日記

日々のあれこれ
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大河ドラマ「光る君へ」におけるダイコン、カブ問題

2024年03月25日 | 断想

こんなに一生懸命見るのは、1960年代、尾上菊之助と藤純子の「源義経」以来かも。

結局、私は十二単が好きらしい。あの布の塊が。一セット誂えて、毎日着たいけど、あれは労働には不向き。朝起きて、ゴミ出しの段階でまず挫折。ばあちゃん、裾踏んで転ぶ。

昨夜の12回は泣けましたね。ドラマ見て泣くことはまずない私ですが、ほだされて涙が出た。

好きな人と一緒になれない、その人は自分が知っている身分の高い姫君を正妻にすると、本人の口から告げられる。

別れたその足で男性は姫君のところへ行き、深い仲になる。

姫君に寄りかかられ、観念して運命を受け入れる覚悟の男性の顔の演技。涙顔で家路につく別れたばかりの女性。

この時の藤原道長は三男でまだ高い位にもついていない。姫君の父親はいずれ帝の妃にもと思って育てていたのに、花山天皇は出家してしまうし、次の二条天皇は幼いし、それでも格下の道長を婿に取るのは気が進まなかったと、ネットの何かの解説にあった。

私達は後の道長の栄耀栄華を知っているので、なんで渋るのかと思うけど、その時にはまだ未知数。

いい世の中を作るために政略結婚して位を上げていく・・・という道長の弁明、ちょっと苦しい。戦国ものの大河ドラマで「平和な世を作るために今戦う」と同じような後付けの理由。

それもこれも今の時代に合ったドラマにするための苦心かなと思いました。

人を好きになるのは最低限、自我を持つことが必要。古代人の自我がどこまであったのかなあと。

人は自分の見ているものがずっと昔からあったと錯覚しがちだけど、自由に恋愛するのはたぶんうんと新しいことと思う。今の時代に分かりやすく話を作ると、歴史と矛盾するし難しいところです。この後どうなるんでしょうか。


で、表題のダイコン、カブ問題ですが、手元にある「栽培植物の起源と伝搬」という本によると、ダイコンは東ヨーロッパから中央アジアが原産、農耕文化の初期に華南から来たと考えられ、日本に来てから品種改良が進んだそうです。

カブは南ヨーロッパ原産、ダイコンより古い8世紀以前には日本に来たと考えられるとか。

後の紫式部=まひろが自宅庭でダイコンやカブを栽培し、物陰からそれを見る道長という場面もありますが、あのダイコンやカブは明らかに今の時代のもの。大きくて立派。平安時代の野菜を今調達するのは無理なのでしたかないのですが、畑の野菜の葉がすでにしなびているのは如何なものかと。。。。

たぶんあれはNHKの人が店から調達。抜いて日数が経っている。我が家のダイコンですが、抜いてすぐだとこうです。葉は寝ていない。

すみません、細かなことで。本筋とは関係ないけどちょっと気になったので。


その他に、今日はクロネコに来てもらって荷物を発送した。180サイズで東京まで4,000円弱。

昨日は上下に棒を通す折り返しを付け、何度も壁に掛けて調節。夜になってから段ボール箱を作る。朝。近所のホームセンターが開くのを待って荷造り用の強力幅広テープを買って来て荷造り。

やれやれ。

夕方は家の中の整理整頓。ひな人形も片付ける。

明日は搬出入を委託する業者さんに代金と書類いろいろ送って今回のことは終了。落選したらすぐ送り返してくる。

今年は自信がない。みんなに出すって言っているので落ちたら恥ずかしいことですが、それもまた人生の一里塚。失敗の中にこそ教訓がたくさん詰まっている。そう思うことにしましょう。この年なので、恥ずかしいことはもうあまりない筈です。

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最期の日のソフトランディングに向けて

2024年01月28日 | 断想

昨日テレビを見ていて「妻の願った最後の七日間」という曲があるのを知った。

クミコ / 妻が願った最期の「七日間」 (youtube.com)

朝日新聞の投書記事が元になって出来たものだそうで。当時はずいぶん話題になったらしいけど、知らなかった。そうそう、私は夫の介護のサポートで、何かと忙しかった2018年だった。

妻が願った最期の「七日間」 投書にこめられた夫婦の物語 (withnews.jp)

歌詞が余りに身近で身につまされた。

私が同じ立場になったらたぶん似たようなこと考えると思う。

料理を作るのはあまり得意でないし、冷凍したもの残されても夫は食べないかもしれないけど、ため込んだ古布に紅絹は捨てきれずにたくさん持っている。片付けないといけない、そう思いながら今は一日伸ばし。

織りかけのマフラーってどんな感じ?

