日記

日々のあれこれ
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姑と話をする

2010年06月29日 | 暮らし
昼前、お姑様のところへ頼まれた買物を届け、ついでに二人でこの一か月の反省会をする。
姑が居てよかった…ときょうほど思ったことはなかった。孫子のことを心配するのも姑ならばこそ。

昨夜遅くお嫁さんからお礼のメール。素直ないい子です。二人が仲良くやってくれれば私はそれでいいんだけどね。

姑との話の中で「私は、母乳がよく出たので片手で抱いて左側を飲ませ、右手で上の子供にご飯を食べさせていた」そうで。知らなかった。初めて聞いた。
でも私の母乳の出が悪かったときも、「ミルクを飲ませてしっかり大きくしなさい」と言ってもらった。
「私の頃の子育てに比べたら今は。。。」などと言わないのが姑の偉いところ。私も見習おう。
便利に、平和に、豊かになるのはいいけれど、人間が劣化しないよう、私自身のこととして気をつけたいと思います。いいことを見習い、悪いことには自分の心の平安のために近寄らない。まあ、きょうのところはこんな感じ?

きょうは次回の古文書講座の予習、三次藩断絶関係の文書だそうで、筆文字が半分くらい読めない。やばい。いくら眺めても分からない。古文書解読辞典は買うには高いし、文書館へ一度、予習に行きますか。雨続きで億劫だけど。

昨日の知人の話、「孫は来てよし、帰ってよし。私だって産後の娘が帰ってくれて有難う~って感謝した」そうで。

孫はあまりに息子にそっくりなので、息子の女の子版という不思議な感じだったけど、所詮は私の子供ではない。元気に育つのを離れて見守るだけでいいのでは。

写真は斑入りの「イタドリ」。園芸種?広島空港隣の三景園で。


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紙オシメ、布オシメ

2010年06月24日 | 暮らし
えー、27年ぶりくらいに赤ちゃんのオシメ替えてるわけですが、この間のオシメの発達には目を見張るばかり。よくできています。

10年くらい前までは、紙オシメか布オシメかなんて、新聞の投書欄で見ましたけど、最近はとんと見かけません。

使ってみてよく分かりました。何でそんな議論がなくなったのか。これはもう超ハイテク、科学技術の勝利です。昔も紙オシメってありましたよね。あの頃、お祝いの箱入りベビー服の緩衝材みたいに2,3枚行ってたのと、今のオシメはぜんぜん違う。

マジックテープをきちんと止めてさえ入れば、まずもれませんね。確か水分をゲル化して固めるとかそんな仕組みじゃなかったかしら?
昔は赤ちゃんのお腹がゆるくなったときには、オシメカバーから出ることもあって、服から寝具から洗濯してたけど、いまのところそういう事故は一切ありません。
だから洗濯も拍子抜けするほど少ない。

「オシメ洗ってこその母親」なんてアナクロな精神主義をいまどき主張する人もいないと思いますが、万一いたら、例えば年子の二人が流行性の下痢にかかって点滴をしながら、一日何度も着替えさせ、山のような洗濯物を冬空の下どうやって乾かそうかと困るという体験をしていただきたい。(それは29歳のときの私です)

車を手放して自転車に乗るとか、テレビが壊れたので家族で本を読んでるとか、人のやり方はそれぞれだけど、オシメの洗濯から産後すぐのお母さんを解放した紙オシメはこれからも進化して広く浸透すると思う。たとえ布オシメより高くついても。

私の祖母は、真冬に生まれた私の父のオシメを近くの小川へ持って行き、川に張った薄氷を割って素手で洗っていたそうです。昔のお母さんはそれぞれに苦労していたのです。

私の子育て時代のオシメのことをお嫁さんに話したら、「昔は私みたいに産後すぐの人がオシメ洗ってたんですねぇーーー」と感に耐えないようす。今の人は昔の苦労などしなくていいんだよ。昔の苦労を知って今に感謝しなさいなんて、周りが説教することでもないし。

