日記

日々のあれこれ
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静かな広島の夏

2008年07月31日 | 広島案内
写真は笹百合@天狗の森登山道
広島ブログ

四国には阿波踊りを初めとして、各県いろいろな盆踊りがある。
学生時代の一夏、実家のある市の市役所で住民票をタイプ打ちに書き換えるアルバイトをしたことがある。
女の子ばかり四人、市役所近くの夏休みの小学校を借りて、暑いので北向きの廊下に机を並べてタイプを打つ。
職員が確認済みの書類を打ち込むのである。バイトの担当は25歳くらいの独身男性で、時間の空いたとき、その人も一緒にアイスを食べながらおしゃべりしたりした。

独身男性は仕事よりも、間近に迫った地元商工会主催、市協賛の盆踊りの準備に燃えていて、大きな内輪に○○市役所と書き、これを振るのだと張り切っていた。
各団体、そろいの浴衣で踊る形式は阿波踊りと同じ。
四国の町はお盆の間、踊り一色という感じだった。

家族と見物に行くのも楽しかった。高校くらいになると、友達同士、ボーイフレンドなどなど、誰が誰と一緒だったと思わぬ組み合わせの目撃談がクラス中を駆け巡ったり。

広島の夏は静かである。原爆の日の八月六日、にぎやかなのは平和公園近辺だけで、市役所や市の施設は全部休みになり、暑い季節なので、人通りもほとんどない。
盆踊りも町内会主催で細々とやるところもあるが、企画するのも参加するのも高齢者ばかりになっているのかもしれない。

戦前の広島の盆踊りがどんなに賑やかだったか、年配の方に聞いたことがある。
若い男女が夜遅くまで踊り、よその地区へ遠征?に行くと仕返しに相手地区から大挙して押し寄せ、一触即発だったりと、夏の娯楽の中で大きな地位を占めていたのだと思う。

広島の八月はとても唄ったり踊ったりの気分ではないのだろう。
1945年以来、唄うことも踊ることも忘れた深い深い沈黙と嘆き…
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被爆者の描く絵

2008年07月30日 | 広島案内
今は世界中に知られるようになり、まとめた本も出て、資料館にも保存されているたくさんの被爆者の描いた絵。
うまい絵もそうでない絵も、これだけは忘れられないという気持ちのこもった絵である。
上手、下手を超えて胸を打つものがある。
また早い時期の被爆体験記なども、身の毛のよだつような恐怖を字に定着したものが多いと思う。

被爆していないものは、それらを見たり読んだりして、戦争の悲惨さを思い、平和の大切さを考える。

が、しかし、被爆者が原爆の絵ではなく普通の絵を商品として売る。体験記ではなく小説をを商品として売るとなればどうだろうか。製作料をカンパでまかなうというの素人作品の延長ではなく、れっきとした商品として売る場合である。

この場合は何よりも完成度が大切だと思う。
誰が描いたか、誰が書いたかは関係ない。世の中にはいい作品とだめな作品と、その間の、無数の段階の作品があるだけのこと。
人の財布を開けさせるのに、甘えは無用ということです。

厳しいことを言うようだが、被爆者の作品ということだけで持ち上げるのは本人のためにもよくないと思う。

きょうは…といってもいつもですが…辛口になりました。
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夏、木立ち、木綿のワンピース

2008年07月29日 | 暮らし
近所の店でランチを食べた。おしゃれな一枚。フォークの影がgood!!

