日記

日々のあれこれ
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旅へのいざない

2012年06月28日 | 暮らし

私の周りは最近海外旅行ブームで、思えば超円高の昨今、海外でこそ円の強さが実感できるというもの、いいなあ。

4年前には急に「六月のイギリスでバラが見たい」と思って、一人でツアーに参加した。そのころは今に比べると円安で、なんでも高いので閉口した。今は買い物に関してはずいぶん安くなっていると思う。ツアー代金はほとんど変わらないけど、なぜ???

今度行くとしたらドイツかな。秋のドイツもいいかも。誰か誘えばいいんだろうけど、人と一緒に同じ部屋で寝るのが苦手な私は無理かも。夫とでも、旅館などは泣く泣く一緒の部屋に泊まりますげど、ホテルはシングルが多いかな。古いのは平気だけど、狭いのはとっても苦手。夜中に目が覚めて、明かりは付けられず、洗面所や風呂場で何度眠れぬ夜を過ごしたことか。

写真はロンドンで。2008年。ロンドンの街は道路が狭く、カーブしつつ放射状に伸びているのでわかりにくかった。

こちら、コッツォルズ地方、カッスルクームで。国旗が立ってるのは教会。

来月はとりあえず月末に一泊旅行。九月は恒例の誕生日旅行。普段の生活は何も買わず、至って地味に。

きょうは二階の片付けの仕上げ、午後から美容院。以前新聞の切り抜きの写真を参考に持参したら、カルテにしっかり貼り付けてあった。女優の大地真央さん。私は似ても似つかないので、笑えた。笑っている場合ではないけど。

美容室の雰囲気はひとえに経営者の人柄が作るもの。スタッフの言動もおのずと経営者に似てくる。腕の良し悪しもあるけど、ゆっくりくつろげる場所が女にはうれしい。

翻って考えたらこれは何の商売でも当てはまることだと思う。たまにプロ意識の欠如した店がありますが、そういうところは客によって淘汰されると思う。

先日食事した店はミルクを切らしていると言って、食後のコーヒーに砂糖が二本ついてきた。一本はお詫びのつもり?私なら出すのが遅くなっても急ぎ近所のコンビニへ買いに行くと思う。コーヒーは案の定とても薄い出がらし状態。

文句言えばよかったけど、金持ちケンカせず、金持ちでなくてもケンカは好むところではないので、黙って店を出たけれど、今度通ったとき、果たしてあの店はあるのかどうか。。。。

ツアーもいろいろ。安いのから高いのから。友人が、たまにはと高いツアーに参加したら、お金持ちが多くて、買い物も半端でなくて、居心地悪かったそうな。これは私の場合にですが、何事も分相応と言うことですね。


先日二歳の孫が初めて「ひいばあたん」と言った。やっと、ばあたんとひいぱあたんの区別がついたらしい。彼女の中ではどんな見分けをしているのだろう。普通の年寄りとうんと年寄り?ふっくらとほっそりと?

見るたびに成長著しいので驚くこともしばし。なんか見飽きない。わたしもいつかひいばあたんと呼ばれたいもの。体に気を付けて長生きしたいものです。

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鋭意片付け中

2012年06月27日 | 暮らし

写真は2008年6月、イギリスで。あーー、ヨーロッパ行きたい。実母、義母、夫、自分が元気なうちに。ユーロが安いうちに。飛行機で三時間くらいのヨーロッパってないかあな・・・


流れで二階を片付けている。その心は新婚夫婦がお盆に帰るらしいので。二階の部屋は四つ、子供たちのそれぞれの部屋に客用の寝室だったけど、唯一やって来る実母は階段を上がらなくなったので、いつの間にか息子たちの遊ぶ部屋に。30年以上前のテレビはゲーム専用に。そのゲームもしなくなったので、もう捨てたい。

今回その部屋を三男夫婦の泊まる部屋にして、三男の部屋をみんなが遊ぶ部屋に模様替え中。これが全然はかどらない。今日は途中でいらない本十数冊をリュックに入れてアカデミィ紙屋町店まで売りに行く。帰りに買いものして食事したら、totalで往復交通費が赤字。いつもこんな感じ。

普段は見ないようにしている部屋の棚や押し入れから、いろいろなものが次々と出てきて収拾のつかない状態。おけいこ事をするとどうしても用具や材料、作品がたまる。マフラーもwoolだけで、六本。ヤマタノオロチ状態。人にあげても迷惑だし。

ただ今16:00前、ちょっと休んでまた再開。捨てても捨てても、奥から奥からものが出てくる。なんで????

