにしかない「国旗国歌条例」を作り、2012年以来、大阪府内の教職員には卒業式・入学式で「君が代」を立って歌えという職務命令が出されています。しかし、天皇の名でアジアへの侵略を行った歴史を無視し、天皇をたたえる歌を歌うことはできないと「君が代」の起立斉唱を拒否すると、ある者は戒告処分や減給処分を受け、また、ある者は再任用の拒否や取消を受けました。
この大阪の条例や「君が代」を立って歌えという職務命令は憲法19条「思想・良心の自由」に違反しているのではないか、処分や再任用取消は不当ではないかと、「やむをえず裁判所に訴えて正義を実現してもらおうと」(同書P4)裁判に訴えてきました。しかし、大阪地裁第5民事部・内藤裁判長が下す判決は、同書の帯に書かれている「裁判所の門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ!」という「絶望の裁判所」そのものの姿を私たちの前につきつけました。
「誠実を胸にきざ」み、良心と憲法に従うのが裁判官ではないのか!
瀬木氏は『絶望の裁判所』で、日本の裁判官は「最高裁判所事務総局」の「奴隷」となっている、とりわけ、事務総局「人事局」は、「人事を一手に握っていることにより、いくらでも裁判官の支配、統制を行うことが可能」。この最高裁「事務総局中心体制」と「それに基づく、上命下服、上意下達のピラミッド型ヒエラルキー」が日本の裁判官を支配している・・・と書かれています。そして、「みずからの基本的人権をほとんど剥奪されて」いて、「精神的奴隷に近い境遇」(P113)にいる裁判官が、「どうして、国民、市民の基本的人権を守ることができようか?」と言われます。また、憲法第76条第3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と「輝かしい言葉で記されている」が、「日本の裁判官の実態は、『すべて裁判官は、最高裁と事務総局に従属してその職権を行い、もっぱら組織の掟とガイドラインによって拘束される』ことになって」いると書かれています。こんなことで日本の裁判所、裁判、裁判官はいいのでしょうか!
フランスの詩人・ルイ・アラゴンは、『教えるとは、希望を語ること。学ぶとは、誠実を胸にきざむこと』と書きました。教師が歴史の真実を『誠実に胸にきざ』まないと、子どもたちに『希望を語ること』はできない。侵略と戦争を進めた天皇をたたえる歌「君が代」を立って歌うことは、『誠実に』『歴史の真実』に立って子どもたちの教育を行おうと考えれば絶対にできないと、私たちは職務命令を出されても「君が代」で座りました。「ヒラメ」と「池どぼ」の裁判官、「絶望の裁判所」では日本の現在も未来もありません。裁判官のみなさん!「誠実を胸にきざ」み「良心」と憲法にのみ従って裁判を行い、判決を書いて下さい。(内藤判決批判は裏面に)
5月10日、菅平和、野村尚、山田肇らの「君が代」不起立を唯一の理由とした再任用合格取消の撤回を求める裁判の判決で、大阪地裁・内藤裁判長は、「再任用合格決定の取消」の撤回を求める訴え等、すべて「却下」、あるいは「棄却」しました。これほど「良心」と「品位」のない、また「悪質」な「判決」は見たことがありません。『絶望の裁判所』そのものの判決です。
原告に「反省」を求めるのが裁判なのか?!
「職務命令違反という自らの行為について、反省の態度を示しているとは認め難い」から、再任用取消は当然だ、こう「判決」に内藤裁判長は書きました。私たちが裁判で問うたのは、「君が代」を立って歌えという職務命令は憲法19条「思想・良心の自由」の侵害ではないか、ということでした。しかし、内藤判決は「職務命令に従う」のは当然、それに「違反」したのだから「反省の態度」を示せ!というのです。教師は「職務命令に従うアイヒマンになれ!」ということです。しかし、教師が命令に従っているだけでは教育は成り立ちません。
判決から肝心の「争点」を外していいのか!裁判所が「踏み絵」を是認していいのか!
「君が代」不起立した教員に対して、「今後、卒業式・入学式等の国歌斉唱時を含む上司の職務命令に従います」という「意向確認書」に署名捺印した者だけを再任用する、つまり現代の「踏み絵」を踏んだ者だけを再任用する府教委のやり口は、この裁判の大きな「争点」でしたが、内藤裁判長は「争点」を15も挙げながら、これについては、「争点」15の中に入れていません。最大の「争点」を外して、「判決」を下ろしていいのか!しかも卑劣なことに、「今後、卒業式・入学式等の国歌斉唱時を含む上司の」という文言を判決文からわざと意識的に削って、「意向確認書は、職務命令に従うことの確認を求めるもの」だ、「教職員が職務命令に従うことは当然のこと」と書き、府教委がやっている「踏み絵」を踏んだ者だけを再任用する、しかし踏まない者はクビにするという、この思想・良心を踏みにじる再任用合否のやり方を認めたのです。裁判所が思想・良心の自由を侵害する「踏み絵」を是認していいのでしょうか!
裁判で差別と不公平・不平等を認めていいのか?!飲酒運転や体罰による「停職」の者も再任用、しかし、「君が代」不起立者はクビ!を裁判所が認めていいのか!
「君が代」不起立によって戒告を受けた者は再任用審査会に上程されるが、他の事案の場合は戒告では上程されず、また、体罰や飲酒運転等で「停職6ヶ月」の者は再任用されているのに、なぜ私たちは「君が代」不起立による「戒告」だけで、しかも現代の「踏み絵」を踏まないと再任用されないのか、こんなことが許されるのか?これも、この裁判の大きな「争点」でした。しかし、驚くべきことに、この事実に、5・10内藤判決は一言半句も言及がありません!再任用審査会の「さ」の字もない。しかし、私たちは問う!飲酒運転や体罰による「停職」より「君が代」不起立を理由とする「戒告」の方が重いということなのか?再任用か否かの判断基準は、「君が代」で立つ、あるいは「踏み絵」を踏むということだと言うのか!裁判所が、こんな差別と不公平・不平等の再任用のあり方を是認していいわけがありません!
理由も示さず説明もせず、判決を下していいのか!「絶望の裁判所」でいいのか!
「府国旗国歌条例」は違憲・違法だという主張に対して、内藤裁判長は「各地方ごとの状況」「実情に応じた対応」を上げ、条例は「違憲・違法ではない」としました。しかし、大阪だけのどんな「地方ごとの状況」があるのか?大阪だけのどんな「実情」があるのか?内藤裁判長は一切書きません。それはそうです。大阪だけに「国旗国歌条例」が必要だなどという「状況」も「実情」もありはしません。しかし、内藤判決は、ないものをあるとして「教育基本法と府国旗国歌条例との間に矛盾抵触」はないと強弁して、何の理由も示さず説明もせず、条例を是としました。判決に書けば何でも是となるのでしょうか。これこそ「絶望の裁判所」です。