広島ブログ

夏になると山へ行きたくなる。なぜだろう。
子供のころ母の実家へ遊びに行き、いとこたちや近所の子と群れて遊んだ記憶が体に残っているのだろうか。

空は青、そのほかはいろいろなトーンの緑、緑、緑。自分もまた緑に染め上げられるような緑の饗宴。
山の中の小さな池。蓮の花。大きな葉を帽子にして遊んだ記憶。
木立の匂い。朝、静かに水蒸気が立ち上り始めるときの、ひんやりと涼しい匂い。

着ているものはいつも決まって木綿のワンピース。ひまわり、お人形、朝顔、懐かしい日本の柄。

けさは急に木綿のワンピースが縫いたくなり、駅裏の手芸屋まで出かけた。
思った柄がなく、結局テーブルクロス用に涼しげな青い花の布を買った。

布はもう完全に初秋物にシフト。服を縫う人も少なくなったので、パッチワークやインテリア用の布が多かった。
布を見ると心が落ち着く。服を縫ってもらった子供のころが思い出される。
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営業研修@息子

2008年07月29日 | 暮らし
しまなみ海道生口島のシトラスパーク(=お客さんが少ないので今は入園料を取らずに休憩所として運営中のようです)

うーーーむ、かなりしつこくなってきたけど…
さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログありがとう~(⌒^⌒)bうふっ♪

息子がこの春入った会社の営業研修で、地元販売店に出向中。
我が家で営業の仕事をするのは息子が初めて、話を聞いているといろいろと面白い。

会社の人と車で営業する地区まで行き、そこで下ろされ、一軒一軒パンフレットと名刺を置いて帰るそうな。この暑い中、訪問先の方は玄関に呼び出されるまでにかなり不機嫌になっているというもの。さまざまな扱いを受けるらしいが、それもまた修行。若いときの苦労は買ってでもという…あれですよ。

営業の人には営業独特のキャラがあるらしく、お年寄りがよたよたと信号でもないところを横切っていると、
「馬鹿が!!おまぇ、死ねぇや」と本人には聞こえないように車の中で言うとか。そして息子に
「お前も言え!!」
息子
「…死ねぇや…」
「そうじゃ。よう言うた」
たと褒められるそうです。
運転も荒っぽいので怖いとか。

五月の連休明けから二か月は工場で製品を作り、八月末までは地元で販売。
どんな製品でも営業に周って売る人がいるからこそ。
販売店の方たちからは
「本社に帰ったら、じっとしていても売れるものを考えてくれ」と言われたとか。
おっとその前に販売ノルマの達成。あと一月、がんばれ!!
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ハンカイソウ

2008年07月29日 | 暮らし
高知県、天狗高原で。

高原を彩る大形の花、鮮やかな黄色が印象的です。

名前は中国の楚漢抗争期の劉邦の武将・樊會に由来し、漢文の教科書でよくとりあげられる「鴻門の会」で、あやういところで項羽から劉邦を救いだした豪傑です。草丈が1m以上と高く、豪壮なようすを樊會に例えたといいます(野生植物写真館より)
うーーーむ、かなりしつこくなってきたけど…
さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログありがとう~(⌒^⌒)bうふっ♪
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被ばく証言集完成

2008年07月28日 | 広島案内
写真は愛媛県の海岸。さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログありがとう~(⌒^⌒)bうふっ♪

私は数年前から、被爆者のお話を聞き、市の「原爆被災者慰霊等の助成金」というものをもらって1,000冊刷り、全国へ無償配布する会の活動をしている。
昨日は第5集の配布作業をした。
ヤマト運輸のメール便で700あまり、そのほか宅配も含めほとんどを発送した。その費用も市からの補助金と、全国皆さんからのカンパ、会員のバザーなどで賄った。

初め10人いた会員は5人になり、その中の一人が御主人の海外赴任で続けられなくなり、今回を持って終刊ということになった。

会で出会った人たちは、いろんな意味で能力が高く、派手ではなく、教養もあり、若く、大変勉強させていただいた。

苦労もいろいろあった。被爆者の思い違い、記憶違いを訂正していただくとき、特に気を遣った。被爆した町名、爆心からの距離、これは第四集で問題になったが、原爆のあと広島に戒厳令が出されたという人までいた。これは平和記念館のバーチャルミュージアムにも載っているが、出されていなかったと突き止めるのにも手間がかかった。

防衛省の戦史研究室に問い合わせたところ、戒厳令は天皇大権に属すること、天皇の御名御璽、全閣僚の署名捺印(花押だったかな?)で有効、記録にない戒厳令なとありえないとの明確な回答をいただいた。