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「わたしの京都」 渡辺淳一

2012年06月26日 | 読書

写真は妙心寺塔頭大心院の庭。なんでも室町時代に作られたらしい。こちらは宿坊があり、宿泊ができます。

部屋はテレビなし、境内広大、コンビニなし。情報とおやつを遮断した翌朝の目覚めのさわやかなこと。現代人はいろんなものに振り回されて却って疲れてますね。のんびり行きたいものです。


京都へのあこがれは、高校時代の修学旅行がきっかけとのこと。四月は出身地札幌ではまだ冬、京都は桜が満開、暖かな文化のある場所へのあこがれは、作家となってますますつのり、足しげく京都へ通う。

しかしそこはそれ、あの渡辺センセイのこと。祇園のお茶屋遊びから、はんなりとした京都女性について語り、京都的なものを東京や札幌と比較して語る。

いわゆる京都本はたくさんあるけれど、お金をかけてお茶屋遊びをして、京都文化に思いを巡らせるのはやはりこの人の真骨頂だろう。はっきりとした否定の言い方がないのが京言葉。相手に恥をかかせないようなあいまいな言い方の中に真意があるそうで。これはパリ旧市街の上流階級にも共通する言い方なんだそうです。なるほど。

京都では無駄には遊んでなくて、京都を舞台にした小説も何作かあるそうな。すみません、そちらは読んでません。この人の小説は、きれいな女性にもてまくるという男性の妄想を掻き立てるようなものだと思うので、私は読者の対象に初めから外れている。

税務署は、京都で遊んだのを必要経費として認めてくれなかったそうで。その時は取材のつもりではなく本気で遊んだだろうから、やはり無理があると思う。

私のような庶民かつ女性は、茶屋なんか覗くこともできないので、ちょっと覗いた感じで面白かったです。北大から札幌医科大学に移った経緯も、この人らしくて良かった。大学病院を辞めたのは日本初の心臓移植の手術に関して学内でぎくしゃくすることがあったと何かで読んだ。硬骨漢の部分もある人なんでしょう。


 

写真は京都祇園、静かな朝の町並み。2007年10月

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観音寺のアジサイを見る(へろへろ)

2012年06月24日 | 広島案内

梅雨です。今にも降りそうな空。でもなんとか持ちこたえそうなので午前中佐伯区坪井の観音寺へアジサイを見に行きました。

こちらです。http://kannon-temple.com/

車で行くのは団地の中を通るので道が不安、バスで行くことにしました。

市役所と電車通りの交差する、R2沿いから9:59発東観音台行に乗ります。バスは旭橋からバイパスに上がり、井口台、鈴が台などの団地を経由して30分で東観音台入口へ。そこから徒歩5分の予定が・・・・

あれれれれれ??????なんかおかしい。しばらく歩いて、街角の広告用の地図で見ると全然違う場所に降りたらしい。正しくは観音台入口でした。バスの路線が全然違うんですね。観音台と東観音台、ちょっと似てるが全然違う

人に道を尋ね尋ね、団地と農家の混ざった複雑な道を上へ上へと上がりつつさ迷い歩くこと30分、やっとたどり着きました。

地図は極楽寺様のサイトより拝借し、私が加工を加えました。

行きを赤、帰りを緑で入れてみました。畑仕事をしているのは地元民ではなくて、遠くから来て貸農園を耕している人。道を聞いても「さあ?」と首をかしげるばかり。

結局、地元の年配男性が地面に棒で道順を描いて、親切に教えてくれました。やれやれです。この付近は極楽寺山のふもと、かなりの急斜面です。そこを上ります。あへあへ。大きな病院の横が公園に、そこを過ぎたらすぐ。お寺は山陽道のすぐ下です。

1999年(今から13年前)の6月29日、広島市西部は豪雨により土石流が起き、県内で32人の方が犠牲になりました。観音台も被害が大きくて、大変だったようです。

何日かして三男の高校の懇談会に行くと、この団地からきていたお母さんが、子供の成績そっちのけで豪雨がいかにひどかったかを話し、私たちも子供の成績そっちのけで話に引き込まれたものです。私はその日は実家へ行ってたし、「えっ、いつの雨のこと?」という感じ。被害の大きさは実際に体験した人から聞くまではよくわからないものです。