私が生まれたのは戦後のまだ充分にもののない時代、親戚中から古い浴衣などをもらい、オシメを作ったと母から聞かされた。

で、今ふと思ったんだけど、布オシメどういう風に当てるんでしたっけ。二枚一組で、前と横から、あとはカヴァーして。うーーーむ、思い出せない。目の前から消えると記憶もなくなるという例ですか。。。世の移り変わりの速いこと。しみじみ。

写真は広島空港レストランで。三景園のチケット提示で10%OFFです。
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お産の話で盛り上がる

2010年06月23日 | 暮らし
先日の記事に、二人の方からコメントいただいた。ミルクを飲ませすぎたお話、ミルクを飲ませられなかったお話、どちらも大変参考になりました。本当にありがとうございました。

けさお嫁さんに「押し付けになってはいけないので、自分の子供は最後は自分で判断してね」と言うと、「よく出るようになったのでミルクを足しながらこのまま頑張る」とのこと。マッサージの予約もこれからは自分で入れるように話した。

今朝は実家の母から浴衣二枚、おまけに店で買った服が二枚と下着が三枚届いた。ひ孫の服を買うなんて、うらやましい。長生きできてよかったね、お母さん。

で話は戻るけれど、人の生まれるときと亡くなったときには、その家の考え方、生活の仕方、人間関係などが一挙にあらわになる感じですね。

きょうはとりあえず自分のことを書いておきます。と言っても私はかなり特殊なケースかも。なにしろ三人の息子はお舅さまに取り上げていただいたんだから。お舅様はお産の業界の人、こちらも何も思わずお願いしたけれど、身内の出産はきっと大変なプレッシャーだったはず。今になれば分かります。

夫は私より30センチばかり背の高い大男、子供が華奢な(←どこが!!!と自分で突っ込む)私の体の中で育ちすぎては大変と、三人とも分娩誘発剤で早く生まれました。詳しくは聞いてませんが、難しいお産では過去に大変な結果になったこともあり、それを心配したのではないかと思います。

ことほどさように、医師が身内を診るのは難しいのです。心配しすぎるか、高をくくるか、なかなか冷静に対処できません。まあ、たいていは高をくくってれば治りますけど。
うちの子供三人、夫は人様の子供を診るのに忙しく殆ど放置。軽い風邪なら、薬局のシロップ剤とあとは気合で。

えー、何の話でしたか。産後すぐから動かないといけない人、ゆっくり養生できる人と出産は同じでも後は大違いです。

わが母は実母がいなかったので手伝いにも来てもらえず、翌日から這うようにしておしめを洗ったとか。長男として大事に育った父は頼んでもしてくれなかったそうです。それを今でも忘れずにいるようです。

私は、三男のときは夫が仕事の忙しい時期で、殆ど見舞いに来てくれなかったのが今でも悔しい思い出です。でも隣の親の家、深夜その気があれば1分もかかりません。あーーー腹立つ。いまでもネチネチねたにしていじめます。

姑は、大家族で兄一家とも同居。初めての自分の里帰り中、お産の手伝いに来た兄嫁のお母さんが、姑の大切なよそ行きの下駄を突っ掛け代わりに一月ほど履いて、履きつぶしたことを覚えていました。もののない時代、一足の下駄がどんなに大切だったことでしょう。

お産は女の一大事、どんなことがあったかずっと覚えているものです。今のお父さんはたいてい優しいけど、用心するに越したことはありませんね。

先日の浴衣、着せたけど、暴れてます。
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忙中にも閑あり

2010年06月23日 | 暮らし
毎年行っている三景園あじさいまつり、着物か浴衣でお茶とお菓子がもらえる。
いやしい私は着物で行きたかったけど、今回もやはり服で。