戦後だいぶたってから、元軍人が厚生省の調査で話したことが広島県史に引用され、広島県戦災史にもそのまま載せられている。
執筆者とも連絡を取り、違うのではないですかと申し上げたが、いまだお返事はいただけてない。まことに残念である。真実の前には専門家も素人も関係ないと私は思う。
ちょっと調べたらわかることをなぜたった一つの資料で断定したのか。

私が思うに、広島の戒厳令というのは、広島の被害が特権的だった、戦争末期でも天皇を頂点とした機能が整然と機能していたという二つの思いから来るものだと思う。
被爆者にはまことに言いにくいことながら、あまり広島の被害だけを強調すると、ほかの土地、ほかの国の戦争被害者と一緒に戦争反対を訴えられない側面もあると思う。

戦後だいぶたってから、昭和天皇が訪米前のインタビューの中で「気の毒ではあるが広島の原爆は戦争中でもあり致し方なかった」と回答。天皇は政治的な発言をしてはいけないらしいが、それに付け加えて「が、いまだに心が痛む」と言う発言があってもよかったのでは。それは政治的な立場を超えた、人間としての思いのはずだと私は思う。天皇も戦後は人間になられたのですから。

天皇陛下のため…と言う教育しか受けてこずに建物疎開などで被爆死亡した子供たちのためにもぜひそう言ってほしかった。
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欲しいもの、広島の文学館

2008年07月27日 | 歴史、社会、家族
さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログありがとう~(⌒^⌒)bうふっ♪

広島には文学館というものがありません。世界で初めて原爆が落ち、その悲惨な様子と廃墟から立ちあがる人間を描いた文学作品が、まとまって保存されることも研究されることもなく散逸する危険性があります。

市の中央図書館に郷土文学の一室がありますが、文学館とは言えない質素なものです。
文学館とはもともと利益の上がるものではありません。しかし、中核都市と言われる都市以上の都市なら、たいていのところに文学館があります。

広島は市の復興をするのに予算が取られ、被爆体験を継承する施設は充実していますが、原爆に筆一本で対抗していった人間の姿を描いた文学作品には市も市民も大変冷淡な印象を受けます。

しかしそれでいいのでしょうか。原爆を描く作品は暗すぎるということで、一部を除き売れ行きもそう芳しくないようです。
だからこそ市が中心になって文学資料の保存、研究をしてもらいたいと思います。

原民樹、大田陽子、峠三吉、正田篠枝、といった広島を書くことが中心だった人のほかにも大家でも原爆を書いた作家が何人かいます。
それらの人の原稿資料を収集し、体系づけ、研究成果を発信する。それでこそ、広島市が新たに魅力ある街になるのではないでしょうか。

あるグループが旧日銀をその場所へと運動していましたが、イベント会場と二階以上は折りヅルの保管庫になっています。折りヅルはお墓に供えられる花のようなもの、年に一度、供養して整理してもいいと私は思っています。

旧日銀なんてケチなことではなく、平和公園の地下に、今の施設の延長として建てるわけにはいかないのでしょうか。
平和に理解の深い市長さんに提案しますそれでこそ国際平和文化都市と言えるのではないでしょうか。
広島の人たちも、カープやサンフレッチェだけでない広島を知っていただきたいなあと私は思っています。
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ノーベル賞作家の故郷

2008年07月24日 | 歴史、社会、家族
内子の町並み。ハゼの集積、木蝋の生産で栄えた当時がしのばれます。

さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログありがとう~(⌒^⌒)bうふっ♪

黒古一夫氏のブログを見ていたら、大江健三郎は愛媛県の人たちとは疎遠であるというようなことが書かれていた。
地元でノーベル賞受賞の祝賀会が計画されていたのを固辞したこと、天皇から賜る文化勲章も辞退したことなど、地元の人には理解できない行動も一因ではないかとのことだった。