団地の中を大岩が濁流と一緒に流れていた。JR、電車、バスすべて止まり、タクシーも行ってくれない。徒歩で自力で団地の一番上までたどり着くと真夜中だったとか、そんな話です。あれから砂防ダムも整備されたと思うけど、またあの豪雨の日が巡ってきます。

「お父さんーーー、今までありがとうねーーー」とご主人に感謝の言葉を言いながら、家と一緒に流された人もいたそうです。私ならどういうでしょうか。ありがとうでも子供を頼むでもなく、「私だけ流されるなんて悔しい!!!すぐに再婚したら、許さんけんね」と言う感じでしょうか。見苦しい断末魔の叫び。我欲の塊。人間は極限で性格が出ます。

つまらない話はこれくらいにして、アジサイがいろいろ咲いていました。

お祖母さんと孫?

 

裏山が遊歩道になっていて、極楽寺山の登山道へと続きます。1999年の年末、別のルートで登ったら、登山道が流されて消滅、崖をよじ登るようにしてやっとたどり着いたのは住職の家の庭。

住職夫人が、「あなたたち、どこから来られたの!!」と驚かれていました。

幻の八重咲き山アジサイ「シチダンカ」。幕末、シーボルトがヨーロッパに紹介して以後、日本では絶滅したと思われていたが、1959年、六甲山中で再発見。今では各地で植えられています。

装飾花がちょっと変わった形

境内、お地蔵様多数。

このあと観音台入り口へ戻るも30分くらい時間があるし、その系統はJR五日市が終点。またしても団地の中を大体の見当をつけて歩いて東観音台下のバス停にたどり着く。1分もしないうちにバスが来たので飛び乗った。やれやれ。次は1時間40分後。民家しかないところでそんなに待てるわけがない。間に合ってよかったーーー。

離合も難しい山道とばかり思っていたけど、お寺まで道はいいです。今度は車で行こう。

行きと同じルートで帰宅。夕方から雨になったので、思い切って行ってよかった。アジサイもそろそろ終わり。

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梅雨の晴れ間

2012年06月22日 | 暮らし

朝、郷土資料館前で友人と待ち合わせて落花生の苗、その他をもらう。「珍しいから育ててみて」とのこと。いつもありがとう。

友人は藍染の一日体験会参加。いいなあ、私もしたいけど、申し込んでないので残念。

そのあと車のバッテリーの調子が悪かったので、JAFに家まで来てもらった。結局取り替えることに。おそるおそる近所のGSまで運転していき、載せ替えてから織りの教室へ。

今しているのは組織織。柄を織りだすやつ。難しい。足を踏むところは六ヶ所。パイプオルガンみたいにあつちゃこっちゃ順番に踏み分ける。すぐ順番がわからなくなる。人と話をしていたらわからなくなるし、ほかのことを考えてもわからなくなる。

きょうは織るより解く方が多かった。見かねて先生がやってくださる。「簡単でしょ」と言うのだけど、確かに簡単そうに織ってるけど、いざ自分がやるとなると全然できない。めげる。あーー早く夏休み来ないかな。

先生は50歳から一念発起習い始めたそうで。仕事をしながら。偉いなあ。体でなんでも覚えの早い人っているもんだと初めて知った。

「中学校の時、体操部に入れと言われたけど断った。練習が邪魔くさいから。体操部の子より私は何でも上手だった」とか「私のお母さんはセーラー服が欲しいと言えば一晩で縫い上げて、朝起きたらもう出来ていた」とか、身体能力の高い人っているもんですね。私は身体能力が低いです。

織をする人はだいたい手先の器用な人が多いけど、私は別。今まで続いたのは、人にものを教わる楽しさと昼休みのお弁当+おやつ+雑談が楽しいから。

給食の時間が一番好きと答える小学生と大差ないような。でも、いつまでやるんだろう。自分でもわからん。お稽古代も高くないし、材料費の高くないし、時間はいくらでも潰れるし、まあどこか出かける場所がある方が生活にもリズムが生まれるということで。

 

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写真いろいろ

2012年06月21日 | 暮らし

12(火)

絵付け行く。先月作ったものが出来上がった。ピッチャーは湯冷ましに利用。9年くらい無地で使っていて、やっと柄を付けた。葡萄のレリーフがあるので、やっぱり葡萄かな。小物入れは孫娘に受けたけど、カチャカチャと扱うので没収。

大体が乱暴な子活発な子である。先日、眠くなって、泣きながら私のお腹をペタペタ叩いていた。餅つきみたいな音がした。三男は三歳くらいから予備校時代まで、コアラのぬいぐるみで私のお腹をたたいて遊んでいた。なんか幼児を引き付けるものがあるのだろうか。謎????