編みかけでなくて織りかけって・・・平織りはマフラーに向かないので綾織り?なら卓上機は難しいので高機でしょうか。と、つまらないことに引っかかる私でした。

大塚博堂ですか~いい歌を書かれる人でしたが、早世しましたよね。生きていればもっともっとたくさん歌を残したことでしょう。残念です。

この歌詞は、私たち世代の女性の幸せがどこにあるか教えてくれるものではないかと思う。

料理して家族と過ごして友達と過ごして、好きな手芸をして、夫と昔行った場所へ新たな気持ちでドライブをする。

すべて何でもないことだけど、人生の日々は無限にあるわけではなく、それを知っていながら普段は無為に過ごしてり、感謝の心を忘れている私。

もうあとがないと分かれば、おのずと感謝の心が生まれてくるでしょうか。そうありたいものです。

今日夫と話したこと。仕事やめたら実家の荷物片づけて建物のことも含めて、私と子供たちに迷惑かけない形にしてほしいと頼んだ。

市の大型ごみ処理センターへもっと早くから持っていくべきでしたね。私も三度くらい自分で運転して行ったけど、今はもう億劫。

歌をきっかけに自分の人生の終え方を考えた。胸につまされました。一日一日大切にしなければ。

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年末いろいろ

2023年12月23日 | 断想

今年も残り少なくなりました。年末の諸行事、すっ飛ばしたら例年より早く暮れが来そうですが、残りのいろいろも、身をすくめてなるだけやり過ごす予定。

年末になると掃除用品のCMが増えますが、いちいち付き合って掃除しない。窓から身を乗り出して落下したら危険。

若いころ勤めていた学校で、私が就職する何年か前、男性教諭が窓ガラスの清掃中に落下して何日か後に亡くなられたとかで、その学校では窓ガラスの外側は拭かない決まりになっていました。

ね、汚れと命、引き換えにはできませんよね。年取ると無理しないことに徹しましょう。わが子供たちが来て掃除してくれるのは止めませんが、来るわけないもんね。あの人たち。

家族のライングループでは、未だに昔のぬいぐるみの話で盛り上がっている。全員40代のおっさんが涙。親が年取ってること、分からないみたい。


さて年末調整です。給与はエクセルで夫が管理、最後の年末調整は未だ私の手計算です。最近は紙の資料や用紙をほとんどくれないので、足りないのは自分で近くの税務署へ貰いに行きます。

何百人、何千人もいる大企業でないのでもう終わりました。今年は曜日の配列が余裕ありました。よかった。平成という年号の時は天皇誕生日、土曜日、日曜日と続くと、21日の夜には計算が終わってないといけない年もありました。

やれやれ、あとは源泉税の納付、税務署と自治体への提出書類いろいろ、それから確定申告の準備。あと何年するんでしょうか。もうやめてのんびりしたいものです。


先日、夫の作ったおかず。

浮いているのは肉の脂。

大根の皮を丁寧に包丁で剥いていた。

最近は家事も出来ることはなるだけやってもらっています。

私がいなくなっても困らないよう、一通りのことは出来るようになっておかないと。

昨日、袋町の頼山陽記念館の前を通ったら無料だったので見学してきました。庭の柚子を無料でいただきました。

小さな実ですが、たまたま冬至だったのでユズ湯に。網の袋に入れ、しっかり揉んだら新鮮な柚子のいい匂いがしました。

冬には冬の楽しみ。寒いけどめげずに頑張りましょう。

 

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昔の連絡の取り方いろいろ

2023年12月16日 | 断想

可愛いツリー/ゆめタウンで 12/15


先日来、昔の友達とのあれこれを思い出していますが、今になって不思議なのはスマホのない時代、どうやって連絡とってたんだろう~??ということ。

もちろん当人だから憶えているはずですが、今のやり方に慣れてしまった今、よくもまあ遠い所の人と待ち合わせの約束していたものと、感慨深いものがあります。

家に固定電話がついたのは高2くらいだったかな。その頃は電話引くには電電公社の債権も買わなければならず、8万円くらいと高額でした。今なら数十万円の感覚でしょうか。

商売しているならともかく、普通の家は電話のない家が殆ど。近所の電話のある家に呼び出しをお願いしていました。

それまでは有線電話。農村によくあった、交換手が繋いでくれる簡易型の電話でした。基地局が電電公社の電話と接続できるので、部活で遅くなる時はそこから家に電話を繋いでもらっていました。それも不便で、我が家に電話が導入されたのは時代の趨勢もあったことでしょう。

家に一台しか電話がないので、誰にどこから連絡あったか、家族の間で丸わかり。我が親は誰から電話がかかって来てもほぼ黙って取り継いでくれたので、その時代はそんなものかなと思います。

母は私の友達、電話かけてくる男の子も女の子もみんな名前を知っていた。晩年まで、私の昔の友達のこと、憶えていて話題にすることも。中にはもうあちらへ行った人もいるのが悲しくも残念です。