そうだろうなあ。と思う。大衆小説ではないし、ある時期は日本文学を引っ張っていき、彼自身オピニオンリーダーでもあったが、難解でわかりにくい文学ではある。
が、しかし出世してわが郷土の誉れ、みんなでお祝いしようと言うのを何で断る…と納得できないのだろう。大江先生もそろそろ丸くなってもいいのにということなのだろう。

しかし、持ち上げられ褒めちぎられるのは本人にしたら気恥ずかしい限り、それに文学はゴールのない一生精進の世界。祝賀会を受ける気分ではなかったのだと想像する。

もうひとつの文化勲章だが、こちらも辞退して当然と思う。その理由に本人は「私はdemocracistなので」と言っていた。まことにわかりやすい理由である。人は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、天皇に頭を下げる大江健三郎なんて見たくない。

もう一人、私の知る限りでは大岡昇平がいる。私は戦争中に捕虜になった人間、とてもそんなものはもらえないというのは、強烈な皮肉にもなっていた。
大岡昇平の戦争を描いた作品は、戦争の極限状態の中で人がどのように考え、振舞うのか、よく書ききっていたと思う。

どちらも文化勲章をもらったとたん、今まで私の書いてきたものは全部嘘でしたということになってしまう、そのくらい力のある作品を書いてきたと思う。

大江健三郎は最近いいものを書かないと私は勝手に思っているが、また胸にずしりと響く作品を書いてもらいたいもの。

内子の奥、大瀬が彼の故郷。「万延元年のフットボール」「同時代ゲーム」「芽むしり仔うち」などなどの作品、またいくつかのエッセィから、どんな山奥かと思ったら町から車で10分なんて。行けばよかった。

一年生を内子高校で過ごし、二年からは松山東高校へ転校した作家の実家は蝋の原料、ハゼの仲買をしていた家と聞いた。

次に機会があればたずねてみたい。
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映画「南京の真実」への疑問

2008年07月22日 | 歴史、社会、家族
写真は天狗高原です。あの林道を三十分下ると麓の国道へ出ます。愛媛、高知県境の険しい道です))))

さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログありがとう~(⌒^⌒)bうふっ♪

「南京の真実」は南京大虐殺がなかった立場からの映画だそうで、戦犯として処刑される七人の日本軍将校の一日を淡々と三時間にわたって描写した映画らしい。

なかったと証明するのは、証言、証拠をもれなく集めた上で可能になる…理論的にはそうだが、何十年も前のことをいまさら証明するのは不可能である。
百歩譲ってできるだけ証言、証拠を集めて、見る人に「なかったらしい」という心証を作り出せるかもしれないが、フィクションのスタイルで実証するのは元々不可能。まことに簡単な理屈である。
第二部、第三部と作る予定らしいが、どうするのだろう?余計深みにはまるのでは?

中国側のいろいろな記録が重複しているので、三十万人は多すぎるのが現在の定説と聞いた。
しかし、見たり支持する人たちが何を持って「大虐殺はなかった=殺された人はゼロ人」と主張するかは私には不明。脳内のイメージ?
実証できないことは結局、御伽噺、ファンタジーの世界。内輪で盛り上がってくださいと言うしかない。

えーー、あの監督はなんとおっしゃる方でしたか、加東大介のノンフィクション「南に島に雪が降る」を映画化した人である。
加東大介は昭和30年代、映画で活躍した喜劇俳優である。俳優の津川雅彦さんの一族と記憶しているが。

あの映画には致命的な欠陥がある。原作の持つ意味が全く逆になっている。と私は思う。

原作はノンフィクションで、米軍に攻略されることもなく戦線か移ってしまい、補給もないまま南の島で自給自足しているいくつかの部隊の中で、兵の慰安のため、演芸隊ができた話である。
演芸隊長に任命された加東氏が人材を集め、何もない島で、工夫して舞台を作り、雪景色まで作って演劇活動をしたことが語られている。

読ませどころは、かつら、衣装、三味線などの楽器は手作り、歌舞伎の台本を全部そらんじている人もいて、本格的な芝居小屋まで建てててしまうところ。
死期の近い兵が、東北の田舎を思い出し、担架に乗せられたままで、白い布の雪を撫でて涙ぐむと言うところなど。

