日記

日々のあれこれ
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会員募集しています

2006年10月31日 | 広島案内
被ばく証言を聞いて本にする。。。初めは10人ほどいた会員が激減、現在5人です。
被爆者の話を聞いてみたい、本作りに参加してみたいと言う方はご連絡ください。

一番手間がかかるのはテープを聞いて文章にするところですが一人の人を半年くらいかけてやったりしますので生活が犠牲になることはありません。 遠隔地の方もメールでやり取りして会の活動が出来ます。
興味のある方、活動に意義を感じられる方はご連絡下さい。まってまあ~~す。

お花見、忘年会など遊びも満載です。
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証言を聞いた

2006年10月31日 | 歴史、社会、家族
昨日は、当時軍にいて、船で犠牲者を島へ運んだその体験を聞いた。
8時40分には出動命令、9時過ぎには最初のトラックが港につき犠牲者を船に乗せたと言う。

その時は服が焼けたことが分からず、なぜ裸なのか、いくら夏で暑いからって裸はないだろうと当日が21歳の誕生日だった証言者は思ったそうです。
昔は今みたいに女性の裸を雑誌などで見る機会もなく、眼のやり場に困ったそうですが、人間とはすぐ馴れるものらしく、すぐに何とも思わなくなったとか。

痛いとも、お母さんとも言わず「兵隊さん、水ちょうだい」と言いながら静かに船に乗っていた中学生の思いを伝える為、被爆した榎の実生の苗を各地の学校へボランティアで送る活動をたった一人でしている人です。

笑ってしまったのは、初め川岸に自然に生える木を市の職員が苗に仕立てて証言者に渡してくれたそうですが、途中から予算不足で自分でやって欲しいと言われたとか。

それならと、息子さんと二人で出向いて作業する現場には市の職員が二人来て監督しているたそうです。
監督する暇があったら働かんかい!!と思ったのは私だけ?特定の個人の運動を公務員が応援することは出来ないということでしょうか。

平和運動は自分の出来ることを出来る範囲でやる。それでいいんだと。しかし10年は頑張りなさいと言われた。

伊吹山 関が原付近から 9/2
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笑坂

2006年10月29日 | 歴史、社会、家族
信濃追分は中山道で一番高い宿場。京都方面の手前、小田井宿から急な坂を登り追分宿が見えると旅人が思わず笑みをこぼす坂だそうです。
追分方面から見ても向こうへストンと落ち込んだように見えます。
現在は車進入禁止。きっと車では難しい道なのでしょう。写真、クリックしてみてください。

明日は被爆証言の聞き取りをする日。証言者は我が家の近くにあった陸軍船舶運輸部(通称暁部隊)にいて、救援をされた方。また違ったお話が伺えるのではと期待しています。

この暁部隊と言えば落語家の先代「江戸屋猫八」もいて、救援に当たったとか。
私達の世代ではお笑い三人組の「ハッちゃん」が記憶にあるが、あの収録の時は原爆症でいつも体調が悪く、セットにもたれることが多かったと著書にある。

また原爆症が伝染すると毛嫌いされたことも。

明日またここで報告します。
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わあ~~

2006年10月29日 | 暮らし
今までの記事、編集しようとして消してしまった。ごめんなさい。たくさんコメントいただいたのにコメントも一緒に消えてしまったあ~~申し訳ありません。

これに懲りずに時々除いてくださいね。
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2006年10月29日 | 暮らし

黄葉の美しい木。実はさらして栃餅に。信濃追分で10/17

嫁、姑の話になると皆さんそれぞれいろんな体験をされているのでいろいろなご意見もあり、考えさせられた。

こういうことはあまりおおっぴらに言わないことが美徳とされてきた。
結婚生活を続ける為には言わないでいいことのほうが多いのも事実。

でもそれも程度問題。美徳の名のもと、発散しなかった感情があるとき出口を求めて噴出するなんて事もありがち。

一人一人が大切にされなければならないのは、社会でも家の中でも同じだと私は思う。
どの時代も過渡期である。社会のシステム、家族のあり方などは前の時代のいいところだけを継承するべきであるということ。
自分に都合のいい前の時代の習慣を選び出し、「これが伝統」と振りかざすのだけは止めたいと思う。人間あつての制度。人を不幸せにする制度はやめて正解。