で、こんな風にして待ち合わせの約束しても途中でアクシデントが起きたときには直接連絡のしようがない。

30分くらい待って来なかったら、家に電話して「++君から何か言ってこなかった?」と親に聞く。「うん、ちょっと遅れるって」と分かればさらに待つ。

「知らんよ」と言われたらさらに待つ。いずれにせよ待つ。待つ時間が思いの深さ。

このやり方で最長2時間待たされたことがある。ったく。今の同居人ですがな。その頃は一人暮らしなので実家は関係ないし、相手の家は自営業なのに一回線しか電話がないので遠慮して掛けられず、やっと来た相手に別れ話のはずが、またされ過ぎて、それを言い出す気力もなくなった…んだったかな。やれやれ。

その他に伝言板と言うのがありましたね。今の若い人、さすがにそれは知らないでしょう。

大きな国鉄や私鉄の駅には待合室などに黒板があり、日付と要件を書き込む。24時間くらいで駅員さんが消すのかな。

「**さん、1時間待ったけど先に行きます 12/16 ××子」とかこんな感じ。

野口五郎さんの私鉄沿線という歌の中に「伝言板に君のこと僕は書いて帰ります。想い出たずねもしかして君がこの街へ来るようで」というのがありますが、あの伝言板です。いつ頃まであったのでしょうか。

あとは手紙にはがき、それが多かったかな。

しかしどんなに制約があろうと、会いたいという気持ちのある限り、人はどんな手段を取ってでも連絡とるのでありました。

京都駅の大空間。外気とつながっているけれど、大屋根で直射日光や雨が避けられるのが工夫かと思います。

複雑でまだ全部は制覇していない。確か劇場もあったはず。

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あまりに面白い子だったので・・・

2023年12月12日 | 断想

今年も京都駅、光の階段。12/10、17時頃。


一昨日は渋い年配男性になって再会した男子同級生、高校卒業して二、三年間は、みんなで会っても私と二人で会っても、いつも面白い話で笑わせてくれた。本人はいたって真面目な顔なので、その落差がおかしく、そんなに面白い子なのに勉強はとてもよくできて、本当に不思議な人でした。

最初の記憶は7月ころの、とっても匂う人。

とは言え、60年近く前のことなので、私が面白おかしく記憶を脚色しているかもしれません。できればモデルになってもらった人を離れ、フィクションとして読んでいただければ幸いです。1960年代の、日本も若く、私たちも若かった時代の記録として。


夏休み前、汗で汚れた体操服に黒いカビが生えて、それを着て授業受けていた。夏なのでとても匂った。みんなに注意されても本人平然と。ねっ、おかしいでしょ。全然かまわない人でした。

秋か冬、化学の実験で作ったアンモニア。彼の班だけ大量に作り、シャーレに入れて、女の子のところへ嗅がせに来る。きゃあと身をよじる私たち。何でも楽しい遊びにする人でした。

年末の教室の大掃除、床をワックスがけするはずが、水を2㎝くらいためて、なんでそんなことになるのか、今でもわけわかりません。下の階に水漏れしなかったのでしょうか。

ごめんね、**クン。今は社会的に地位もある人なのに、私はやんちゃなあなたにとても楽しませてもらいました。もしかしたら好きだったかもしれないけど、その頃あなたは別の女の子を追いかけていたので、あなたを見ているだけで楽しかったのです。

11月の修学旅行は広島、山口でした。本四架橋も高速道路もない時代、宇高連絡船で本土に渡り、そこから延々とバス。夕方広島通過、夜は宮島に泊まりました。


広島の市街地に入る直前、マツダの本社横を通りました。それまで私はマツダが広島にあるって知らなかったのです。父はキャロルのオーナーでしたが。2ドアの軽自動車、エアコンなし。

**クンはなぜかおもちゃのピストルを旅行に持参。バスの中でそれを持って遊んでいた。

なんで???女の子なら、お人形持ってくるようなもの。そんな人、いる?

マツダの横を通ると、「社長はファミリアに乗ってるんかあ」と言ってたけど、まさか。もしかしたらそうかもしれないけど。


高2のクラスのお別れ会は某有名公園で。春になって、芝生の上で遊ぶ私たち。

みんなで手を繋いで「はないちもんめ」をしていたら、男子数人からこんなことして何か意味があるんかあと、至極当然な疑問。子供でもなく、さりとて大人になり切れない年ごろ。私達女子は、男の子が面白いこと言うたびにけらけら笑うしかないし、それが娯楽と言えば娯楽。男の子は面白いこと言って女の子に笑ってもらうのが快感だったのでしょうか。

クラスで断トツ面白いのが**クンでした。追いかけている女の子は別の男の子と付き合い始めたので・・・その後、どうなったのかなあ。本人の口からは聞いてないので詳細は分からず。