簡単に言ってしまえば、戦争の非人間性、その中で人が何を考え何に慰められたかが作品のテーマだが、某監督の映画では前線に行く部隊が冥土の土産に演劇を鑑賞させてもらえる設定になっている。

戦線が移ってしまい、籠城状態の南の島で、どこが前線?
戦意を高揚させる演劇って?日本を舞台にした望郷の念を誘う演劇で、どうやって戦う気になる?
映画の筋運びが全然つじつまが合ってないし、原作が全く読めてない人だなとそのとき思ったものである。

監督は南京に行かなかったそうである。それで南京の映画を作る…大丈夫?と私が心配するのも何だけど。
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四国カルスト、天狗の森、黒滝山へ

2008年07月22日 | 旅行
連休は四国へ行った。
愛媛と高知の県境、四国カルストの東端、天狗の森、黒滝山に登った。
天狗高原は二度目だったが、前は秋の彼岸のころで花が多かったが、今回はほとんどなかった。残念。黄色い花が高原を彩っていた。

さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログありがとう~(⌒^⌒)bうふっ♪

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広島平和記念館の展示

2008年07月18日 | 歴史、社会、家族
写真はバーミンガムの町並み
さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログありがとう~(⌒^⌒)bうふっ♪

ある会のホームページに旧知のQさんが投稿している。
原爆投下の前に、広島に軍事施設があって軍都だったという広島平和記念館の展示が気に入らないと言っている。
展示を見ると、軍事施設があったために、市民が巻き添えになったとも感じられると。

軍事施設があったことは事実。原爆もいきなり落ちてきたのではありません。非人道的な兵器で市民を殺すのはもちろんいけませんが、広島の歴史を学ぶことも大切ではないでしょうか。

戦争末期、広島には第二総軍が置かれ、国土決戦に備えていました。それほど重要な軍事拠点だったのです。
広島は、日清戦争から50年間、アジアへ出兵する前進基地でした。多くの軍事施設、軍需産業、兵隊相手の今でいう風俗産業も広島ではことのほか盛んでした。まさに官民一体となって戦争にまい進した都市、それが広島でした。原爆は天災ではありません。原爆投下にいたる道筋を考えることも大切ではないでしょうか。

Qさんの言うように原爆投下はしようがないと私もまた決して思いません。非人道的な兵器を使ったアメリカの反省は未だ得られていません。それどころか難癖をつけてはとこへでも軍隊を派遣して現地の人を苦しめ、軍事大国として世界中を自国の都合のよい秩序のもとに置こうともくろんでいます。

原爆投下は許さない…そこのところはあなたと同じ言葉で表現されますが、原爆投下の責任の一端は、負けるのが分かっていていつまでも戦争を続けた日本の指導者にもあると私は思います。
あえて言えば、「国体の護持」にこだわった人たちにです。負けると分かっていて、なぜだらだらと戦争を続けたのか、そちらにも私はアメリカと同じだけの憤りを感じます。
1944年に降伏すれば、多くの都市空襲、原爆、まったく無意味な特攻出撃、数々の玉砕、沖縄地上戦も回避できたのです。

さらに引用します。平和公園の「安らかに眠ってください。過ちはにどとくりかえしませぬから」という碑文についての彼女の意見です。東京裁判、パール判事の言葉として

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この過ちとは、もしも前の戦争を指しているのなら、それも日本の責任ではない。その戦争の種は西洋諸国が東洋侵略のために起こしたものであることも明瞭である。…」
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パール判事がこんなこと言ったのでしょうか。言ったというのならぜひ出典を示してもらいたいものです。
パール判事は「後から出来た法律で、前の犯罪を裁くのは無理だ」と法律論の立場から日本無罪論をいったと私は理解しています。パール判事の言葉を都合のいいように引用するのはやめていただきたいものです。