朝、お嫁さんと夫の昼ごはん作って出かける。夫は家の隣で仕事しているので、何かあったら内線で呼ぶようにと言い残す。たまには姑がいないのもいいだろうと。

アジサイもさることながら他の花や、本来そこに生えるべき山野草(公園的には雑草扱い?)が面白かった。おいおい紹介します。去年はシャラノキ(別名ナツツバキ)を冬の椿の写真として使っていたので、あとでメールしたら早速変えると返答をいただいた。今年のパンフレット、貰わなかったので変更しているかどうかは未確認。

夜、夫にかわって私がはじめて入浴させた。自作のガーゼのタオルでくるみ、しっかり抱いていると怖がらない。胸に抱いて洗っていたら、私のおっぱいを吸い始めたので笑った。出ないのですぐ諦めたけど。

世話をする分可愛くなる。風呂いれたので前より可愛くなった。夜、お嫁さんにミルクを任されたので、90+60飲ませてやっと寝てくれた。やれやれ。

縫った浴衣はかいまきみたいに被せると暴れても外れず具合がいい。自分の子供じゃないので、何を着せるか着せないかはお嫁さんの一存だけど、これからも自分の好きなものも着せさせてもらおう。
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何でか知らんけど、1キロ痩せた

2010年06月21日 | 暮らし
一週間ぶりに自分の体重はかったら1キロも痩せていた。

びっくり。この一週間、野菜中心の質素な食事。肉は鶏の手羽先(すみません、ささみの書き間違いです)とか胸肉(私は鶏肉あんまり好きでない)、しゃぶしゃぶのみ。あとはひたすら白身の魚。
おやつもおかきとか、餅、饅頭の類。ケーキなど洋物は一切食べない。
パンにもバターを塗らない。
初めはひもじかったけど、すっきりとお腹がすき、体が軽くなったよう。
ご飯はそこそこ食べています。

お嫁さんに母乳を出してもらうためのメニューですが、肝心の赤ちゃんの体重の増え方はイマイチ。
私は情に流される祖母なので、赤ちゃんがひもじくて泣いているのに母乳だけで済ませるなんて絶対反対です。泣いている姿を見ると、辛くて胸をえぐられるよう。お嫁さんの居ないところで、母乳を勧める夫に文句付けまくっています。お嫁さんに言うのは遠慮してますけど。

足りないときはミルク足してますが、もっとたくさん飲ませんかい!!と言いたいのをぐっとこらえています。なんでもミルクは一日三度までだそうで。理念で子供は大きくなりませぬ。私は現実主義者です。

自分の体重が減るのはそりゃ嬉しいけど。。。。。
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孫は可愛いって言うけど・・・

2010年06月16日 | 暮らし
ほんとかな?
もちろん可愛いけど、私の場合、自分の子供とはぜんぜん違う。
正直に言います。赤ちゃんのときの自分の子供ほうがずっと可愛い。

けさは出かけていたが、途中、何でだろうと考えていた。

思うにこれは、手をかけた分だけ可愛くなるという自然の心の動きだと思う。
自分の子供は自分が大きくしないといけないと必死、そのぶんのめりこんでいたと思う。
子供がほめられると自分がほめられた気になり、子供が病気だと自分も病気になるほど心配していた。

でも孫は間にお母さんがいるし、おじいちゃん、おばあちゃんも二人ずつ、私の一存で手や口を出してはいけないのである。
子育てにdouble standardはよろしくない。何事も両親の意見を尊重し、困った時には側面から相談に乗る、サポートするでいいのではないかと思う。

