立山日和。

立山連峰の山々を眺め富山県内を徘徊する日々を綴ったフォト日記。2014.11.3.までは友人の中国旅を毎日掲載した。

たそがれどき、旧制富山高校跡地(馬場記念公園)を訪ねる(再訪)・・・富山市蓮町

2015年08月20日 | Zenblog
 夕刻近く、ライトレールの蓮町駅近くの馬場記念公園を訪ねました。ここは旧制の富山高校の跡地として残されています。1923(大正12)年富山県立の富山高等学校が設立され、1943(昭和18)年官立(国立)になり、1950(昭和25)年官立富山高等学校は廃止されました。現在の富山大学の前身と言えます。

(1)旧制富山高校正門

 かつて学生が出入りした正門も、今は静かな路地に面しています。左の門柱に「旧制富山高等学校跡地」と表示されています。

(2)旧制富山高校碑

 昭和43年に創立45年を記念して建てられました。

(3)広い校地跡

 広々とした校地が確保され、校舎が建っていました。

(4)弊衣破帽の「青冥万里」像

 昭和48年に創立50年記念として建てられました。高げた黒マントの富高生像です。旧制高校の学生は好んでこういう姿で野性味と高潔さ(バンカラ風)を誇ったのです。「青冥万里」とは剱岳を仰ぎ神通川に俯して真理の道を求めるといった意味かと思います。

(5)寮歌「丘の団欒に」

 旧制高校生はバンカラな格好をして、どら声を張り上げて寮歌を歌い団結心を固めて意気の高さを誇ったのです。当時の郷土や国家を担って立つといったエリート意識の表れともいえます。

(6)当時の校舎配置図

 「ヘルン文庫」が目につきます。創立間もなくラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の蔵書を譲り受けました。現在は富山大学の重要な蔵書になっています。ラフカディオ・ハーンの研究者にとって重要な拠点です。

(7)南日恒太郎先生像

 初代の校長、元三高教授で学習院教授だった南日恒太郎先生を招きました。英語の受験参考書の著作などで有名で、ヘルン文庫も実弟の仲介で譲り受け、旧制富山高校の基礎を築きました。

(8)馬場はる刀自像

 岩瀬の回船問屋の妻であった馬場はるは旧制富山高校設立事業費を寄付、これを基金として建設された、その他ヘルン文庫の購入費、教官の海外留学基金なども寄付しました。

(9)大木として

 富山大学発足時はここに文理学部が置かれ、五福キャンパスへの移転後は「馬場記念公園」として往時を偲ぶ場所になっています。富山大学揺籃の地ということができます。

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4 コメント

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旧制富山高校 (Jing Shang)
2015-08-22 08:40:42
 旧制富山高校は富山県立として創設されたのですね。少し調べてみると旧制第四高校が1987年、旧制新潟高校が1919年に創立されています。とりわけ新潟高校の設立が富山高校創立を刺激したのではないかと思われますがどうでしょうか。
 私の大学受験時代は、後身の富山大学ではまだ文理学部のままだったように思います。
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そうかもしれませんが・・・ (zen)
2015-08-22 09:49:37
 旧制四高は1887ですね。そして旧制新潟高校が1919年、旧制富山高校1923年ですからね。
 ただ当時の鉄道等の交通状況は今のようではなく、富山市と新潟市の間は距離的にはるかな隔たりがあって近くの隣県というイメージではなかったように思います。さらに間に超難関の親不知などの交通難所が横たわっているからです。
 距離で言うと、北陸自動車道で富山市から新潟市までと、富山市から滋賀県彦根市までの距離がほぼ同じで、約250キロです。現在でも滋賀県に行く方がはるかに近いという感覚があります。富山は長い間関西圏でした。 
返信する
旧制富山高校など (Jing Shang)
2015-08-22 11:43:36
 四高は1887年創立です。失礼しました。富山が長い間、関西圏であったことは理解しております。JRも西日本ですものね。
 以下はウィキペディアの受け売りです。1886年の帝国大学令で北海道と沖縄県を除いて全国を五つの区に分け、それぞれに高等中学校(後に高等学校)をおくことになり、新潟、富山、石川、福井の四県を第四区として、1887年金沢に四高が置かれたそうです。旧制新潟高校は八高の後、「九高」を目指したのですが、松本との争いが熾烈となり、ナンバースクールは八高までとし、1919年に新潟、松本、松山、山口に官立(国立)の地名を冠にした高校が置かれました。それで、富山県は新潟県、石川県への対抗から県立の高校を置いたのではないかなと思った次第です。
 話は少し逸れますが、この機会に高岡高商の項も見ました。1924年に内地最後の官立高商として設立された由。文部省の富山県に対するコンペンセーションのように思えます。しかし、設置されたのが富山市ではなく、高岡市であったことは興味をそそられます。富山市と高岡市の間で綱引きがあったのかもしれません。この高岡高商も数奇な変遷を辿ります。戦争中に経済専門学校から工業専門学校に変更になり、戦後経済専門学校に戻らず(彦根、和歌山は経済に戻ったとのこと)、富山大学工学部の前身になったようです。高岡高商の系譜は旧制富山高校の後身である富山大学文理学部に置かれた経済学科に繋がっていることになっているようです。
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なるほど (zen)
2015-08-22 21:13:31
 いろいろ調べてもらってありがとう。そういう近県に対する対抗心もあっただろうことは十分想像できますね。

 それはそれとして、別に富山人独特の勤勉な性格も考えられます。とにかく富山の人は男も女も実に勤勉にこつこつと励みます。こちらの児童生徒の真面目さは関西ではとうていお目にかかれないほどのものです。
 北前船、農耕、山林、売薬で稼いだカネは一夜で使い果たすと言ったことは絶対にありません。大きな家を建て、美田を子孫に残し、郷土のために何らかの貢献をします。ある種真面目な保守性とこつこつとした進取の気性も感じます。
 そういう力も加わって、民間篤志家の手で旧制富山高校が生まれたように思います。
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