卒業した春休み、先生の下宿へ行ったときに新しい住所を交換したんだと思う。スマホもないし、電話は下宿の呼び出し。それでハガキを時々交換していた。それぞれの学校での生活など、近況報告。

私は京都に叔母がいるので学生時代はよく遊びに行き、その時は呼び出して街を案内してもらった。付き合ってもないのに無神経な私。その頃、彼女がいたのかもしれないのに申し訳ないことした。

月に二回、お母様が洗濯のため上洛するとか、当時半期が6千円だった授業料をどうしても使ってしまうので、親御さんがが直接納めるようにしたとか、楽しい学校生活のいろいろを話してくれて、私も楽しかった。

一度広島へ来たんだったかな。その頃の私は油絵描いていて、絵を描いてほしいと頼まれた。F8くらいのキャンバスも買ってもらった。

数年前の同窓会で再会したとき、その絵をまだ持っているというのでびっくりした。

「どんな絵ですかあ・・・」と恐々聞いたら、山があって川があって風景画とのこと。私はすっかり忘れていた。どうせものすごく下手に決まっている。もう人さまのものになっているので、捨ててくださいとも言えず、恐縮しきりです。

**クンと出会わなかったら、私の人生、今より少し寂しいものだったと思う。本当にいい友達付き合いをさせてもらった。

一度、何かの用事でご自宅に電話した時に出られた奥様もとても感じのいい方で、幸せに暮らしているのだと嬉しかった。

もうこの年ですからね、あとは健康で楽しく人生を全うしいていただきたいもの。私もそうなれるよう頑張ります。

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京都で旧友に偶然再会、涙が出るほど感動した

2023年12月10日 | 断想

じゃ、気を付けてと別れた後で、ちょっと振り向く息子のお嫁ちゃん。

14時頃。京都三条通。


本日は、愛知県から来た息子夫婦と昼ごはんを一緒に食べ、そのあと今日が最終日の工芸展を見た。

会場へ行くと、私の作品を探している人がいる。キャプションの私の名前が間違っているので、分からなかったらしい。

「どなたからか紹介されたんですか」と聞くと、「私は**です」と言われるその人は、私が案内状を出した高校の男子同級生で京都府在住。

いゃあ、びっくりした。お互いおじいちゃんとおばあちゃんで再会して、分からなかったという悲しくもおかしい話。数年前の同窓会でも話したけど、彼は二次会から来ていて、ホテルの暗いバーラウンジだったので、顔はよく確認していなかった。

そこからは作品そっちのけで近況報告に高校時代の話。話したのは10分くらいだったけど、時間が一気に58年前にワープして、私も偉い先生相手なのに「**クン」とため口で話をさせてもらった。

修学旅行の栞を私の家に集まって作った話をすると、そんなこともあったなあと笑っている。そうなんです。学校でくれる栞とは別にクラスだけの栞を作った高2の秋。

長いバスの時間に、何をするかプログラムを考える。いろいろな人と隣り合わせになるよう毎日席替えする。巻末はみんなで歌う歌詞をいくつか。イラストは私担当。ガリ切りも私がやった。勉強は後回し。そんなことで費やしたわが高校時代。

修学旅行委員は各クラスに男女一人ずついたのに、私はなぜかその女子の委員を差し置いて企画を担当する流れになり、男子の委員と今日会った**クンの二人が、11月の日曜日の午後から我が家へ来て相談したのです。その女の子にしたら気分悪かったでしょう。ごめんなさい。

我が家の子供部屋は庭先の離れになっていて、庭を通って直接来れるので来やすかったのでしょう。

いろんなことをいっぱい思い出すのですが、高2の冬に差し掛かったころ、放課後、学校の食堂で友達とおしゃべりしていると、グランドの遠くを**クンが部活でランニングをしていた。

友達いわく、「スポーツも頑張ってすごい人。がり勉じゃないのによくできる」と称賛していた。

修学旅行のこの「栞トリオ」は進学先が決まった春休みに揃って担任だった先生の下宿に遊びに行き、スキ焼きして卒業のお祝いをすることに。まずは先生の下宿の近くのスーパーへ3人で行き買い物、それから洗面所で果物ナイフで材料を切り、電熱器にフライパンを掛けて作り始めたけど、全然火が通りません。ほとんど食べる間もなく、20時になったらもう帰りなさいと早々に追い出されました。

先生も迷惑だったと思うけど、私たちは、いえ私はままごとしているみたいでとっても楽しかった。

「先生の部屋、寝る場所を残して本がいっぱい積み上げてあった」と私が言うと、ほとんど憶えてないそうで。その後の人生が充実していたので、そんなことは忘れたのでしょうが、私は楽しかったことを節々で何度も思い出して元気づけられたから、誘ってくれことに今も感謝しています。