もう一つはハートの小物入れ。これはおもちゃにして遊んでいた。

14(木) 

三景園のアジサイに行く。まだ早いようで、全体に五分咲きと言う感じ。行き帰り、SAに立ち寄る。ちょっとだけ旅行気分。

アジサイよりもカシの花粉がすさまじい。今を盛りと盛んに花粉を飛ばし、辺り一面生臭い匂いでいっぱい。

ウラジロガシ?名前不明。 クリでした。ブナ科の中では花が遅く、この時期けっこう目立ちます。

17(日) 

雨が上がって、東千田公園のフリマへ行く。何も買わなかったけど。この付近は図書館と教育学部の建物のあった場所。ちょこっとだけ見えている化粧煉瓦の建物が旧理学部一号館。あそこまで突き当たって右へ折れると文学部。南門のそばには自動車部があっていつも夜遅くまで車を整備していた。

学び舎はフリマの会場に。トホホホ。

金、土と孫を預かって疲れたので日曜日はあるもので簡単に。

トマトのヘタをくり抜き、クリームチーズを入れてレンヂに掛ける。パンのおかずに。名前はないけど、トマトのチーズサラダとでも。

父の日なので、娘じゃないけど、夫にシュークリーム買った。皮がパリパリ、クリームたっぷり。光の入る地下のテラスでお昼ご飯の代わりに一個食べる。誰も来ない静かな場所。コーヒーはサービス。カトル・フィユ、場所は比治山線皆実町2丁目電停前。

冷蔵庫にあるものと採集したもので天ぷら。私は3分の1くらい片栗粉を入れます。かりっと仕上がります。ヨモギは道端で。葉先の柔らかいところを利用。大豆の水煮のかわりに納豆でかき揚げ。納豆はヨモギに絡まないので、残りはズッキーニーの上に載せる。ズッキーニーは屋上菜園より採集。名前は(家計に)優しい天ぷら。

大きなお皿は深川製磁のディナー皿。とっても丈夫でもう36年使っている。

キュウリの酢の物って、小さく刻むのが結構手間。急ぐときは大きく切ってゴマ油でいため、しんなりしたら甘酢に漬けて味をなじませる。この日は生姜とトウガラシも。キュウリの中華炒め

牛蒡に見えるのは鉢の柄です。お間違えないよう。急に牛蒡も食べたくなった。。。。

18日(月)、夜九時ごろいきなり息子一家が襲来。孫娘の手に持つのはアンパンマンのマイクロフォン。なんかのボードに当てるといろいろしゃべるそうで。電池交換が大変そう。炊飯器、電動自転車の処分代1,350円をもらう。貰わなくてもいいようなものだけど、お金のことはきちんとするのが躾の一つ。

今度の家は、昔私が一人暮らしをしていた場所のごく近く。話をしながらいろんな記憶がよみがえってくる。

「斜め前の食堂、昭和41年開店だそうですけど、お母さんきっと来てるよねって話してたんです」

「もちろん行ったよ。多分もう代替わりしてるだろうけどね」栄枯盛衰の激しい飲食業で、50年近くも続くなんて驚異的。

ちなみに息子たちの住む賃貸マンションは、昔は**ビルとシンプルな名前。立て替えて、例えばアーバンパレスとか、ホワイトパラッツォとかいう感じの接頭語のあとに昔懐かしい**とオーナーの名前が。その二階の美容院で髪切ってもらったこともあります。短く切られて、伸びるまで嫌だった。

一週間余り、忙しい毎日でした。今月は30日が土曜日なので、早くも月末の気分。暑くなく、寒くなく、夜更かしの毎日。

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江戸時代の社会福祉

2012年06月19日 | 歴史、社会、家族


今週は月に一度の古文書講座があるので、えっこらしょッと予習をしている。古字の辞典など買えばいいのだろうが、高いし、引き方が難しそうだし、買ってない。いつまで続くことやら。

今習っているのは、広島市に隣接するある郡の割庄屋を勤めた家に残された「御巡検衆御尋之事有之其品ニ応御返答覚書」という享保二年の史料。巡検使は将軍の代替わりの時、幕府から各藩、天領に旗本を派遣、施政、民情、生産の様子などを視察し、改善指導させる役割。