孫はかわいいけど、子供の時よりはずっと冷静。母親とは愛情の質が違うのでは。母親のように愛情をかけるのは、体力、気力がいると実感する毎日。

がしかし、いろいろな質の愛情に囲まれて子供は成長するべきだと思う。たくさんの人に好かれたことが、その子の生きる力になると思うから。


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母乳原理主義それから

2010年06月15日 | 暮らし
毎食、具沢山の味噌汁を。煮しめに餅、団子汁、白身魚に鳥のささ身、和菓子に熱いほうじ茶。でんぷんをしっかり。

禁忌。コーヒー、紅茶、緑茶、刺激物、冷たい飲み物。
控えるもの。焼肉、天ぷら、夜の果物、甘いもの。

だそうです。要するに昔ながらの食べ物を薄味で。今まで料理も手抜きの限りを尽くしているので大変ですが、付き合って食べるうち、すっきりと気持ちよくお腹がすき、体が浄化されたよう。

とそこまではいいんだけど、目が疲れるのでテレビと読書は禁止。携帯のメールなんてもってのほか…は若いお母さんには辛いかも。

昭和三十年代の、藁葺き屋根の農家、軒先に柿の木、(私の実家は藁葺きでもなく柿もありませんでしたが)遠くからやってきた親戚ののんびりとした声、年寄りの遠い時代の話。まどろみながら聞く私。そんなことをふと思い出した。

そうそう、子供を生んで育てているときは、自分が胎生動物で、哺乳類で、自我なんてちっぽけなものはどこかへ吹っ飛んでしまうほどの身体的経験。

「ああ、みんなこうしてきたんだなあ」と、体の奥底から深く納得する日々でありました。
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母乳原理主義

2010年06月13日 | 暮らし
そりゃ、人間の子供だから人間のお乳が成長にはいいに決まっている。赤ちゃんが頑張って吸ってくれて、お母さんが出す努力をすれば出る場合もあるし、何の努力をしなくても溢れるほど出る人もいるらしい。

がしかし、基本はあくまでも赤ちゃんが元気に育つこと、お母さんがゆったりとした気持ちで心身が快復してこれからの長い年月、子育てを楽しくすることだと思う。

昭和30年代でしたか、各地で赤ちゃんコンクールというのがあり、粉ミルクを飲んで大きくなった赤ちゃんの大きさを競うことがよく行われていた。
それはちょっと行き過ぎとしても、母乳の出にくいお母さんは何も肩身の狭い思いをすることはないと思う。

和食中心の粗食だと乳腺が詰まらずによく出るという話もあるけれど、何ごとにも例外はある。例外は例外で、全体に敷衍できないけれど、私が26歳のころ、ある年配女性から聞いた話。

私は広島県の山奥の村に嫁いで、子供をたくさん生んだけれど、最初の子はどうしてもお乳が出なくて死なせてしまいました。そのころ、「鷲印の練乳」というのがあってそれを水で薄めて飲ませるのだったけど、現金収入の少ない山村では遠慮して、それを買ってほしいといえなかったんです。
子供には米の汁(どんなものかは聞き漏らした)を呑ませたけど、二十日くらいで体が真っ白になって死にました(!!!!)
二人目からはお舅さんに頼んで「しょうがないわい」とやっと買ってもらえました。
(全てnative広島弁で)

あの方もとうに鬼籍に入られたと思うけど、赤ちゃんを毎日見ているうちにふとそんな話を思い出した。昔の粗食でも出ない人は出ない。出ない人を責めてはいけない。

だからなにごともほどほどに。母乳が出ないことにコンプレックスを感じたり、出ることをことさら誉めそやしたり、お母さんを追い込んだり、それはいけませんね。
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赤ちゃんの着る物

2010年06月13日 | 暮らし
新生児は眠っているか、抱かれているかの毎日。着ているものは、体を適度に包んで動いても手足が出ないで通気性のいいこと。これが条件だと思う。

でも、あらら、どのお店に行っても昔のような着物のような長いドレス、売ってないんですね。私の子育てのときはまだそんなものが市販されていたように思うし、母がたくさん縫って送ってくれた記憶がある。

どこを探してもないので、縫うことにした。母が来ていたので一緒に生地を買いにいき、着尺の幅約37センチに断って着丈を二つ折り、首と前を開けて、あとは衿と袖を付けたらいいそうな。赤ちゃん用には奥身は付けないとか。