我が両親は、私が男の子とそんな付き合いしていても一切口出ししない人だったので、助かりました。

その後、京都へ行ったときには何度か京都を案内してもらった。大学の長い塀に沿った歩道を歩いたり、時計台の前でばったり同じ高校だった子と会ったり・・・とそんなことが断片的に思い出される。哲学の道を一緒に歩いたこともあった。

ああ、疾く過ぎしわが青春。ささやかな宝物のような想い出。とばあちゃんは感傷に浸る。

学会が広島であった時にはわざわざ郊外の我が家まで訪ねてきてくれて、そこらへんにゴロンと転がしていた長男にも会ってくれている。あちらにはお嬢ちゃんが生まれたとの話だった。

その後は年賀状だけのお付き合い、細々と切れることなく。でもそれもお互い止めてしまった。

工芸展は案内状をたくさん貰ったので、連絡していたのですが、まさか会場で会うは思ってなかったので、本当にびっくりした。

出入りの業者さんの手違いで、来るのが遅くなったとのこと。本当は10時に来るつもりだったとの話。それなら再会は出来てなかった。勘違いした業者さんに感謝。

長い人生を歩んだ後にはこんなこともあるのだと感動した。

頭がいいのに全然偉そうにせず、難しい大学の難しい学部にあっさり現役で合格して、私のようなものにも話を合わせてくれて、男女として付き合ったことはないけど、大切な旧友の一人。健康に気を付けて、これからも幸せな人生を歩んでほしいとしみじみと思った。

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祖母、思い出すことなど

2023年12月05日 | 断想

最近、ふとしたはずみで祖母のことを思い出すことが増えた。

母方の祖母は早くに亡くなっていたので、同居していた父方の祖母。

小一の冬休み、近所の文房具屋でゴムの中くらいのボールを買ってくれた。花柄がプリントされているもの。

クリスマスとお正月を兼ねたプレゼントだと言っていた。祖母が直接物を買ってくれることは稀だったので、嬉しかったはずだけど、私は昔から外で遊ぶのは苦手で、家の中で本読んだり絵描いたりしてじっとしている子だったので、他の子ほどは嬉しくなかったかもしれない。

多産の人だった。スペイン風邪で子供二人遺して亡くした後添えに28歳できて、50過ぎまで延々9人の子供を産んだ。2、3年に一度の割合。常に授乳しているか妊娠しているかの忙しい体。元々健康な人だったのでしょう。

今の時期に思い出すのは、着物着て家の前の畑で何かしている様子など。菊の花が霜に焼けて葉も花も赤味が増し、枝も不定形に伸びる。

高校の頃は家に来た友達にお土産に上げたりしていた。

子供が多いので孫も多い。16人。前妻の子の孫も入れると20人以上。何かの時は集まって賑やかだった。

不思議と母の年寄りになった姿はあまり思い出さない。それは私がもう一緒に暮らしていなかったからで、子供の頃の祖母の姿が最近はしきりと思い出される。いゃあ、心が弱っているのかも。いやはや。

家の中や外にいる姿とか。建物の陰の暗がりと一体化して、いつもどこかにいるような感覚。亡くなって40年以上経つ。立春の暖かい日が葬式だった。その頃から温暖化が少しずつ進んでいたのかもしれない。

家ももうないけど、質素で地味で、そんな暮らし方は私に受け継がれているのかもしれません。

本日、美容院へ行った後京都へ。お天気下り坂。

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婆ちゃんの茶話会で

2023年10月03日 | 断想

昨日、午前中は茶話会でした。

話題は多岐にわたりましたが、私が「皆さん、マイナポイントもらわれました?私はぎりぎり間に合った」と話を振ると私以外の全員が、まだ紐づけしていないとのことでした。

「私はずっと紙の保険証で行く、大丈夫なんでしょう?スマホも持ってないし、手続きができない」という人も。

ずっと紙の保険証で行く・・・保険証に代わる何かを使えることになると私は聞きましたが、紐づけしていない人がまだたくさんいることを実感しました。

マイナカード、従妹は運転免許証変わりと数年前に作ったそうですが、まさかここまで長引くとは私も予想していませんでした。

マイナカードは更新があるそうですが、日本全国、ものすごい事務量では?