地元にすれば接待も負担だし、不都合なことが露見して税が強化されたり、責任者が処罰されたりするのは最も避けたいところ。それで、各地の庄屋階級に事前に想定問答集を配布し、余計なことを言わないよう、郡内で同じように答えるように準備したその史料である。

この問答集がおもしろい。当時の年貢収納の仕組み、運上金の掛け方などなど、詳しくわかるし、私が感心したのは火災で家を失った百姓に対する手厚い福祉政策。そのくだりはこうです。

「・・・郡中百姓家焼失之義御尋候ハヽ家焼失仕候段者家材木ハ山所願次第相渡リ銀子茂利無シニ御貸被成候而年賦尓返納仕候段可申上候・・・」ですもんね。今の津波や地震の被害者より、ずっと手厚く助けてもらっている。

山所というのは郡が持つ山のことらしい。その共有地の木を、願い出て無償で切り出して家を建てる。お金も郡役所が無利子で貸し付けてくれる。そのよう民を手厚く保護していると幕府のお代官様には答えなさいとの問答集。

今の私たちが考えるよりも地方自治とか地方分権とかあったのかも。共有の山林というのも大切な財産だった。明治政府は共有地に課税すると脅し、国有林にして入会権も没収、住民は木一本、下草ひとつ取れなくなった。というのはまたのちの話だけど。


テレビの時代劇、お代官様の見回りと言えば接待がつきもの。悪役の越後屋が、年貢米を横流して私腹を肥やしているのを見逃してもらう見返りに、酒池肉林に女性の接待。

年貢を納められぬ貧農の娘がお酌をさせられて、ふすまを開けると布団が二つ並んでいて、「フッフッフッフッ、越後屋よ、お前もワルよのう」というあのパターン。「あれぇ、お代官様、お許しを」と泣き叫ぶ娘。悪代官は「悪いようにはせぬわ」と言いつつ、逃げる娘の帯を手繰り寄せ・・・あわや娘の貞操の危機!!!!と、そこに現れる水戸黄門。。。。って上の話とは何の関係もない妄想炸裂、失礼しました。

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ちょっと嬉しかったので

2012年06月18日 | 暮らし

写真は四年前、イギリスで。


夜、息子から電話。孫娘のおもちゃを買ったけど、ドライバーがなくて電池が入れられないので今から行くって・・・ヲイヲイ

10分くらいしたら三人で賑やかに登場(そうだった、引っ越しして近くなったんだった)孫娘は来るなり私にしっかりしがみついて離れない。

「こんなことでいちいち来ずにドライバー買いなさい。私たちは70過ぎたら何もできない痴呆老人になる予定だから」と私の言う傍らで夫がふたを開けて、我が家にある乾電池を入れてやった。情けない。

次男も三男も手先が器用でたいていのことは自分でするけど、長男はおっとりのんびり。同じ親から生まれたのにどうしたことでしょう。

次男は髪型など、ここ一番と言うときにはとてもきれいに整えるし、髪型ひとつで人間の印象はがらりと変わるのだから器用なのは大切。三男は車をいじるのが大好きで、学生のころは自分の好きな車に別の車種のエンジンを載せ替えたり、煙突付けたり(←木炭車かよと突っ込む母)、よくも飽きもせずにやったものです。何でこうも違うのでしょう????

とは言え、近くなったので、さっと来てさっと帰るということもこれからはありそうで、嬉かったのでつい書いてみました。

「どうしたん?きれいに片付いて」と息子に言われたので、「この間はあんたとこの娘が来ていたので散らかっていた」と説明。子供がいるとなかなか思うようには片付けられないものです。焦らず、子供が怪我しないことだけ気を付けて暮していればそれでいいのでは。

 

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結婚と戸籍

2012年06月18日 | 歴史、社会、家族

写真は二年前のきょう、孫娘が寝ています。こんなに小さかったのね。よそ様と違って(違わないお宅もあるだろうけど)、退院後一月ほど、我が家にいました。

そのあと、お嫁さんの実家へお母さんと二人を送り届けた後は、地に足をつけて歩けないくらい寂しかったけど、あれから二年、孫娘も元気に大きくなりました。月日のたつのは、本当に早いもの。