あとは自分で縫うつもりだったけど、急速にめんどくさくなって母が持って帰った。縫って送ってくれるそうで。
いけませんなあ、ばあさんは縫い物下手。ひいばあさん頼りでは、今後が思いやられます。
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古文書入門講座へ行く

2010年06月13日 | 暮らし
昨日は県立文書館の古文書入門講座に行く。
若い頃、勉強すればいいものを、そのころは生意気盛りで「実証主義なんてナンセンス」と近寄らなかったので。

でも、でも、学問って実証に基づかないものなんてありえない。それが今になって気がつく私。

三月に申し込んで、そのあと新生児とお母さんが我が家に来る事になって、でもきょうは初回なのででかけた。留守の間に案の定お客様が三人、メール見て慌てて帰る。

新生児は毎日抱いて遊んで、話しかけて、オシメ替えて、服着せて、お人形みたいに小さい。でもオツパイだけはお母さんの担当。
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結局は古来からの方法で

2010年06月11日 | 暮らし
ベビーバスも洗面台もやめて、夫が赤ちゃんを風呂にいれることにした。
男の大きな手は赤ちゃんを扱いやすい。
「体が密着していると怖くない」そうで、そう言えば三人の子供も時間のあるときは入れてもらったことを思い出した。

でも仕事で遅くなるときは洗面所に全部セット、洗って拭いて着せて、自分のことは後回し。何でもやれば出来るものだけど、若い人に「私の頃の子育ては…」などと自慢も強制もしない。自分がされて嫌だったことを思い出し、同じことを人にはしない。

午後から、赤ちゃんと昼寝する。座布団に対角線に寝かし、私はその横で眠る。夢と現実の間で、寝ているのが自分の子供で、自分が30歳くらいに錯覚する。この不思議な感覚。

もう一度若くなって子育てなんてしたくないけれど、今産まれた子は21世紀の後半、長生きしたら22世紀まで見るとしたら、子供って未来への伝言のような。

いまよりずっと平和で豊かな世界になっているといいなと思う。

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「高く手を振る日」 黒井千次

2010年06月10日 | 読書
年寄りだって恋をする。年寄りにしか出来ない、しみじみと味わい深い恋をする。
人は一人、でも時には誰かに必要とされている、誰かを勇気づけたいと思う。それは年齢には関係ない心の動き。

あらすじ
浩平と重子は大学のゼミの仲間。雨の日、一つの傘に入って弾みでkissした遠い日。友人の葬儀で再会し、息子と娘婿の勤め先が同じという縁で何年かのち、連絡を取って会うことになる。

恋は障害が多いほど盛り上がる。若い頃の恋は親の反対とか、遠距離とか。
年寄りは年寄りであることに付随するさまざまなことが恋を盛り上げる。

重子の息子一家はロンドンに赴任し、重子は八ヶ岳山麓の老人ホームへ入ることになり、最後に、思いがけずに浩平に家に挨拶に来る。

夫婦でもなく、単なる茶飲み友達でもない微妙な距離。洗濯物を取り入れて、椅子の背に広げてなどとするうち、重子がつまづいて浩平に倒れ掛かる。ソファーの上でのプラトニックなkissは、しんみりと美しい。年寄りだって生きている生身の人間、生きている限りは人を好きになる。素晴らしいことだと作者は言いたいのだろう。

つまづいて抱き合うなんて、話が都合よく運びすぎなどというなかれ。70過ぎの年寄りならそりゃ転ぶこともあるでしょう。クライマックスのラヴシーンはうまくかけてると思う。

私は年寄り、年寄りといいすぎたかも知れない。世の中に年寄りというまとまった人種がいるのではありません。あんな人、こんな人、それぞれに個性的。個性的なそれぞれの人が歳取っただけ。