東京裁判が、連合国側と日本政府の手打ちであることは歴史研究者の間では実証済みの自明のこと。
戦争の責任者を限定して裁判にかけ、早く戦後体制を作るため、事前に綿密な打ち合わせさえ行われています。東京裁判は押しつけ、パール判事だけが日本の味方などというのは史実ではありません。

Qさんが、パール判事の言葉を引きつつ「大東亜戦争」が日本の責任ではなく、西洋諸国の責任だと言いきるところは私は全く賛成できません。

第二次大戦まで、世界の各国は戦争をしてほかの国を支配し、その国から利益を上げることが自国を大きくするという世界観にとらわれていました。それは遠く16世紀末、ヨーロッパの各国がこぞって海外進出を始めたときからの大きな流れだったと思います。
日本もまたそれを見習って朝鮮、中国へと戦争を仕掛けていきます。日本の責任は明らかです。

しかし、原爆という兵器が、その世界観、戦争観をも打ち壊したのです。世界中の人たちがその恐ろしさに戦慄したのです。
国際協調しかない、そのためには日本も同じように反省しなければなりません。アジアの諸国へ出兵し、1,000万人と言われる兵士と民間人を殺した事実に目をそむけてはいけません。日本がアジアを戦場にしたのであって、アジアの諸国が日本に攻め込み、無辜の日本人を殺したのではありません。

日本の受けた被害を言うとき、加害についての反省がないと相手には受け入れてもらえません。南京大虐殺は30万人もいなかった…という一点でQさんは鬼の首をとったように言いますが、数の問題ではなく虐殺したのは事実、そのことに言及しないのは誠実ではありません。

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平和記念館の展示について、私の考え。

基本的には今のままでいいと思います。近代史のなかで広島の果たした役割について、わかりやすく展示しています。

ただ一点、炎の中を逃げまどう原爆被災者の人形はきれいすぎる、もっとリアルにした方がいいと私は思います。

あの人形は被爆者には不評です。
「服なんか焼けてしまって、体も焼けて、顔は腫れてお化けそっくり、あんなもんじゃない」と怒る人が多いです。中にはもっとリアルに展示を変えるよう市に働きかける人も。私も賛成です。

あまり生々しいと子供に刺激が強すぎるそうですが、別ブースにしてみたい人だけには見てもらうとか、何か工夫が必要ですがぜひそうしてもらいたいものです。
事実を知ること、それがすべての始まりです。
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大和ミュージアムは見たくない

2008年07月17日 | 歴史、社会、家族
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1945年(昭和20年)四月、片道燃料で沖縄への特攻出撃を命ぜられた戦艦大和のなかで、青年士官たちが特攻死をめぐって激論となり、鉄拳と乱闘にまで発展したが、その騒ぎを収拾した白淵磐大尉(大和で戦死)が次のように死生観を語ったという。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩と言うことを軽んじすぎた。……敗れて目覚める。それ以外にどうして救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」(岩井忠熊「わたし自身も『犬死』した」『週間金曜日』1993・12・3)

徹底批判『国民の歴史』p251より

勝ち目のない戦争に突き進む愚かさ…
では勝てればいいのか。そうではない。

20世紀は国民を巻き込んだ大戦の世紀だった。従来の戦争のやり方が無効になるくらいに武器、兵器が飛躍的に発達した。
悲惨すぎる犠牲の中から、ヨーロッパの人たちもアジアの国々も一国だけの利益で国際問題を解決する愚かさを学んだ。それは戦艦大和の大尉にも共通する反省だと思う。

呉に戦艦大和の記念館が二、三年前にできて、いつだったか入場者が百万人を超えたときいた。
見ていないので何ともいえないが、報道によると日本の軍艦製造技術のレベルの称揚と、純真な心で死んでいった乗組員の追悼がテーマらしい。戦争責任の追及だとか、反省だとかそういうものはあるのかどうか。今後も行く予定はないので、知っている方がいたら教えてください。