午前中、自転車で区役所へ。息子の謄本を取るため。なんでもパスポートの期限が切れてるそうで。

この前は親子三人で中国へ行ったんだよね。龍や獅子の飾り物の前で、同じポーズで写真に収まったり、毛沢東のデザインの時計を喜んで買ったけどすぐ壊れたり、土産物店で「紅衛兵の制服ないですか」と日本語で訊いて「ない!」と冷たくあしらわれたり、万里の長城の駐車場から入り口までの坂道で、「乗れ乗れ」としつこくワゴン車を寄せてくる中国人をからかって怒らせたりと、ネタをふりまく息子一人にハラハラドキドキした。

あれから10年、結婚して新婚旅行である。しみじみとしてしまった。

で、本籍地は我が家の現住所にしていた。何でもないことだけど、ホッとして嬉しかった。家族が増えたという感覚。これってなんだろう????

結婚すると親の戸籍から出て本籍地を定め、以後はどこへ住所が移ろうとその自治体が戸籍を管理するというのは日本のほかにはあまりないらしい。アメリカでは出生証明書が本人確認の手立て。日本ほど詳しくは記載されていないらしい。←アメリカで生まれた知り合いがいないので、未確認。

旧民法では結婚してもそのまま親の戸籍に残るが、戦後は夫婦二人で新しく戸籍を作る。本籍地は日本国内どこでもいいので、皇居にしたり、ディズニーランドにしたり、今年はスカイツリーのある場所にする人もいるかも。

がしかし、たいていの人は親の住所か、もっと前のご先祖の住んでいた土地にすると思う。

で、これが問題。男性の姓を名乗り、本籍地も男性のゆかりの地にしたなら、女性の方の親御さんはやはり「娘を嫁に出した。今までの娘はもういなくなった」という寂しさに襲われるのでは。私には娘がいないので、他人事みたいで申し訳ありません。

本籍地をどこにするかと言うのは結構ビミョーな問題。わが身内の某男性は、息子が、親に無断で相手方の親の住所を本籍地にしたのに激怒していたらしい。

「あの子に歳とったら面倒見てもらおうと思ってるのに。養子に出したつもりはない」というのがその言い分。おやおや、本籍地と扶養の義務は無関係、親を見捨てるような子でもないと私は思ったけど、その感覚はまあわからんでもない。私も同じようになったら、少しは寂しかったかも。結局、その子は二年もせずに離婚した。

こんなもめ事を回避するためにも、もっと別な方法はないのかしら。何よりも、少し前までは他人が戸籍を自由に見ることができて、先祖の居住地を調べることで、結婚差別を招いたこともあったんだから。(それの対抗法としては本籍地を転々と変えるといいらしいが、相続の時に煩雑になるらしい)

我が家の場合は、隣の今お姑様の住んでるところにしたかったけど、今は亡きお舅様に「街中の住所なんて仕事の都合で変わることもある」と反対されて、お舅様の本家筋のある遠くの場所にした。その頃は逆らえなかったけど、今なら同じ市内の方が便利。戸籍の要ることってめったにないけど、いちいち遠くへ申請し、だいいちうろ覚えの地番なので間違えないよう確認するのがひと手間。

でもお墓参りに行くと、この地に連なることを実感して、自分の根元ができた感じがする。縁もゆかりもない場所だけど、自分の田舎という感覚。たかが戸籍だけど、不思議。

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「平成大家族」 中島京子

2012年06月17日 | 読書

歯科医をリタイアした緋田龍太郎は、自宅で趣味程度に義歯の製作を請け負っている。

家族は妻に、別棟の妻の母、十年以上引きこもっている長男の克郎。そこへ次女が、夫の事業が失敗して、家族三人で身を寄せる。さらに三女が離婚し、元の夫とは別の男の子供を妊娠して戻ってきた。家族は総勢で八人。大家族である。

かつてはテレビドラマでも大家族ものというジャンルがあった。自営業の家庭にいろいろな人がいて、出たり入ったり、ささやかな事件が起きてはみんなで解決し、ほろりとしたりするドラマである。うーーーん、今思い出すのは「寺内貫太郎一家」とか。

今大家族ドラマが成り立たないのは、家が狭くなり、結婚した親子はまず一緒に棲まない社会情勢の変化が背景にあると思う。無理して話を作るとリアリティがないとか、偽善的だとか言われそう。

この小説が成り立っているのは、何よりも家と敷地が広いということだろう。だからこそ、家族の成員が、住むところだけは確保されている。前提が恵まれている。

とは言え、そこは平成の御代の話、引きこもり、中途退社で立ち上げたアイティ関連の会社の倒産、子供の私立から公立への転校といじめの問題、フリーの雑誌記者の離婚、認知問題、認知症の老人の介護問題とどれも今の時代には身近で身につまされる話ばかり。