パソコンに打ち込むのは手作業。便利になっても最後はそうですよね。


機織りのソフト使っていた時は、通し方、踏み方の間違いを確認するつもりでしたが、打ち込むのが結構面倒でした。でも、最後にクリックするとズザザザッーと織り柄が顕れて、快感。もうこれで充分、わざわざ織らなくていいと思えたので、エクセル壊れたこともあってやめました。

昨日は決まっていた柄を変更したりで、整経始めたばかり。いつになったらできることやら。

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「偲ぶ会」で媼(私)、翁(昔の友達)に会ふ

2023年07月06日 | 断想

昨夜はある「偲ぶ会」に出席。

会の中ごろ、各自歓談中に「**さんはどこ?出席しているらしいけど」と私を探しに来た人がいた。

忍者みたいなマスクしたその人は、名札見たら、うあおう懐かしのT君じゃないのぉーーーー

故人とは仕事上のつながりだとか。いゃあびっくりした。卒業後、みんなで一度くらい集まって飲んだ記憶があるけど、約50年ぶりの再会。

50年経つと立派なお爺ちゃんにお婆ちゃん。

でも気持ちは20代のあの頃とおんなじ。コンパの飲み会の後、好きな女の子が別の子にお持ち帰りされてるのを血相変えて追いかけて行ったT君だけど、その後のことは聞かず。今日も聞いてない。

私達は男7人、女4人のクラス。男の子で一人早く亡くなった子がいるけど、あとは元気らしい。3人が僧侶になった。7人のうち3人って僧侶率がめちゃくちゃ高くないですか。一人は実家が寺院なのでまあ順当ですが、他の二人は大学闘争の後、思うことがあってのことと聞いた。

邦楽のサークルでいつも尺八持っていた子は、構内で反対派を袋に入った尺八で殴っていた。その子も僧侶です。お寺を持たないフリーの僧侶と、今日聞いた。どうしているのかなあ・・・遠い目。

人が動き始めて、今日のような出会いもあるわけです。ちょっとびっくり。

体に気を付けて元気でいればまた楽しいこともある。次にT君に会うのは90歳くらいかな。生きていればだけど。

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一人旅の勧め

2023年06月05日 | 断想

山口県、青海島大橋。フリー素材より。


ある人の話。夫を亡くして気持ちが沈むので気分を変えるために旅行行ったけど、いっそう落ち込んだって。

聞けば飛行機で行く離島ツアー。自分以外は年配の夫婦連れが多かったそうで。

それは辛いなあ。私、一人旅は全く平気です。でもそれは純粋の一人旅。

国内ツアーに一人で参加して、奇数の女性グループとセットで食事したりバスに座ったりはなかなかきついもんがありました。

あちらは全然悪気はないのですが、一人で話し相手もないのが、何とも手持無沙汰で。

以前は安いバス旅行がよくあったので出かけていましたが、今は国内旅行のツアーには参加しない。一人で好きな所へ行く。

友達との旅行も、半分くらいは自由行動でもいいかなと思う。行きたいところがそれぞれ違うし、歩くのが苦手な人、平気な人といろいろだから食事時間に待ち合わせて、ホテルは別室。

って、殆ど一人旅のようなものですが。


ご主人を50代で亡くされた、以前友達付き合いしていた方のアドバイス。

嫌と言わず、一緒の旅行は行けるうちに行っときなさい。生きている間だから。

そうなんですよね。それで一緒に行きますが、我が家の場合夕食で意見が合わないことが多い。最近はお互いに強制しない。好きな所で好きなもの食べる。

夫婦だからって旅先で同じもの食べずに、各自好きなものを。おお、この解放感。

それはまだ生きているからの解放感で、いなくなれば出かける気にもなれないかも。二人連れを見て寂しくなるかも。

でも嘆いても亡くなった人は戻らず。また元気出すしかないのでしょう。最後は誰だって一人。一人に慣れることも必要かなと最近思っています。

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怖~ピストルを持つ集団

2023年05月20日 | 断想

フリー素材より。船は海上保安庁?

昨夜は高速艇で宮島から戻ったようですね。食事の後なので22時頃でしょうか。

その時刻、ヘリコプターの音がしていました。


さっき近所のスーパーへ行ったら、紺の制服っぽい上下を着た若者の集団7,8人に遭遇する。

高校生の合宿?・・・・にしては年がいってると思ったら、ぬあんと全員、腰に拳銃を下げているではありませんか。心臓が止まりそうなほどびっくりした。

「しっかり食べとかないと」とか言いながら、一人ずつ籠を持って店内に入って行く。

警官の格好していたらここまで驚かないけど、普通の恰好した普通の若者たち。近くで宿泊しているのでしょうか。そして、きょうは非番で宿舎で過ごすのかも。若いのでお腹がすく。それでおやつなど調達しに来たのでしょう。真面目そうな、むしろ地味目の、口数少ない一団。だけど腰に拳銃。。。。

いゃあ、びっくりした。拳銃はどんなときにも肌身離さずしっかり管理。その拳銃が国家権力の最先端。何も悪いことしてないはずだけど、緊張した。

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宇品島じゃなくて元宇品怒

2023年05月19日 | 断想

グランドプリンスホテル広島のロビー。屋内に噴水あり。


今日から始まるG7サミット、午前中の平和公園訪問はあいにくの雨ですが、せっかく広島に集まった各国の首脳陣、広島の願いを感じ、核のない世界への道筋を探ってもらいたいものです。