もし戦争への反省がないとしたらですが、反省のない追悼はただの感傷。感傷で死者を美化しても次の戦争は防げない。と私は思っている。一国の事情にとらわれてはいけない。
どの国も戦争に使う労力があれば、、粘り強い交渉に労力を使ってほしい。と私は思う。
朝鮮半島の二つの国、中国、台湾…いろいろ問題はあってもいきり立ってはいけません。国同士の交渉は、どんなに細く厳しい道でも、どんなに時間がかっても、必ず折り合えるところがあるはず。憲法の前文はそれを格調高く宣言しているのではありませんか。

「まだ護憲派っているんだね」と言う旧知のQさん、あなたの大切な息子さが戦死したらという風にその想像力を働かせることはできませんか。母親ならどんなことがあってもそれを防ごうと思うはず。何の腹の足しにもならない、観念的な「日本精神」の呪縛から早く逃れてください。

日本国民は二度と戦争をしない、そのためには周りの国の人たちを見下さずに協調していく。それ以外に何がありますか?
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またまた海外?(四国)へ

2008年07月15日 | 旅行
写真はロンドンのホテル、パークインヒースローのお茶セット。湯沸かし器のほかに紅茶などを入れる大型の蓋付き容器が。日本ではあまり見かけないけど、何でも入れられそうで便利♪見かけたら買いたいものです。

今週は二回も四国へ行く羽目に。初めは実家へ。週末は車で…今から暑さを考えて汗だくだく。ひぇーーー
連休、温泉旅館に泊まったら、九時前に布団を敷いていただいたので寝てしまい、夜中に目が覚めて往生した。

今回もあれがトラウマになり、間際まで決めかねて、結局、有名な温泉地ながら、イギリス風、アンティーク家具&調度のホテルくらいしかいいのがなくて。
温泉地のイギリス風ホテル???
はて、さて????

先月一人でイギリスへ行ったので、今回、連れ合いには車で行ける海外旅行(四国)、温泉地のイギリスで納得してもらおう。
いつか一緒に本物のイギリスへ行きたいけど、いつのことやら。それまでせいぜい元気でいたいもの。

さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログありがとう~(⌒^⌒)bうふっ♪
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中国の底力

2008年07月14日 | 歴史、社会、家族
写真はイギリス、ウィンダミア湖の湖畔
さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログ

日曜の朝、中国人の弾丸ツアーという番組があった。
まず関空に降りて京都などを観光、東名をバスで東へ。富士山を車窓に見ながら東京着。都内観光の後は銀座でお買い物。それが半端でない買い方なので仰天した。

「銀聯カード」という、日本で言うとデビットカードの機能を持つ銀行カードでバンバン買い物する。百万円くらい使った人も。たちまち両手いっぱいにブランドものの袋が。

中国は国外へウォンの持ち出しを禁じているが、このカードで買い物するのはいいらしい。都合が悪くなれば銀行に通達を出し抑えられる。よく考えている。

情報、もの、人、資本は昔よりはずっと簡単に国境を越える時代になった。いい、悪いではなく、その現実をまず認識しないといけない。そう思った。

日本企業がユーザーサポートの機能を中国に移している、という番組を見たこともある。上手に日本語を話し、難しい質問も次々とさばく中国の若い女性を見ていると日本人もうかうかしておれないなと思った。

私のまわりにも、アジア人というだけで毛嫌いし、自分が日本人であることに優越感を持つ人がいますが、どの国の人もそれぞれにいいところとそうでないところがあるだけのことで、日本人であることでしか自分を支えられないなんて、かなり情けないと私は思う。

自分が何々であるではなく、何をしてきたか、これから何をしたいかと考えながらやって行きたいものです。
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楽しいデザート

2008年07月12日 | 暮らし
こちらはデザート、あかずきんちゃんのカップ入ってます。受け皿は恥ずかしながら私が以前作ったもの。お好みだといいんですが。
Kさん、昨日はありがとうございました。とっても楽しい時間でした。

さて唐突に…お許しを(o^v^o)広島ブログいきなり…(゜Д゜)ゴルァ!!
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団塊の世代

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