でもそれぞれが右往左往しながらも、活路を見つけていく。よかった、よかった。特に長男の克郎は、祖母のところへ来る訪問介護員と結婚することになり、家族全員が仰天する結末は私も安心した。そして、父親を初めてとして、成員が皆過度に干渉しない、責めない、あせらず時期を待つという、今の時代には得難い徳目を身に着けていると私は思った。普通はもっと煮詰まり、こじれがち。先の見えない時代の家族はこうありたいもの。

それもまた広い敷地と二棟、物置などのある家があるから。衣食足りて礼節を知り、住があればなお良しというお話でした。

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孫を預かる

2012年06月16日 | 暮らし

息子夫婦がよんどころない事情があり、今夜まで孫娘を預かる。

昨夜はご飯食べたら眠そうにしているので、風呂に入れたけどそれから目が覚めて、遊びまくる。遊んで、遊んで、また遊ぶ。

親を恋しがるでもなく、時々思い出して口にするけど、「お仕事よ」「ご用があるのよ」と言うとまた遊びに戻る。

最後はyou ubeでアンパンマンの動画をエンドレスで見る。横で転寝しながら次の動画をクリックする私。12時過ぎてもまだ見ているので、寝かしつけようとするとものすごく泣いた。泣いたけど、布団に入れたら諦めたのか泣き寝入りした。親のいないのは泣かないけど、アンパンマンが見られないのには泣くなんて、あんたにはどっちが大事???

今朝は元気に起きて、食べて、遊んで、雨の中、私と一緒に紙オシメも歩いて買いに行った。

孫が泊まってくれて知った癖の一つ。布団の中に大事なおもちゃを入れて一緒に寝ること。これって、先日結婚した三男が同い年のころよくやっていた。布団をはぐると、バラバラバラッっと大事なぬいぐるみが転がり出たもの。

昨夜は泣き疲れて夫の布団で寝かしつけたので、夫が寝るとき、おもちゃ一式を布団から出していた。自分たちがまだ30代前半で三男が帰ってきたように錯覚するけど、その三男はどうしていることやら。新婚家庭に不要不急のメールをするのは野暮と言うもの。初めての週末、幸い雨だし、いえでのんびりしてください。

写真は結婚式場の近く。長者とは縁起のいい通りでした。日曜日の問屋街、ほとんど人通りはありません。

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怒られるかな

2012年06月15日 | 暮らし

顔が見えないし、お目出度いことなので息子よ、許してください。

息子は特に小柄ではありませんが、174センチくらい?お嫁さんがすらりとした人だし、かかとの高い草履なので同じくらいに見えます。

袴は行燈型なので、あまりそれらしくないのが残念。

式場から退場しています。

今夜から孫娘を預かります。初めて一人でお泊りするので責任重大。泣くかな?泣いても放置。泣き疲れたら諦めて寝るでしょう。保育園に行っているので、人見知りはあまりしません。ただもう重いので、「ばあたん~♪」としがみつくのだけはやめてもらいたいもの。前の時は翌日寝込んだ。およよ。

 

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名古屋城、表書院の再建工事

2012年06月13日 | 旅行

結婚式の翌日、実母が「名古屋城へ行きたい」と言うので連れて行きます。タクシーで乗り付けたら早すぎて、まだ門が開いてません。石垣は築城当時のものらしく、あちこちに目印が鑿で彫ってあります。17世紀に入っての石組みは石の切り方が幾何学的な印象です。広島城とはだいぶ違う。。。などと思ううちにやがて開門の時刻。

天守閣へと向かう。五層まではエレベーターがあり、残りは階段です。母も何とか登りました。戦災で焼けた天守閣は1959年に再建されました。鉄筋コンクリート造りの、レプリカです。

ちなみに私はこういうものに一切興味がありません。観光地にある立派なもの、大きなもの、きれいなものは常に避けて通ります。名古屋では熱田神宮、京都だと平安神宮とか、鹿苑寺金閣などなど。おそらく、自分が立派でも、大きくも、きれいでもないからでしょう。庶民の暮らしの感じられる場所、先日の屋根神様のようなものにめちゃくちゃしびれます。

