クーたんとココ君のお家

燕尾服を着た女の子クーたんと神戸から来たやんちゃ坊主ココ君の小さなドラマ。

家族の一員

2007-12-11 05:14:28 | Weblog
クーは時々本箱の上で、写真のようにリラックスしている。この時「クータン尻尾が落っこちているから、上げましょうか」と言って触ると、ものすごい顔で僕をにらむ。「余計なお世話よ」と言っているのだ。こんなに無防備な姿を見せてくれるクーだが、生後2ヶ月位で心無い人間に、母猫から引き離され捨てられた。ココはもっと酷い。生まれて2週間程の、やっと一人歩きが出来るようになった位で捨てられた。人間が持つ魔性の仕業である。これは罪である事を知らないのか。犬・猫の命なんてと、軽んじているからこのような事が出来る。
僕のブログでは、“飼う”と言う言葉がほとんど出て来ない。また、意識して使わぬようにしている。何故なら、この飼うと言う言葉は、人間上位の響きがあり、犬や猫の命を見下しているからだ。“命”と言う事では、人間もワン・ニャンも対等である。古来から彼らは、人と一緒に生活をして来た。人に慰めを与える代わりに、人から食事を貰い、自分で出来ないものを、人に頼るのである。
神戸のビートさんは、6ニャンと生活しておられる。彼女はニャンコさんを見下したりは決してしない。苦楽を共にして来た18歳の杏さんを父さんと呼び、唯一の女のニャンコさんの紫陽花さんを次女と言う。ココの事も何のためらいも無く、5男と言われる。リングちゃんと同じようにみんな家族の一員なのである。僕はこのビートさんの考えに大いに共鳴出来る。クーもココも可愛い、娘であり息子である。だから、保護した・助けたとは考えた事もない。以前にも書いたが、神様から僕の家に賜られたと思っている。
クリスマスは命の誕生を祝う祭りである。今の世の中この命が粗末にされ過ぎている気がしてならない。殺人・子供への虐待・いじめ・自殺。人に思い遣りの心が無くなって来ているからだろう。目に見えぬ神・仏への恐れの気持ちも薄らいでいる。拝金主義が横行し、命も金で買えると、勘違いしている人間か増えている。このクリスマスの期間と正月に初詣をする際に、命を与えられた事を感謝する祈りを奉げて頂きたいと願う次第である。