残念ながら、核兵器はなくなるどころか持つ国も増えるという歴史の流れを辿って来ました。

これは皮肉なことに、広島から原爆反対の声が世界に届いた結果かなと愚考するわけです。使うと大変なことになるけれど、持っているだけで充分以上の効果があると。

気象災害のように原爆の被害を言うのは間違いと私は思いますが、それ以上に踏み込むと核兵器反対の運動自体が党派によって分断されてきた苦い歴史があるわけです。誰もが納得できるような、政治性を排除した運動は、限りなく「地震に備えましょう」的なものにならざるを得ない。

学校では、相手を思いやっていじめをしないことが、平和につながると教える場面もあるそうですが、いじめをと核兵器は全然関係なといと私は思います。

それは切った張ったの、リアルな国際政治の現場では通用しない。残念ながら。

それでも広島からずっと発信し続けてきたことは意味があったと思います。核兵器の怖さはいくら言っても言い過ぎるとことはない。持つけど使わない。これからもせめてそうあってほしいと思います。なくすのがいちばんだけど、持つだけで効果がある。そんな究極の兵器を廃棄するのはいつかは出来るかもしれないけど、今は空想的でしょう。残念ながら。


えー、宇品島の話ですね。

はっきり言って、地元では、誰も宇品島なんて言ってません。ものすごく違和感が。あそこは元宇品と言います。

ホテルの住所はこちら →広島県広島市南区元宇品町23−1

宇品は元々島ではありますが、日清戦争までには干拓の進んだ市街地と一続きになり、現在は島と意識することはありません。

干拓当時は細い道で繋がっていましたが、くびれたところの両側に潮が滞留して水質が悪化、再び開削して橋で繋げた歴史があります。

島を地続きにすると水質が悪くなるのはモンサンミッシェルの例もあります。早くに橋をつけたのは賢明でした。その眼鏡橋のたもとに経緯を記した石碑がありますが、一部破損しています。

小学唱歌、「港」の「空も港も夜は晴れて・・・」はこの付近を歌ったものと特定されています。近くの公園にその歌碑もあります。

宇品とは牛の形をした村と言う意味らしいです。確かに元宇品を横から見ると牛が座っているように見えなくもない。那とは美し村という意味の古語とのこと。いい名前ですよね。昔、宇品島と言っていたかどうかは不明。機会があれば調べますが、とにかく元宇品でいいのに、なんで宇品島なの???? 大いなる疑問。

島じゃないから市民生活にいろいろ不便が。孫たちは昨日から休校。長男は職場と自宅はチャリで10分もかからない距離なのに、昨夜は規制に引っかかって相生橋まで北上して帰宅したそうで、1時間くらいかかったのでは。雨だから電車にしたのかも。

昨日の銀行前の封鎖は、海岸へ車を入れないためのう回路の為と気が付きました。

バイデン大統領だけは、広島空港を利用せずに山口県の岩国基地へ。そこからヘリコプターに乗り換え、観音ヘリポートまで。元宇品へは出島ランプで降りて西から。

他の6人の首脳は空港から山陽道、広島高速で宇品ランプを下りる東からのコースと警備も大変です。

昨日の昼、コンビニで支払いのついでに海岸まで行くと、犬の散歩の人、その他数名、道路下でカメラを持つ人一人、それに私でした。物好きですね、私も。

警察官がものすごく多くて列を作って歩いていたり、もうびっくり。眼鏡橋手前で封鎖されていて、警察官が身振りで引き返すように言われました。


プリンスの19階の部屋。人生でこんないい部屋に泊まったのは初めて。そしてきっと最後。

もともとコネクティングルームを予約していたら、工事中でこちらへ。

ホテルは8日から日本政府の貸し切りになったらしい。

今年は国有林の下草、ミョウガの芽を採り損ねてしまった。あれ、湯がいて酢味噌で食べるとミョウガの風味でおいしいのです。京都だとこれ一本でものすごく高いと、ご主人の実家が京都で旅館していた友人の話です。うーーーむ、残念過ぎる。と最後は食い気でまとめてみました。

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ああ、みんな歩けなくなる・・・

2023年04月28日 | 断想

来月、元の同級生と友達旅行することにしている。

彼女はまあ歩ける方。だから一緒に旅行できる。私は野山に植物園が好き、彼女は商店街で雑貨見るのが好きと好みが違うけど、たまには違う趣味の人とも付き合うのも楽しいと今からワクワク。