今の結婚制度だって歴史のある時期に現れたものだから未来永劫続くシステムではない。
生きてきた50年あまりでも家族は激変した。家族制度くらい流動的なものは無いのではと私は思っている。
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骨董屋

2006年10月23日 | 旅行
私は大変な誤解をしていた。
信濃追分は馬篭宿のような感じかと。

いまや馬篭は一大観光地となり、大型バスが停ま駐車場、みやげ物店などなど。
追分には何もない。いやあることはある。堀辰雄文学館など。
しかし街道としての面影は殆ど消えていて、寂れていた。

馬篭は尾根にあつて鉄道とは別に人が通ることもあったのだろうか。
追分は運送業者の反対で鉄道の駅が徒歩20分くらいのところに。この中途半端な距離が寂れる原因だったのかもしれない。

国道も追分宿のところだけは新しく出来て車も通らない。寂れると言うのは個人の努力ではいかんともしがたい。

骨董屋さんがぽつんと往時の面影を残している。
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人間は素晴らしい

2006年10月21日 | 歴史、社会、家族
優しいばかりの母親は子供に躾が出来ない。
子供は親に躾けられ、是々非々を教えられてこそ社会性が身につくというものである。

人間は素晴らしい

もし自分がレストランへ行き、こんな家族がそばにいたら、きちんとしつけをしなさいと他人様でも注意すると思う。
私は気が短いので、読んだだけでムカムカする。

しかしこのお母さんのえらいところは、自分の辛い体験の中から何が足りなかったかを考え、本気で子供と向き合い、二人で頑張って治していこうと子供を説得するところ。

どんな小さな子でも、わからずやでも、大の大人が本気で言うとその気迫を感じ取るもである。

このブログを拝見して、自分の子育てや結婚生活に何が足りなかったか反省もする日々。

写真は軽井沢タリアセンの中の「深沢紅子野の花美術館」元は明治44年築、軽井沢郵便局
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分去(わかさ)れの碑

2006年10月19日 | 暮らし
夏の旅

  I  村はづれの歌     立原道造

咲いてゐるのは みやこぐさ と
指に摘んで 光にすかして教へてくれた――
右は越後へ行く北の道
左は木曾へ行く中仙道
私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼんやり空を眺めて佇んでゐた
さうして 夕やけを背にしてまつすぐと行けば 私のみすぼらしい故里の町
馬頭観世音(ばとうくわんぜおん)の叢(くさむら)に 私たちは生れてはじめて言葉をなくして立つてゐた


中仙道が信濃追分宿の先で北国街道と分かれる。その場所には旅の無事を祈るための仏像、常夜灯などが並ぶ。
立原もこの細い草むらを女の子と歩いたのだろうか。
奥には風化した石の仏像などもあった。

右、国道十八号線を斜めに縦断して昔の中仙道が今も残っている。
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2006年10月16日 | 暮らし
粟や稗は最近雑穀として人気があるが、実が小さいので収穫は手間がかかりそう。
昔読んだ日本残酷物語(平凡社刊)に、信州の人が贅沢になって粟や稗を食べるようになっ
てと嘆く話が出ていた。じゃそれまで何食べてたのと驚いたものである。

このgooブログはいろんな人がいろんなブログを開いていて面白いが、今日読んで強烈だったのはこちら。
胃の痛くなる話

読むうちに泣けてきた。夫の家族と同居していた若い頃のことを思い出した。
遠い昔のことで、普段は忘れている。
ただこんな記事を読むと私の心が共振するのである。
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秋丁子(アキノチョウジ)

2006年10月15日 | 暮らし

薄紫が涼しそうなしそ科の花。秋の山でよく見られる。

それにしてもこの暑さ。台風が来ているから?
夜出かけていて8時過ぎに帰宅すると家の中が異様に暑い。
で、夫が真冬用のカーディガンを着て鼻水を啜っている。九月にもけつこう酷い風邪を引いていたのに、また風邪を引いている。
どうなってるの?

