不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Il disgusto inspiegabile

2011-12-15 00:41:59 | 日記・エッセイ・コラム
白昼のフィレンツェで起きた
極右人種差別主義イタリア人による
セネガル人射殺事件。

この事件の直後から、
在住日本人の過剰ともいえる反応に対して
自分でも説明のできない嫌悪感をずっと感じている。

私は天の邪鬼だし
偏屈な考え方するし、
常日頃から思考回路もおかしいのかもしれないけどね。
自分でもなんだかすっきりしない気分。

もちろん、人種差別が理由で
罪のない人が命を落とすなんてことは
あってはならないことだと思うし、
民族・人種に関わらず
命は等しく平等だと思ってもいる。
しかし、
一昨日からネットに蔓延る
「差別を理由に外国人が殺されたから怖い」、
「差別が理由ならもしかしたら自分も狙われるかも」
という反応に
甚だしい拒絶反応を示している私がいる。

イタリアだけでなく全世界で
人種差別よりも、もっとばかばかしい理由で
命を落としている「外国人」はたくさんいるのであって
今回の事件が特別な事件であると
私自身が思っていないからなのかもしれない。

「みんな、なんで今回の事件ばかりに反応するの?」
という、
ただの天の邪鬼的な私の
条件反射から来る嫌悪感なのかもしれない。
フィレンツェの身近な場所で起きたから?
フィレンツェに住む外国人が犠牲になったから?
なんで今回の事件にそんなに反応するの?


差別のない平和な社会であってほしいと願う一方で
この世の中から差別が消えることはないと思ってもいる。

今回の事件を憂いている在住邦人だって
すべての人が差別感を持たずにいるとは私には思えないし
差別感のない人なんて世界でほんの一握りしかいないだろうし
もしかしたら、そんな奇特な人は皆無かもしれない。
誰だってこれまでの人生で
多少なりとも偏見や差別をしてこなかっただろうか?

私は自宅の周辺に「訳の分からない」外国人、
それはつまりアフリカ系移民であったり
南米系移民であったり、
日本人以外のアジア系移民であったり、が
増殖してきたことに対して
自分も「外国人」でありながら
治安が悪くなるだの、
雰囲気が悪くなっただのと
日常的に近所のイタリア人と話している。
それって一種の差別だよねと毎回思いながらさ。

そういう気持ちを
私以外の善良な在住邦人がもっていないとは言い切れないし
ごまかそうとしても
それはごまかせないものだろうと思ってもいる。
実際にフィレンツェに暮らしていて
中国人と間違えられると腹を立てる日本人の
なんと多いことか。
それって日本人至上主義という差別の一種だと私は思うし。
本来なら、非差別というのであれば
いかなる民族も人種も平等である
という立場になくてはいけないだろうけれど
私も含め、
多くの人はそういう立ち位置ではないような気がするしね。

人種差別主義者であると公言し
幼い頃から狂人扱いされてきた犯人は
銃刀法に基づいて合法的に銃を所持していた、
その事実の方がずっと恐ろしいと個人的には思う。
今回の事件で、そういう取り締まりの甘さを責めるなら
何となく納得もできるのだけど。
狂人も素手では大量殺人は犯せない。
程度の違いこそあれ、
差別の感情は誰もがもちうるのだとするのなら
極度の狂人とわかっていながら
武器を与えていることに問題があるのだと思うんだけど。

実際なぜ犯人が「セネガル人」を狙ったのか
という点についても
ニュースも色々読んでみたけど、
最終的にセネガル人を狙っている
確固たる理由は報道されていない。
きっと警察もその辺りは
まだ掴みきれていないんだろうけれど。
人種差別主義の狂人が肌の色で狙撃相手を決定していたのなら
セネガル人でなくてもよかったんじゃないのと思うんだよね。
狂人には狂人なりの理由があったんだろうかと。
だとすれば、セネガル人たちが恐怖を感じて
怒りの抗議をするのはごく正しいことだと思うけれど。

考えすぎて支離滅裂になって全然まとまらないけれど、
未だ嫌悪感は拭えない。

ただいえることは、
今回の事件が私にとって辛く悲しいのは
決して「人種差別による外国人射殺」だったからではなく
「等しく尊い命が神の意志に反して奪い去られた殺人事件」
だからなのであって、
それは日常的に繰り返される
他の類いの殺人事件や交通事故が
辛く悲しい事件であるのと同じなのだ。

そのスタンスからみての嫌悪感ってことなんだろうか?
まだしばらくは悶々と自問自答しそうな一件だな、これは。