今回の幹事は私。彼女はコロコロを引いて来るので、その時は乗り物利用の予定。

もう一人の友達は杖を突いている。歩くのもゆっくり。これは病気の影響なのですが。先日は二時間くらい付き合って、気の長くない私は分かれた後、電停まで思い切り走ってみた。それで早く歩きたい気持ちを解消して、気持ちが吹っ切れたのですが、次の日には膝が痛くなって、深く反省。無理してはいけないと言うことですね。

正座は短時間ならできるようになったけど、走るのはやめておきましょう。

さらにもう一人の友達は、15年くらい前から歩くのが遅くなり、なんやかんやとあって、今は全く歩けず、自宅で介護を受けている。

我が母も70過ぎて膝を悪くして、80過ぎて両膝に人工関節を入れた。私もその素質を引き継いでいるので気を付けたいところです。

膝に悪いのは過度な運動に過体重でしょうか。三月、四月は合同展に友達を呼び、ほぼ毎日、誰かと一緒にご飯食べた。普段はあまり食べないのにそれが引き金になって、4月はちょっと体重増えたかな。

私もいずれは歩けなくなるのかなあと、今から心配しても仕方ないけど、体を動かし、食事も考えないと。


昨日、義妹から電話あり。親戚の同世代の人の訃報を聞く。一年も前に亡くなっていたのに、遠い親戚には知らせず小さな葬式で見送ったとのこと。今はそれがトレンドかもしれないけど、後で知るのは結構寂しいものがある。葬式は生きている者の心の区切り。せめてもう少し早く知りたかったけれど、それも残されたものの都合。私があれこれ言うことでもないけれど。

見慣れた森の木が少しずつ減っていくような心もとなさ。同世代の訃報を聞くとそう思う。

だからこそ、したいこと今のうちにしておくと心が急かされる。50代はまだ時間は無限にあると思えたけど。その時には時間の有難さに気が付かない。時間はお金と同じ。大切に有意義に、自分が幸せになるために使う。


すべての基本は歩くことですね。歩かないと何も始まらない。何もできない。

せいぜい体を動かし、いい老後を過ごしたいものです。

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ああ、服がない

2023年04月15日 | 断想

来週上京する。旅行に楽で、少しは改まった服、これが難しい。

ちょっと前までは、当日は最高気温27度とかいう予報だった。これなら楽勝、持っている夏用ブラウスになんか羽織もので間に合うと思っていたら、直近の二日間の予報が、それぞれ18度と23度、一時雨も降る。

困ったなあ~

きのう靴とズボン(最近はパンツと言うんでしたっけ?)一枚は買ったけど、あとは何着て行けばいいのやら。よそいきの洋服、全然持ってない。

いざという時には着物着ればいいと高をくくり、普段から高価でなくてもいいので、まめにその季節の服をそろえてなかった報いである。

どうするかなあ~

明日は友達に会うので、とりあえずデパートや店をのぞいてみるけど。。。。

今回、懇親会は中止になった。私はお呼びじゃなかったのかもしれないけど、もし参加してもいいなら、冥途の土産にぜひ申し込むんだった。

どちらか迷った時には、必ず一歩踏み出す。そこでまた新たな出会いがあると思って、今までやってきました。

今回、某老舗フレンチレストランだったそうで、そうそうたる近代文学の文豪、名士たちも利用した店。

そんなところへどんな格好で行けばいいのか。想像するのは楽しく、実際に行くとなると場違いにならないよう気を遣う。

中止は残念だけど、気後れして行けなかったらそんな自分に悔しい。

広島の世話人の方が、「どんなに誘っても絶対行かない人がいる」と話していました。うんうん、分かるその気持ち。でも、世間知らずで、初心者と開き直り、東京ではいろんな人に会い、教えてもらい、見聞を広めたいと思います。


前に東京へ行ったのは東北大震災の年の夏だった。

夫が福島を支援したいと言って、二人で福島県の山に登り、帰りに、できたばかりの東京新美術館に行く。その時にはスカイツリーはもう完成していた。

その一二年前、日光へニッコウキスゲ見に行ったときが工事中だった。二つの記憶が混ざり合っていた。

2011年の写真、このブログにありました。再掲します。

東武鉄道の電車から?

すぐ下を通る。

六本木ヒルズはあちら。

ここで印象派の作品を見た。

写真はいずれも2011年8月。

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姑の利休梅

2023年04月05日 | 断想

今年も、姑が遺した利休梅が咲きました。

桜の仲間。ソメイヨシノとほぼ同時期に咲くので話題になることが少ない花ですが、よく見ると清楚。

集まるとそれなりに華やかですが、色味がないので派手とまでは行かず。

穏やかで物静かな姑みたいな花です。


こちら縮景園。3/30。入って正面茶室の左側通路沿いにあります。

樹高1m余り。向原の友達のギャラリー近くには桜の木と同じくらいの大きさに育ったリキュウバイがあります。白い花をたくさんつけて見応えがあります。

また見に行きたいものです。

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