そう言えば嫁入り前に夫の実家へ冬遊びに行くと24度くらいにしてあって、暑くて、暑くて。ブラウス一枚になっていたら姑さんに寒くないかと心配された。
体質というのも家風の一部?

私はこれからが恐怖の季節。最近、どこへ行っても暖房がきつくて、、、、
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ウツボグサ

2006年10月14日 | 暮らし
9/30 高知県、天狗高原で 普通は七月頃の花。まだ残っていた。弓を入れるうつぼに似ているからこの名前になったそうな。

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蕎麦

2006年10月13日 | 暮らし

蕎麦の花を久し振りに見た。美山町 10/3

国産の蕎麦はいまや壊滅状態、信州とか国産の蕎麦を売り物にする場所以外では作っていないと思う。そう、値段的には中国産に太刀打ちできない。

蕎麦は作るのは割りと簡単、瘠せ地でもできるが殻から実を取り出し、粉にするのがたいそう細かな仕事で日本で作っていたのでは割高になるのだと思う。

そういえば最近、蕎麦殻の枕と言うのも見かけないなあ。

ここでは一部赤くなった蕎麦もあつたが、ピンぼけ!!残念!!
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白山菊(シラヤマギク)

2006年10月13日 | 暮らし

山に普通に見られる花。海岸近くのノジギクとは別の花。
とは言え、菊は最も進化した花だそうで、形も無理がないというか。
野生と園芸種の間にあまり違いがないのが菊(一部あつもの咲きを除く)。地味だけど、なくてはならない花。
日本人にとってごはんみたいなものか。

菊作りという園芸の立派なジャンルがあり、来月になると広島城でも菊花展がある。

子供の頃はよく菊人形に連れて行ってもらった。併設して臨時の劇場があり、白木みのると藤田まことのショウを見たことがある。そう、昔、昔、半世紀近くも前の話である。

のんびりしていたあの時代、足るを知ると言うのは大切なこと。時代は逆戻りできないけれど、菊の花を見ながらそんなことを考える。

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ノブドウ

2006年10月12日 | 暮らし
山葡萄は食べられるがこちら不食。多分苦いのでは。
街中でも、空き地などに見られる。日向を好み、木に絡み付いて藪状になる。
ビーズのように色とりどりの実がきれい。

きのうから眼の中に虫がいる。脚が長くて、潰した蚊のよう。うっかりすると部屋の隅をごきぶりがさつさつさつさーーーーと逃げているように見える。

息子に聞くと飛蚊症だそうで。脳内出血の前兆、眼の血管が切れて失明?と思いきや単なる老化現象だそうで。でも放置すると何とかになるので(病名失念)気になるなら眼科へとの見立て。

やれやれよかった。老化かあ。
左足のかかともずっと痛い。これも老化らしい。友達も同じような症状で整形外科にかかっているとか。

私は大の医者嫌い。人に自分の体を触られたり、あれこれ言われるのが大嫌い。
五十肩が自然に治ったように、目も足もそのうち治るだろうと高を括っている。
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シオガマギク

2006年10月11日 | 暮らし
9/30 高知県、天狗高原で
群がってよく咲いていた。巴形の花がユニーク。

きょうは思い立って観音橋まで自転車で行った。我が家からは40分くらい。
行ってみるとありゃ~~、橋が消滅している。戦前からの橋ですぐそばに新観音橋があるとは言え、寂しいものである。

広島へ嫁に来たとき、月に一度、観音橋西詰の医師会館へ行く用事があり、そのときよく渡った橋である。人と自転車しか渡れないので、ホッとしたことを憶えている。

今被爆証言をまとめていて、観音橋まで逃げてそこの空き地で何日か過ごした話のところに差し掛かっている。火の中から二人の中学生が現れ、またとぼとぼと五日市まで逃げて行ったとか。
戦前のものは殆どなくなった広島だが、天満川の中に僅かに残った橋脚が昔の面影を伝えている。

たちつてとの日記が開かない。いい日記なのに残念!!
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団塊の世代

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