純情なおじいちゃんと凛としたおばあちゃんの美しい恋の物語でありました。最後に別れるとき、高く手を振ることから題名は来ている。年取ってこんな恋ができたらいいなあ。

付き合って、籍は入れないけど介護してくれたらなんて話になったら興ざめだけど。

写真は東海道本線京都府内、山崎駅前の国宝「待庵」前。千利休produce。2005年秋秋写す。
今治市にこちらの茶室を写した建物があるそうです。
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「ひとりの午後に」上野千鶴子

2010年06月08日 | 読書
学者なので「考えたことは売るけれど感じたことは売らない」著者が、自身の生い立ち、青春時代、自分の好きなもの、年齢を重ねてのこれからの生き方など、正直に書いたエッセィ集。

ここには、社会学者、フェミニズムの旗手としての舌鋒鋭い語り口とは別の、優しく思いやり溢れる、しかしながら毅然と自立する著者の姿が映し出されている。
私は、同じ時代の空気を吸ってきた同世代、そうそう、そんなこともあったと読めるのも楽しい。

「こんなに肩肘張って大丈夫?」というのはたいてい男性側から。著者の本を読むと、男性に都合のいい女性であることにいつの間にか馴らされてきた自分に気がつく。ひとりだって別に悪くない。配偶者と死別しても、まあなんとかなるだろうという勇気ももらえる。

NHKの「おしゃれ工房」に連載したのをまとめたもの。学術論文とは違う、柔らかな物言い、文体。読みやすいです。

写真は全然関係ない、昨年末の広島基町クレド。この時、クリスマスだからと白大島着て出かけたら、わずか一回で衿汚れに。先日、洗いに出したのが戻ってきたけど、白い着物はもうこりごりと思うのでありました。太って見えるし。

きょうの一句
「出産の嫁への差し入れで義母太り」

意味*
出産後のお嫁さんが赤ちゃんと来ています。夜中の授乳でおなか空いたらかわいそうと、私が買うほかに、お姑様、お嫁さんの実家、私の母などからお菓子が届きます。一緒に楽しく食べてめでたし、めでたし。
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菊池寛@高松

2010年06月07日 | 旅行
高松市の中心部、中央公園の一角に銅像があります。生家はこの近く、没落士族の生まれで高松中学時代は新しくできた市?県?の図書館に通いつめ、全ての蔵書を読破したという逸話が残っています。

菊池寛は流行作家としての側面のほかに、文藝春秋社を創設、作家を育成するため芥川賞、直木賞を作るなど、その後の文壇の枠組みを作った人。地元では顕彰するためにこの銅像のほか、市立図書館の入ったビルの1フロアーを菊池寛記念館とし、資料の保存、研究などをしています。
また20年くらい前、高松市が菊池寛全集を発刊しました。

これら顕彰事業には、地元で同人雑誌を主宰されていた故N田氏の長年の運動が発端となっています。

文学なんてお金にならない一部の人の道楽、と世間はだいたいこんな扱いですが、持続して運動するとその声を行政は無視できないという例だと思います。

この近くには「父帰る」の群像もあります。戦後、青年団活動が盛んだったころ、高松方言で書かれた戯曲は度々上演されたと思われます。
40年前頃の、月亭可朝の「これがほんまの父帰る~」というネタも、広く世間に戯曲の存在が知られていてのこと。和歌で言うと本歌取りということでしょうか。

昨日はbabyを洗うのをさらに簡略化。洗面台に入れて洗った。ちょうどいい大きさ。さっきお姑さんが来たのでその話しをすると、「ここがいい、小さいもんね」ということになった。やれやれ、いい加減な祖母さんで許されよ。
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旅も着物も本も・・・

2010年06月06日 | 暮らし
最近は縁遠くなって。

先日深夜、一人でベビーベッドを組みたてた。約27年ぶり。一部忘れていて焦ったが、何とかできた。

息子三人、みんなここで寝てたんだよね。ついこの間ではなく、ちょっと前のようだけど、月日の流れるのが早いこと。
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団塊の世代

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