人に誘われて、あるいは人を連れて行かざるを得なくて泣く泣く尋ねる有名観光地。帰るころには団体客多数。

天守閣は母のお供で軽く流して、門へと引き返す途中でプレハブの大きな作業小屋がありました。

檜にホゾを刻んでいます。ちなみに「ホゾを噛む」って、何が語源でしょうか。

チョウナで大きく削り、表面はカンナで。カンナ各種。場所によって使い分けるのでしょう。

墨入れ。糸車に巻きつけた糸を、墨を付けながら引き出し、材木の表面に直線の印をつける道具です。昔は大工さんは誰でも持ってたけど、最近はこんな伝統工法の現場でしか見られません。

最後の部屋では、部材がうまく組み立てられるか、実寸で確認しています。

道具を洗う場所。何事も道具が肝心。

再建するのは表書院、そのほか。こちらも戦災で焼けたそうですが、コンクリではなく、伝統工法のようです。いわゆる宮大工による工事。

完成の暁には桃山風の華麗な建物が現れることでしょう。

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昔の結婚式

2012年06月12日 | 歴史、社会、家族

40以上前、高校時代の友人の結婚式に出たことがある。

新郎は東京の某国立大学一期校を卒業して、一部上場の企業に勤めるエリート、お見合いで知り合って友人は22歳だった。式は新郎の育った家で。いつごろからだろう、家で冠婚葬祭をしなくなったのは。

友達同士3人でタクシーを乗り合わせて着いたお宅は、(もしかしたら友人の家で花嫁支度をするのを見て、それから一緒に行ったのかもしれない)深い山の中。前は谷川、後ろは山が迫った狭い土地に母屋と納屋と、もしかしたら牛小屋もあったかもしれない。

式はどんなだったか。たぶん親戚の前で固めの杯を交わすようなものだったと思うけど、そちらは参加しなかったのか記憶にない。

披露宴は演出は一切なく、座敷でお祝い膳をいただくものだった。仕出し屋さんの料理だったのかも。海苔巻とか、澄まし汁とか、刺身とか、焼き魚とかあったかもしれない。全部忘れた。

唯一憶えているのは給仕をしていたご近所の方に「おつゆのお代わり」をいただいたこと。それは庭先に大きな竈を臨時にこしらえ、大鍋で近所の人が作ったものだった。具だくさんのおつゆで、ピンクの蒲鉾が汁から顔を出していた。あの時代の精いっぱいの御馳走だったと思う。他にも赤飯とかは自前で作ったのかも。

式が終わって、庭先で留袖姿の新郎のお母さんが近所の人からねぎらってもらっていた。お父さんは早くに亡くなり、女手一つで育てた息子さんのようだった。地域の全体で結婚を支え、祝う。小さい時から知っている地域の人に結婚を披露する。結婚式って元々そんなものだったはず。

昔がよかったと言うつもりはないし、だいいち当時の私は、手作りの田舎風の式なんだなあとだけの感想。

友人によると「町の式場でした方が安くついた。でもあの辺りは家でしないといけなくて」とのこと。ご近所の人にもご祝儀を配ったりして費用も掛かったのかも。人と同じようにするのもそれぞれの家の事情があるから大変である。

今は式場がほとんど。業者の独壇場。高いのか、安いのか。「一年間はおかゆをすする」と笑いを取っていたわが息子。

そういえば式には会社関係の方やたくさんのお友達が来てくださっていた。会社で何をしているのか、上司の口から初めて知った。19歳で家を離れて10年間、どんな友達とどんな遊びをしていたかもようやく知った。ノリのいい楽しい式だった。

皆さんに祝福していただいた日のことを忘れず、二人でいい家庭を築いてください。

着付けの時間に早かったので、新郎の母は、近くの店で洗える半襟を買いました。お嫁さんはうさぎなんでしょうか。

最後にもらった花。自宅まで持ち帰る。

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やれやれ終わった

2012年06月11日 | 暮らし

 

拍手で迎える孫娘

さらに手をたたく

後ろ向きになって新郎新婦を目で追う。

私もいつかはきれいなドレスを着てお嫁さんになるんだ。。。。


 

前後に一泊ずつして、結婚式も二泊三日の長丁場。今日の午前中、実母へ連れて名古屋城へ。天守閣の展望台まで上がってまだまだ元気な母でした。

娘=嫁=姑(とは私のこと)、つくづく疲れました。おっと、妻だと忘れてた。忘れたい毎日。。。

手前は次男です。

 

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団塊の世代

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